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妖怪「べろべろ」?

今日は「食」の面から 江戸時代のこと考えて見ましょう
当時は「参勤交代」があったため 地方の文化がどっと江戸に流れ込み
活発な交流があったと思いがちですが 
それにしては 現在でも全くなじみのない「郷土料理」が 
多数存在するのは不思議です
もちろん早い時期から 全国区になったものもたくさんあります
「讃岐うどん」もそうですし 「仙台駄菓子」とか「しっぽく料理」なんて
誰でも知っていますよね
ところが 最近TVで 県ごとの特異性をテーマにした番組をやってるんですが
これで一番びっくりするのが 「食文化」のちがいなんですねー
九州のどこかの県では 「いそぎんちゃく」を揚げて食べるっていうのも初耳でした
それから 大阪の「紅しょうがの天ぷら」 
天ぷらにはつきもので 町中の惣菜やでも売っているんだそうです
あと 岡山の「フナめし」 これは魚の鮒を ミンチにして
野菜と一緒に煮込み ご飯にかけるそうです
岡山では 一般的なんだそうですが 他の県では食べないってことは
みなさん 知らないんですねー 不思議です・・・
あ、でも私も関西の人が 納豆たべないとか「とろろ」を食べないって
知ったの大人になってからでした
あと おでんの「ちくわぶ」って 関西にはないそうですね
こんな風に あるものは「全国区」になり あるものはその地方だけの「食文化」に
とどまるっていうのは 考えて見れば不思議なことです
昔は冷凍技術がなく 輸送できないものが 全国区になりえなっかったのはわかりますが
妖怪「べろべろ」?_f0122653_1445387.jpg←じゃあ これはどうでしょう
これは石川県 加賀百万石の地の郷土料理
「べろべろ」と いいます
うわー 初耳ですよ なんか妖怪の名前みたいですね
これは別名「えびす」ともいい 
ふわふわのたまごを 寒天で固めたものだそうです
味付けは「砂糖・しょうゆ」のものと 「塩・薄口しょうゆ」の二通りあるようです
正月や 祭りにはかかせない料理だそうですが
石川県以外のみなさん 知っていましたか?
少なくとも 三代以上東京在住の私は 初めて聞きました
別に タマゴも寒天も この地方独特の特産品ではないのに
なんで この料理は石川県だけのものであり続けたんでしょう?
不思議ですねー
こんな風に ご当地だけの「知られざる料理」
まだまだ たくさんあるんでしょうねー
食いしんぼの私としては 興味がつきないですよ
「食文化」から 時代を知ることも なかなか楽しいことですね
「この料理は うちの県だけじゃない!?」っていうご自慢がありましたら
教えてくださいね

# by tukitodoraneko | 2008-04-12 15:00 | 江戸の食文化

寒天と 島津の殿様

お菓子の話から 引き続いて「寒天」の話に入ります
練り羊羹の材料・寒天は 海草のテングサからできているのは知ってますか?
テングサの煮汁を固めて 細長くしたら「ところてん」ですね
これは かなり早い時期に 中国あたりから入ってきていました
当時もっとも「海外旅行」をしてた僧侶によってもちこまれ
精進料理として広まっていました
この「ところてん」から「寒天」になるまでには 実は「薩摩の殿様」が関係してるんですよ
寒天と 島津の殿様_f0122653_8423141.jpg寒天は ところてんを乾燥させて 
徹底的に水分をぬいたもの
これを 水でもどすと凝固作用を発揮して 
ゼラチンと同じ働きをします
ゼラチンは動物性のコラーゲンですが 
こちらは海草なのでミネラルや食物繊維が
たっぷりなうえ なんとカロリーゼロです!
ちょっと前 海外で「ダイエット食」としてブームになりましたが
せっかく 日本産の食材なんで 
私たちもうまく利用したいですね
さて その「寒天」の生産地は 不思議なことに岐阜や長野など
海のない地域ばかりです 
一つには 一日の寒暖差が大きい気候が 寒天の乾燥に適している
という点もあるのですが もう一つおもしろい言い伝えがあるんですよ
 万治元年(1658)といいますから江戸の初期
参勤の途中 伏見に泊まった島津の殿様が 食べ残したところてんを
地面に捨ててしまいました
翌朝 このところてんが寒さで凍り 透明になっているのをみた一人の男が
これを 再び煮とかしてみたのが 「寒天」のはじめでした
万治のころの島津の殿様といえば 2代藩主・光久です
この人が いわば「寒天」の生みの親の一人ってわけですね
それ以来 今でも「寒天の生産量」の8割りが岐阜で作られています
おかげさまで 篤姫も 現代の私たちも おいしい「和菓子」が
食べられるんだから 島津光久は和菓子の恩人ですかね
これからは 和菓子食べる時には 心の中で感謝しましょうね

# by tukitodoraneko | 2008-04-11 09:14 | 江戸のあれこれ

江戸の菓子は美味じゃのう!!

この間の日曜 法事がありました
帰りにもらったおみやげが 「鶴屋吉信」のお菓子で
「創業 享和三年」と 書いてあったので ちょっと江戸時代のお菓子のことが気になりました
大河ドラマの中で 篤姫が 「江戸の菓子は美味じゃのう!」と
喜んで食べていた 英姫からの「お菓子」
あれはどこのお菓子だったのかな? ちょっと調べて見ましょうね
江戸の菓子は美味じゃのう!!_f0122653_1363553.jpgこの時代 最も高級なお菓子は「練り羊羹」でした
今の「羊羹」と同じ 寒天が入ったものです
これが出来たのは 寛政ころ 江戸の末期です
それまでは「蒸し羊羹」しかなかったんですよ
練り羊羹は 爆発的にヒットして 値段も
蒸し羊羹の2倍
一棹(ひとさお)銀2匁(もんめ)もしたそうです
2匁=銭140文くらいですから そば1杯16文の
時代 かなりの高級品ですね
幕府御用達の菓子商は 「金沢丹後」が有名です
島津藩でもここのお菓子を使っていたこともあります
当時は 幕府や諸藩の「御用」を 承るのが第一なので
そのために 奥の女中たちに お歳暮・お中元の付け届けをするんですね
いわゆる「わいろ」です
出入り商人に関する決定権は 「奥」にあったということがよくわかりますね
それでも いろいろと競争があって 「金沢丹後」は一時 薩摩藩御用を
「凮月堂」に奪われています
「凮月堂」は あの寛政の改革の松平定信が 店名をつけた店です
今でも 凮月堂のゴーフル 有名ですよね
田安家の末裔の方が書いた本の中に 
「おばあさまの部屋に行くと いつも風月堂のゴーフルがあって よくそれを頂いたものだ」と 
思い出話が書いてあります
おもしろいことに風月堂は 明治維新のとき 奥州征討に向かう薩摩藩のため 
兵糧(ひょうろう・兵の携帯食)御用もつとめています
これは5千人分の「ゴマ入りビスケット」だそうです
なんだか おいしそうですねー
「金沢丹後」は 一時この風月堂に奪われた「御用」を 幕末には又取り戻しています
14代・家茂の頃と言われていますので 篤姫の時はまだ「風月堂」だったかもしれません
「金沢丹後」の方は もうありませんが 「風月堂」は凮→風と字が変わりましたが
今でも デパ地下などで 簡単に買えます
篤姫が「美味じゃのー!」と言ってたお菓子
一度 買って食べて見るのもいいですね

# by tukitodoraneko | 2008-04-10 14:10 | 江戸の食文化

父の次は 小松清猷が・・・

ひどい風雨でしたねー お釈迦様の誕生日!
日本人が キリストの誕生日ばっかり大騒ぎするから 怒ったんでしょうか?
さて 今日はやがて尚五郎くんが養子に行く小松家の当主
父の次は 小松清猷が・・・_f0122653_1212229.jpg小松清猷(きよもと)のことでも書いてみましょう
と言っても あまり書くことないんですよ
早死にしちゃったので 記録があまりありません
大河ドラマでは 沢村一樹さんがやっています
ともさかりえ(お近)さんのお兄さん役ですね
沢村さん自身も鹿児島生まれの鹿児島育ちだそうです
幼少から 容姿端麗・賢明だった清猷の役
なかなかはまってますよね
残念なことに この人は 篤姫のお父さんが亡くなった翌年には 琉球(沖縄)で急死してしまいます
その辺の細かい事情は 全然わからないんですよ
病死だったんでしょうか?
斉彬から 「琉球出張」を命じられた理由はなんだったのでしょうか?
この時代 島津藩は幕府には内緒にしてたけど
琉球には 各国の船が出入りしていました
そのための裏工作が必要になったのかもしれませんが
文書にはただ 「海防工作」のため・・・と なっています
清猷は 赴任後1年もしないうちに 29才で客死してしまうので
何もわからなくなってしまいました
私生活もあまり順調ではなく 最初の奥さんは短命
後妻も 側室もいたのですが 子供はできませんでした
このため 妹・お近と 肝付尚五郎が一緒になって
小松家を継ぐことになるんですね
これは 斉彬の意向だったということですよ
こうして幕末の島津家・名家老 小松帯刀の誕生ってわけですね
その帯刀(尚五郎)も 文明開化と共に 35才で亡くなりますが・・・

小松清猷と その跡を継いだ小松帯刀
どちらも もう少し長生きしていたら維新、開化の様相が
変わっていたかもしれないと思えるほどの俊才でした

# by tukitodoraneko | 2008-04-09 12:45 | 江戸のあれこれ

4月8日は「花祭り」

今日は朝から 関東地方は大荒れ!
小さい台風がやってくるみたいなんで 気が引けるのですが
本当は「卯月8日」は お釈迦様の誕生日
江戸時代には 「灌仏会」といって ほとんどの寺院では
にぎやかな行事が行われた日です
最近では「花祭り」ともいいますね
4月8日は「花祭り」_f0122653_819353.jpg←こーんな感じの小さいお堂を花で飾り お釈迦様の像に「甘茶」をかける日です
両国の回向院が最も人が集まったといいますよ
この日 子供たちは早起きして「甘茶」をもらいに行くのを楽しみにしていました
もらってきた甘茶で 墨をすり
「五大力菩薩」と三行書いて たんすに入れれば あーら不思議! 
衣類に虫がつかなくなるんですねー
今の防虫剤と同じ効果だったんですよ
また「千早ふる 卯月八日は吉日よ かみさけ虫をせいばいぞする」 といううたを書いて 
さかさまに張っておけば 毒虫の害をさけるまじないになりました
当時の4月初めは 今の5月ですから ちょうどいろんな虫が出始める頃ですね
いっしょに「ペンペン草」も売っていたんですよ
これも夜 行灯に吊るしたり トイレに吊ったりすると「虫除け」になったんだそうです
4月8日は「花祭り」_f0122653_8435963.jpgこの他に一般家庭では 新茶を入れて「卯の花(うつぎ)」といっしょに 
仏前や 門口に飾りました
← 「卯の花の匂う垣根に ほととぎす早も来 鳴きて♪」
とう唱歌に出てくるあの卯の花 とっても小さい花です
しかし この行事が最も華やかだったのは 「大奥」でした
「長局(ながつぼね)」という 奥女中たちのマンション
(奥ション!?)の前にも この「花御堂」ができ 全員が参詣してお賽銭を上げるのです
お目見え以下のものも 小粒の銀をあげる慣わしだったので この日一日で「30両」ほども集まり これは下男たちの取り分となりました
また 長ーい廊下には 朝から露店が出て 衣類から化粧品 草紙に小間物 錦絵・役者絵
ギヤマンの飾り物まで出店し 奥女中たちは たまのショッピング気分を味わえたそうです
庶民の「灌仏会」は 昼ごろには終わりになったのですが
大奥のショッピングを兼ねた「花祭り」は 夜遅くまで客足が絶えず
広敷番や 伊賀者がちょうちんを持って 警備にあたったほどでした
いつの世も 女性の買い物好きは 変わらないんですね
篤姫も 何か買ったのかしら?
 

# by tukitodoraneko | 2008-04-08 09:14 | 江戸のあれこれ