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大日如来の里帰り

不思議なもので このブログ書き始めて もう1年と数ヶ月
何 書こうかなぁ~と なかなか思いつかない時もあれば
今日この頃のように あれもこれも・・・と一日何回も書き込みたい時もあります
春になると いろいろなものが「動き出す」からでしょうか?
新聞記事やTV番組、イベント情報、新しく読んだ本などから
興味あることを引いてきて 自分なりにまとめながら書いていますが
今 貯まっているネタは「運慶の里帰り」 「表千家の古希記念」
「星の王子を撃った男」 「浮世絵・広重の時代展」 「京野菜・江戸野菜」
「江戸言葉の不思議」 「ナルニア国へ行ってみよう」など
グシャグシャのギュウギュウ詰め・・・・

仕方ないから 急ぐ方からやって行きましょうか
大日如来の里帰り_f0122653_11404944.jpg今朝のニュースで ニューヨークの「クリスティーズ」のオークションに 「運慶」の大日如来像が出品されたと
言っていました
「運慶」は みなさん一度くらいは聞くか見るか
しているはずです
←これも「運慶」作の毘沙門天像
鎌倉時代(12世紀半ば)以降の ちょっとできのいい仏像は ほとんど「運慶作」になっていますからね
「伝運慶」というのもあって これは 「運慶が作ったらしいよ」ということ
これに加えて 運慶風だの 運慶流だの 小さいお寺にあるものを含めたら
矢田挿雲(やだそううん)が言ってるように
「運慶は 毎日 いくつずつの仏像を造ったものだろう」と 思えます
さすがにクリスティーズに出たものは きっちり鑑定されていますが
(そりゃあそうですよね ヤフオクじゃないんだから)
個人の出品(日本人!)で 数億の値が付くだろうと言う 前評判でした
文化財の海外流出をくい止めようと 各方面 努力したようですが
どうしようもなかったようですねー
しかし フタを開けてみたらなんと!競り合いの末
「12億 7千万」で 日本人の代理人が 競り落としました
手数料を含めたら 「14億」になるそうです
買ったのは 「公表を許されているので・・」と代理人が発表しましたが
なんと「三越」ですよ  やったね 三井高利!
これで 如来像は日本へ里帰りできます
秘蔵されずに 多くの人の目に触れられるようなところに
置いていただきたいですねー

# by tukitodoraneko | 2008-03-19 11:52 | 東京

江戸時代の「東スポ」!?

大河ドラマ「篤姫」の中に 時々出てくる
コロッケさん扮する「瓦版売り」のことを 書いてみましょう
頭に手ぬぐいをたたんだものをのっけて 一段高いところから
にぎやかに さわりの部分だけ言い立てて 瓦版を売っている人です
よく時代劇に出てくる おなじみのキャラですね
しかし実際には 「瓦版」「瓦版売り」と言う言葉は江戸時代には
使われていませんでした
あの 人寄せのための大道芸のようなにぎやかな売り方も
幕末になってからのものです
江戸時代の「東スポ」!?_f0122653_14284072.gif本当は「読売」といいまして ←こんな地味な姿の二人連れでした
顔がかくれるような 深いかさをかぶっていますねー
この時代は 情報統制が厳しかったため
ちょっとでも 禁制に触れることや 根拠のないことを言いふらせば
すぐに「お縄」になってしまいます
二人連れなのも 一人は常に周囲に目を配るためでした
何かあったら すぐ逃げ出せる態勢です
時代劇に出てくる「瓦版売り」は 今で言う「号外」を売る人になっていますが 実際はそうでもなかったのです
なにしろ当時は「新聞」がないんですから 
「号外」がないのも当たり前です
現在 毎日出ている新聞には 
全部「通し番号」が付いていますよね
え?そんなの見たことない? でもちゃんと付いてるんですよ 一面に
この定期の新聞以外に 緊急に刷るのが「外」なんですね
ですから 江戸時代には 読売が売るニュースも千差万別
「読売」第一号は 「大坂・夏の陣」に関するもので
最も多種類 出たのが「安政の大地震」の時だそうです
地震・大火・噴火などの自然災害の場合は 割と早く出ましたが
いつも 災害があるわけじゃないので 普段はちょっとした面白ネタや
見てきたような「化け物」話なども 売っていました
人魚が捕まった話とか どこぞの山に出た怪物を退治した話とかを
挿絵つきで 売り出すのですね
この伝統は 今でも受け継がれています
「河童 発見!」 「つちのこを捕獲!」 「私は宇宙人の子を身ごもった!」
最近でも 目にしますよね 海外のタブロイド新聞や わが国の某紙でも・・・

たまに駅売りの新聞を 買って読むと
江戸時代 争って「読売」を買った庶民の気持ちが分かるかもしれませんよ



 

# by tukitodoraneko | 2008-03-18 15:05 | 江戸のあれこれ

旅立ち 前夜

月曜は恒例になってしまった「篤姫」関連のこと 書いてみます
旅立ち 前夜_f0122653_11383993.jpg大河ドラマの中の時間は ここ何週か
嘉永6年(1852)の6月~8月の間で
止まっています
於一が鶴丸城にいた たった2ヶ月の間のことばかりです
来週にはやっと 薩摩を離れることになりますが 実際に家定との婚礼が行われるのは
安政3年(1856)
なんと4年も後なんですよ
その間に大活躍するのが 西郷さんですね
参勤交代で薩摩を離れられない時が1年交代である斉彬が
西郷さんを気に入り 手足のように使ったからです
実際 この期間 西郷さんは京の近衛家や 江戸の薩摩藩邸を
往復し 連絡係として大忙しでした (おかげで奥さんは実家に帰ってしまいますが)
篤姫の婚礼道具を整えたのも 西郷さんです
あの無骨な顔からは想像つきませんが・・・・
篤姫の婚礼道具についてはまた日を改めて書いてみましょう

江戸詰めを願い出た肝付尚五郎くんは
この時から3年後には 念願かなって「江戸藩邸詰め」になります
それも「奥付き小姓」という役柄で
結婚前の篤姫と 再会できたんですねー よかった よかった

篤姫は 薩摩を離れる時 「桜島」の絵を持っていったといいます
誰が書いたどんな絵か 私は知らないのですが
来週は出てくるかな?
篤姫は 母からもらった金の仏像 尚五郎のお守り
そして 桜島の絵 この三つだけを故郷の「かたみ」として
旅立っていきます
「二度と戻らない」と この時 於一は予感していたのでしょうか

# by tukitodoraneko | 2008-03-17 11:50 | 江戸のあれこれ

「涙雨」じゃなくて 快晴でしたが・・・

本当は昨日 3月15日に書きたかったのですが 一日遅れになってしまいました
この日は 江戸の人なら誰でも知ってる有名なできごとがあった日です
「涙雨」じゃなくて 快晴でしたが・・・_f0122653_159372.jpg時は平安中期 976年のことだと言います
京の公家の息子 梅若丸は
陸奥の人買い 信夫藤太(しのぶとうた)
にさらわれて ここ隅田川のほとりまでやってきました
しかし 慣れぬ旅と恐怖のため 病を得て
ここで はかなく終わってしまったのです
よくある「貴種流離譚(きしゅるりたん)」の一つですね
「安寿と厨子王」なら知ってますか?
身分の高い家の御子や姫が つらい目にあい
旅をしていくお話です
その約一年後 奇しくも梅若の母が わが子を尋ねて
ここにたどり着き 梅若の死を知って 
嘆き悲しみ 塚を築いて弔うのですね
この話は謡曲「隅田川」や浄瑠璃になって
庶民の間に 長く語り継がれていきました
「涙雨」じゃなくて 快晴でしたが・・・_f0122653_15103791.jpg梅若の塚が残る「木母寺(もくぼじ)」は
江戸初期から有名な「江戸名所」の一つです
桜餅で有名な「長命寺」の北に 今も大切に祀られていますよ
東武伊勢崎線の「かねがふち」駅が一番近いかな?
当時は 3月15日は「梅若忌」で 大変な人出になりました
今の暦では 4月中旬になりますが
例年この日は雨になることが多かったため
「梅若の涙雨」と 言われていました
1710年には 「梅若丸 735回忌」の大念仏法要があったという
記録も残っています
この辺りは 吉宗将軍が桜を植えて行楽地になったので
花見がてらに 訪れる人も多かったことでしょう

今でも「梅若忌」は続いていますので(4月15日に)
桜の時期にいかがでしょう
辺りには 古い由緒のお寺だらけで 半日江戸観光にピッタリです

# by tukitodoraneko | 2008-03-16 15:32 | 江戸のあれこれ

風邪をしいたから 布団をひく

風邪をしいたから 布団をひく_f0122653_15503740.jpg最近ふと思うんですが 東京生まれだからと言って
みんな標準語を話すわけじゃないなー と感じます
うちのおばあちゃんは 明治生まれの人で 
世田谷 大原村の生まれ 
「ひ」と「し」の区別が あいまいでしたね
私もこの間 「潮干狩り」と打とうとして何度も「ひお・・・」と打っていたので気がつきました
そういえば かなり大きくなるまで「日比谷」は 「しびや」だと思ってたなぁ
母は 「飛行機」のこと「しこうき」って言ってたし
その母に育てられた私は 馬は「シシン!」と鳴くと思ってたし・・・
それに やたら接頭語を付ける?
「とばす」→「おっとばす」 「つける」→「おっつける」みたいに
こういうのも「江戸弁」なんでしょうか
威勢のいい言葉だけど 乱暴者みたいです
あと 私たちの子供の頃まで 今で言う「美容院」のことを
「かみいさん」と言ってました
これも 今思えば「髪結いさん」ですね
昭和の始めまでは 丸髷に結っている人もいたそうですから
これはそのなごりでしょうか

明治になってから 武家の言葉はそのまま「山の手言葉」として残りましたが 
下町のいわゆる「べらんめぇ」口調は嫌われて
今では 「落語」か「歌舞伎」の中でしか聞かれなくなりました

でも こうやって私の中にも チョッピリ受け継がれているのねー
迷惑だけど・・・・

# by tukitodoraneko | 2008-03-15 16:32 | 江戸のあれこれ