人気ブログランキング | 話題のタグを見る

深まる英姫の謎???

え~ 昨日の「篤姫」見たら 余計に「英姫」ってわからなくなりましたよ
あの顔につけてる「ふんどし」みたいのなんですかね?
一説には疱瘡で顔があばたになったので それ以来
御簾ごしにしか 対面しなかったということですが・・・
深まる英姫の謎???_f0122653_11543517.jpg←この人 あまり資料に出てこないんですよねー
一橋家から嫁に来て 斉彬との子は「お由羅騒動」の時 出てきたように次々に夭折
斉彬の寵愛は 側室・お須満の方が独占状態でした
さすがに江戸を一歩も出てない英姫が
鹿児島育ちの篤姫を生んだというのは 
気が引けたのでしょう
斉彬は 周囲には篤姫の生母は 
お須満の方だと釈明していたそうです
そして 問題の「英姫 実は11代家斉の娘」説なんですが 
この説が載っている資料がわからないんですよねー・・・
「島津家家系図」にも 一橋斉敦の娘 となっています
あと 家斉の子供たちについては 「徳川幕府家譜」
「幕府祚胤伝」などを見ても 該当する娘がいませんねー
英姫が生まれた文化2年に生まれた姫は 晴姫という方が一人で この人はお登勢の方の娘で夭折しています
この二つの資料 家斉の53人の子供を 網羅していますが 家斉の娘たちは 長州藩・鳥取藩・広島藩などにも お嫁に行っています
薩摩藩にだけ 一橋の養女にしてからやったのは 何故でしょうか?
この「家斉の娘」説は これまでも何回かネット上で見かけていたのですが 出典が載っているものが一つもないので 確かめようがありません
ただ 私も前から「家斉の子供の数」が 気になっていました
「江戸文化歴史検定」2級の試験のとき 問題に出ていたんですよ
Q,家斉の子供の数は?というのが
四択で(い) 28人 (ろ) 35人 (は) 46人 (に) 55人
だったので 迷わず55人を選びましたが あれ?
「家譜」に載ってるのより 二人多いですよね
この外にも 本によっては「57人説」もありましたし
記載漏れの子供が まだいたのかもしれません
その中の一人が「英姫」だった ということもありえない話ではありませんね
だから この問題はきちんとした文献が分かるまで
「謎」と言うことでいいでしょうか?
もしも 原典の分かる方がいらしたら お知らせ頂けるとありがたいです

# by tukitodoraneko | 2008-03-31 12:40 | 江戸のあれこれ

英姫登場!

今朝 新聞を読んだら 今日の「篤姫」は「江戸の母君」というタイトルでした
この「母君」は 島津斉彬の正室・英姫(ふさひめ)ですね
英姫登場!_f0122653_15134567.jpg←前回の予告でチラっと見た怖そうな人は 英姫だったんですねー
余 貴美子さんという女優さんがやってますよ
この英姫は 一橋家からお嫁に来た人です
一橋から11代将軍になった家斉の弟で
斉敦(なりあつ)という人がいます
一橋家の三代当主となる人ですね
英姫は この斉敦の娘として文化2年(1805)に生まれました
11代将軍からすれば 姪に当たる人です
先日書いた「松平春獄」とは いとこ同士ですよ
この姫君のおじいちゃん・一橋治斉と
斉彬のひいじいちゃん・島津重豪とは 大の仲良し
だから二人は 小さい時から婚約していました
家斉には 薩摩から広大院が 正室としてあがっていますので
今度は 一橋家から薩摩に嫁に行くというわけです
二人の婚儀は 文政9年(1826)斉彬が18才のとき
英姫は 斉彬より3つ年上の姉さん女房です
当時の決まりとして 正室は江戸を動けませんので
この英姫も 一度も薩摩に下ったことはなく
薩摩そだちの「篤姫」とは 初対面になるわけです
どんな出会いが待っているんでしょうねー
今夜が 楽しみですね!

# by tukitodoraneko | 2008-03-30 15:37 | 江戸のあれこれ

近藤勇 没後140年です

おとといちょっとした「事故」がありまして 一時停電したんですよ
PC開いてたんで 一気に「飛び」ました・・・・ああ・・・・
今も 家族のお部屋のかたすみで ランを繋げさせてもらって
ほそぼそと これを書いています・・・居候はつらい・・・(涙)
でも二日間書かなかったら 書きたいこといっぱい貯まっちゃいましたよ
えーと まず新聞に載っていた「土方歳三資料館」のことです
ここ行ったことありますか?
歳三の生家跡に 子孫の方が自宅の一部を開放して 資料館を開いています 
アットホームですねー (そのままですが)
近くの駅はモノレールかな?「高幡不動」からだと 結構歩きます
ここで あの伝奇長編大作「大菩薩峠」の作者・中里介山の描いた
近藤勇の絵が 4月6日から公開されるそうです
近藤勇 没後140年です_f0122653_1053765.jpg「大菩薩峠」って 若い人は読まないでしょうねー
昔の人は 映画にもなったんで知ってる人も多いかと思います
幕末人間群像とでもいいましょうか・・・
とにかく30年近く(休載も何度かはさんで)続いたのですから もうグッチャグチャです
説明の一切無い「京極作品」みたいな感じでしょうか
文庫になっても 20冊ありますからねー
「三国志」とか「失われた時を求めて」みたいに
入院したら読もう!と 思う本のベストテンに入るかと思います
この本の中に チョイ役ですが近藤・土方ら 新撰組の名前が
出てくるんですよ (新撰組がチョイ役って言うのもすごいですね)
作者の中里介山は 明治16年に同じ「多摩地区」で生まれ育っています
総選挙に多摩7区から 立候補したこともあるそうですよ
この人が描いた「近藤勇」の絵は 
「実際の近藤らを知る土地の古老から 直接聞き書きしたことを参考に描いたのかも・・・」と 土方の兄の子孫である福館長・土方愛さんが語っています
この絵には やはり介山の手で
「確かに多くの人が言うように 恐ろしいヒグマのような顔だ
 この武人は ことごとく仇敵(きゅうてき)を好む」
と 書き込まれているそうです
ふ~ん・・・周囲からは そう見えたんでしょうか・・・

今年は 近藤さん没後140年だそうです
非凡な人の描いた「非凡な人の肖像」
ちょっと見てみたくなってきましたよ
 

# by tukitodoraneko | 2008-03-29 11:22 | 東京

本寿院と 松平春獄の関係

さて 今日は篤姫の姑・家定の生母 本寿院(みつ)と
幕末の名君・松平春獄の関係について 書いてみましょう
御書院番・跡部正寧の娘・みつ がどうして大奥に入ったのか
書き残しているのは 春獄なんですねー
すごく複雑だけど がんばって説明してみるから 着いてきてね
本寿院と 松平春獄の関係_f0122653_11182426.jpgまず11代将軍・家斉は 10代・家治の嫡子が18才で急死したため 急遽 一橋家から徳川本家の養子に入り 
将軍となったのでしたね
家斉には 何人もの弟がいたので 一人は一橋家を継ぎ 一人は「田安家」に養子に出ました
これが 田安家三代の斉匡(なりまさ)です
←春獄は この斉匡の息子・慶永として 文政11年(1828) 田安家で生まれました
だから田安慶永(春獄)は 家斉の甥にあたります
ここまでは いいですか?
はい じゃあ次は家斉の22男・斉善(なりさわ)です
この人は 12代将軍となる家慶とは兄弟の中
幼名は「千三郎」と言って 小さい時はもちろん江戸城本丸で育てられました
この千三郎に仕えていたのが みつの姉・浜尾なのです
みつは たまたま この「浜尾」のところに遊びに来ていて
千三郎の兄・家慶の目に止まり 大奥入りしました
千三郎は やがて斉善と名を変え 越前松平に養子に行き
14代福井藩主となります
浜尾は この時も斉善に付いて行っていますよ
そして この斉善の養子に来たのが 田安家の慶永(春獄)なんですね
家斉の息子のところに 家斉の甥が養子に来たかたちです
二人は養父ー養子の親子関係になりましたが 実際は父親同士が兄弟のいとこ同士になるわけです
あー やっかい・・・・
歳も八つくらいしか離れてないんですよ
そして この斉善が19才で急死したため 春獄はわずか11才で 15代福井藩主になってしまうわけですねー
そして斉善に着いてきた「浜尾」は というと
斉善の死後 「本立院」となって隠居後も 福井家の常盤橋にあった屋敷に出入りし
大奥にいる妹・本寿院とのパイプ役として 春獄の強い味方になりました

どうでしょう?わかりにくい?
春獄は やがて篤姫の輿入れに関しても 大きく関与してきますから
ちょっと 覚えといてくださいね

# by tukitodoraneko | 2008-03-26 12:24 | 江戸のあれこれ

謎の姑 本寿院!

来週の大河ドラマ「篤姫」では とうとう篤姫の姑にあたる「本寿院」が
登場します  高幡淳子さんがやるそうですよ
予告編のときにチラっと出てきましたが あぶなそうな人でしたね
実際にどういう人であったのかは 篤姫・和宮など主役級の人の
陰に隠れて よくわかりません
この人のお父さんは 御書院番 つまり幕臣ですね
篤姫のように正室=御台様になるには 大変な手続きが要りますが
(実子届けや 公家・近衛家の養子にしたり)
側室になるのは 簡単だったんですねー
これは 側室というのが「使用人」という位置だったからです
つまりお給料をもらって 大奥に勤めていたキャリアウーマンってわけですね
謎の姑 本寿院!_f0122653_8455468.jpg ←12代将軍・家慶には 5、6人の側室がいて それぞれに3~5人の子供もできていたのですが
ほとんどが夭逝してしまい おみつが生んだ家定だけが
なんとか育ちました
このことで 家定(まだ政之助といいましたが)が5才になった文政11年(1828) 老女の上座になります 
それでも「大奥使用人」のトップという位置づけなんですね
この後 家定が「将軍継子」と認められてやっと
「御内証之御方」(ごないしょうのおんかた)となります 
かといって これでもまだ「宛行(あてがい=給料)」をもらっているので 完全な「家族」ではないわけです
側室が正式に「将軍の家族」となるのは 
自分の生んだ子が将軍になった時 
それまでは大奥でも影が薄い存在なんですねー
幕臣の娘・みつも 家慶が死に「本寿院」となり 家定が将軍に就任してからやっと「給料」をもらう「使用人」の立場から脱却
正式に「御上通り(おかみとうり)」=将軍の家族となりました
それでも 将軍の娘たちの末席なんですね
家慶や そのまた父・家斉の娘たちも含めて すべての息女の方が
本寿院より 順位が上と決まっていたのです
なんか納得いかないですが この時代は嫁ぎ先がどうであろうと
自分の生家の格の方が 重要視されたんですね
11代将軍・家斉の娘 溶姫は 加賀百万石に嫁ぎましたが
その後も 将軍と御三家しか許されない 行列の時の「下に~ 下に~」というのを
やってたそうですよ
この場合 できるのは嫁にいった姫だけで 夫の加賀候はやれません
ふ~ん・・・江戸時代の身分制度って 不思議ですねー

今は どの家でも「本妻」が 一番強いのにね!

# by tukitodoraneko | 2008-03-25 09:44 | 江戸のあれこれ