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カテゴリ:江戸のあれこれ( 947 )

江戸博覧強記&大江戸わいどshowより その5 

前にもお話しましたyou-tubeで見れる「大江戸わいどshow」
今回のお題は 江戸検直前!ちょっとためになる話です
http://www.youtube.com/view_play_list?p=EE9B5C24710649A5
本当にためになるので ↑ 上に載せときました
撮影も担当してるひろっくさんが まとめてくれています
彼も 受験するみたいです 頑張ってね!
江戸博覧強記&大江戸わいどshowより その5 _f0122653_10112412.jpg今日の地図は
中国・四国
土佐藩
宇和島藩など
見といてね

さて では
今日の勉強です
大江戸わいど
で 高尾・滝口
両先生の
出題者の側からのお話は
参考になりますよ
特に 高尾先生は江戸の「村」に関して研究なさっていた方なので
「石高」について 熱く語っていました
では 今日の勉強は 村と石高についてね
日本の封建制の特徴は なんでもこの石高であらわしたということ
加賀百万石・・・というように これは大大名をあらわす表現ですね
世界中のどこでも 米の取れ高で身分がわかるなんて 他にはないでしょう
この石高は 検地によって決められました
この検地によって 耕地面積を測り その等級(上・中・下・下下の4段階)
そして 耕作者が 確定されます
そして1反(約10a)あたりの生産量=石盛(こくもり) 斗代(とだい)ともいいますが
これが決まります
そうすると 村人Aさんの石高は この石盛(斗代)×面積で 決まるわけです
そして 全村民の石高を足すと 村高になるのですね
そして領地の村高を合計したものが その地の領主の知行高になります
領主は この村高に対し 五公五民(50%年貢)四公六民(40%年貢)というような
税率で 年貢を徴収しました
そして この年貢にも二種類あり 田畑にかかるのは本途物成(ほんとものなり)
この内 米は現物納が原則なので 取れた米の何割かを納めます
畑で取れたものは 貨幣納なので お金に換えて払うのですね
もう一つは小物成といって 田畑以外の山林河海の産物にかけられます
これは すべて貨幣納です
この他には 運上・冥加(みょうが)という商・工・漁業に課す年貢もありました
そして 年貢だけではなく助郷・国役などの労働奉仕も この村高に応じて賦課されます
領主の方では 自分の知行高に応じた普請役・陣夫役を負担する義務がありました

これが幕府直轄領では 付加税まで掛かります
伝馬宿入用・蔵前入用・六尺入用高掛物(たかかかりもの)三役です
それぞれ宿場の運営費・浅草御蔵の維持費・江戸城内の人夫の給米で
村高に応じて 貨幣納しました

ここまで 勉強したら 高尾先生の出題にも答えられるかな?
もう一つ 江戸わいどshowで話されていた事で 役立ち情報を一つ
老中・重臣などが どの時代の人か知るためには その人の名前がポイントです
将軍は よく家臣に名前の一字を与えることがあります
家光の光や 綱吉の吉などですね
これを 片諱 または偏諱と書いて「かたいみな」といいます
ですから 例えば細川重賢(しげかた)という名前なら 重の字で
この人が 9代・家重の頃の人と分かる・・・といった具合ですね
では また明日

by tukitodoraneko | 2010-10-26 15:27 | 江戸のあれこれ

江戸博覧強記より その4

大河の脚本って ホントにうまくできていますね
昨日の「船中八策」を見て つくづく思いました
それにしては 慶喜・容堂・後藤の人格が どうよ?・・・とは思いますが
さて では今日のお勉強はじめましょう
江戸博覧強記より その4_f0122653_10594147.jpg今日の地図は関西・近畿です
彦根藩もありますねー
では 藩邸・・・武家屋敷の復習してみましょうか
江戸時代の切絵図をみますと 大名屋敷で家紋が付いているものが上屋敷
■ 印が中屋敷 
● が 下屋敷 となっています
このように 拝領屋敷はいくつもあり お城に近い上屋敷が殿様やその家族の住んだ屋敷で 居屋敷と呼ばれます
この居屋敷は 変更することもできましたが 必ず幕府へ申請し 許可を受けなければいけません
上屋敷は 大きく分けて御殿部分と 詰人部分があり 
詰人というのは藩政を行う者たちのことですね
御殿部分が いわゆる殿様一家の住まいで 江戸城同様 表と奥に分かれていました
一つの藩邸内にどのくらいの人数が住んでいたかは 資料が少ないのですが
貞享元年(1684)の土佐藩の例では 江戸屋敷全体で 3千2百人ほど
うち半分の千6百人が 上屋敷に居住していたということです
藩邸がせまく すべてを収容できない場合は 一般の町屋を買って住んでいました
これを町宿(ちょうしゅく)といいます
さて ここまでは 一時的に幕府から拝領した屋敷ですので
今の外国大使館並みの 扱いでした
しかし 江戸の都市化が進むと 外側へ外側へと開発が進むのは 現在と同じです
町奉行の支配する御府内の外側には 幕府の代官支配地があったのですが
人口増加に伴い その中間の領域に 人別支配は町奉行ですが
年貢関係は代官支配という どっちつかずの地域が生まれました
これを 町並地(ちょうなみち)といいます
この町並地に 多くの大名が 抱屋敷(かかえやしき)・抱地(かかえち)を持つようになります
これは 拝領屋敷とは違い 大名が百姓や町人から買った土地ですので
売り買いが自由でしたが 反面 年貢や諸役を負担し 幕府の屋敷改(あらため)の支配を受けました
抱地というのは 土地だけで家作のないものです
これら抱屋敷・抱地は 火事のときなどの藩主らの避難場所 
庭園・菜園 収容できない家臣の住まいとして用意されていました
ただし 江戸周辺は 幕府の鷹場に指定されていましたので
表長屋のような構造の建物は 禁止されていました
安政(1856)頃の記録では この抱屋敷の面積は 225万坪にも達し
文政期(1820)の代々木村に関して 
「武家屋敷・抱地 多く入り合い 全く村落をなせるところ 村内 半ばに過ぎず」
と書かれています
付近の村落が 徐々に都市化して行く過程がわかりますね
藩邸のその後という表が テキストp53に載っています
以前 有栖川宮記念公園(元・盛岡藩南部家下屋敷)
清澄庭園(関宿藩久世家下屋敷)・・・などが出題されています
六義園(大和郡山・柳沢家下屋敷)もでたかな?
今年は 明治神宮御苑(彦根藩井伊家下屋敷)など チェックしといてください
あと 浜離宮は 将軍家の浜御殿ですが 芝離宮の方は 紀州藩の下屋敷です
まちがえないでね では この辺で・・・
  

by tukitodoraneko | 2010-10-25 12:22 | 江戸のあれこれ

江戸博覧強記より その3

江戸博覧強記より その3_f0122653_12434941.jpg関東・中部の藩地図です
大まかに覚えとくと便利です
以前 四国の地図が出題されています
今年は 土佐とか彦根藩の位置とか覚えとくといいかも
今日はまず「武家諸法度(ぶけしょはっと)」のことです
最初は 秀忠の時 金地院崇伝(こんちいんすうでん)というお坊さんが起草
伏見城で公布しました
以降 将軍の代替わりごとに公布されましたよ
してないのは家康と慶喜 
最初と最後の将軍だけです

家光の代では 寛永12年公布なので「寛永令」といいます
ここで道路整備の義務・私関 私津止(私的な関所や荷船の足止め)の禁止・大船製造禁止・
外様大名の参勤規定 が盛り込まれます
ペリー来航で 解禁された「大船建造」は ここで決まったものだったんですね
覚えといてください
次の4代・家綱の時は「寛文令」殉死の禁止が盛り込まれます
家光に殉死するものが多く その後の政事に支障をきたすからですね
5代・綱吉は「天和(てんな)令」 ここで幕臣を対象にした「諸士法度」をつけたし
一応の完成形となります
以降は 毎回 この「天和令」が踏襲されていきます
例外は 6代・家宣の「正徳令」で これは新井白石が和文体で書き直したためです
次に 一国一城令についてまとめてみましょう
この法令は 大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した約2ヶ月後 慶長20 (1615)年に出ています
主に 西国大名に対して出された法令で 奥州は対象外とされました
「一国」の解釈は 大名によって違い 長門・周防二国を支配していた毛利氏は
吉川広家の岩国城を破却していますが
蜂須賀家では 阿波徳島城の他 端城・洲本城(淡路)は そのままでした
フランス人・バジェスの「日本耶蘇教史」によれば この時
「四百の城が 数日の内に破却」と 書かれています
それほどではなかったでしょうが 現在〇〇城址として残っているものの中には
この時に 破却されたものが多いと思います
幕末期の大名を見ると 国持ち20家 城主128家 城主格16家で
無城は 111家となっています

この一国一城令は 幕府の支配体制強化のための政策ですが
この他にも 初期には 改易・転封によって 豊臣系大名や
不安定要素である徳川直系の一門の締め出しが図られました
ほとんどが初代から4代までの将軍の間に行われています
関が原の戦い直後の改易では 88家が改易(総高 416万石)
これに転封68家の減り高を加えると 632万石になったということです
同時に 戦国時と異なり この改易された城の受け渡しというのが
武士の重要な軍役の一つとなるのですね
赤穂浪士の時も 篭城して戦おうという一派もあったぐらいですから
城の受け渡しというのは 常に才覚を必要とする重要な任務でした
そしてもう一つ 平時の武士の軍務であったのが参勤交代です
参勤交代というと 一年置きに国元と江戸を移動するわけですが
どう考えても 263家(文政期)の大名が いっぺんに移動したら大混雑
実を言うと 一年交代なのは この内の70% 192家で
それをまた 表と裏 二つに分け 表は子・寅・辰・・・の年 裏は牛・卯・巳・・・の年に在府します
それはそうですね いっぺんに国に帰られたら 江戸はからっぽになってしまいます
これをまた 月によって振り分けるのですね
3・4・5・6月の4つの月に 分けて 3月は尾張・紀伊(表)加賀・薩摩(裏)のみ
4月は おもに外様大名 5月は譜代の大家 高松・桑名・姫路(表) 白河・彦根(裏)の5家
6月は 残りの親藩・譜代が 移動します
ま、もちろん 行くと帰る 方向が違うといえ 同じ時期に移動しますので
4月には89家 6月には92家の大名行列が通る事に変わりありません
甲州街道をつかう大名は3家くらいなので 他の道は混雑だったでしょう
残りの大名ですが 10% 31家が半年(約)交代で これは関東の大名です
この組は 12月から8月に在府と 8月から2月まで在府に分かれ
正月は 両組とも在府するようになっていました
この他 不定期なのが13家あり 長崎警護の福岡・佐賀を筆頭に
長崎周辺の大名が多く 平戸・大村・五島藩などです
非常に遠い対馬藩は 3年に一度 4ヶ月だけ在府
松前藩などは 6年に一度ですね
ただし 蝦夷地全体が 幕府直轄領となった文化・文政期には
一年交代となった時もありますよ
常府という参勤しない藩も 31家ありました
黄門さまの水戸家が有名ですね
あとは 大藩の支藩や 老中・若年寄・寺社奉行など重職に就任中の場合も免除されました
今日も だいぶ長くなっちゃいましたので この辺で・・・
役に立つといいなあ
 

by tukitodoraneko | 2010-10-23 15:08 | 江戸のあれこれ

江戸博覧強記より その2

江戸博覧強記より その2_f0122653_11353689.jpg今日も「江戸博覧強記」からです
参考のため 当時の主な藩の地図を
載せておきます
一日目は 東北地方の地図です
寛政の頃・・・1800年頃には 全国で
264家の大名が存在しました
これらの大名は 大きく二つに分けられ まず10万石以上かどうか
そして官職で侍従以上のものと以下のもの という二つの基準がありました
これで どんな差があるかというと 将軍代替わりの時に出される領地朱印状が
10万石以上&侍従以上だと 
領地判物(花押付き)
10万石以下または侍従以下だと 
領地朱印状(朱印付き)
だったのですね
え?それだけ?と思うかもしれませんが 今のサラリーマンと同じで 武士はこの「格」というのにこだわったのですねー
この身分の違いによって 登城した時の控え室=殿席
将軍に謁見する部屋=礼席が 変わるのです
着る物だって 位階ごとに色や形の規定がありました
平和な江戸期には 戦で武勲を挙げることはできないので
大名達は この位階・官職を上げ 家の格を上げる事に腐心したんですね
殿席のことは 今までも試験に出ていますので ちょっとおさらいしときましょう
「甲子夜話を書いた松浦(まつら)静山の殿席は?」という問題でした
まず 一番格上の方から行きましょう
大廊下 上・・・御三家(尾張・紀伊・水戸)
      下・・・加賀前田・越前松平
溜の間  ・・・・臣下の最高席 重職についているもの 老中・大坂城代・京都所司代・三奉行
         (高松藩主・彦根藩井伊家など)
大広間 ・・・・ 御三家の分家や親藩(高須藩・津山藩・14松平など)
         国持ち大名(仙台伊達家・久保田(秋田)佐竹家・米沢上杉・津藤堂・福岡黒田
                 佐賀鍋島・鳥取池田・岡山池田・広島浅野・萩毛利・徳島蜂須賀
                 伊予宇和島伊達・土佐(高知)山内・対馬宗・熊本細川・
                 薩摩島津・・)
         外様の四品(従四位下)以上(弘前津軽・盛岡南部・柳河立花・二本松丹羽など)
帝鑑の間・・・・古来よりの譜代で侍従以上(宇都宮戸田・壬生鳥居・佐野堀田・結城水野・
                            小田原大久保・高遠諏訪・甲府柳沢など)
柳の間 ・・・・・外様の五位(平戸松浦・大村・長府毛利・丸亀京極・赤穂浅野など)
雁の間 ・・・・・新規の譜代 高家など(勝山三浦・福島板倉・磐城平内藤および安藤・小諸牧野
                        高遠内藤・淀稲葉・福知山朽木など)
菊の間 ・・・・・新規の譜代 従五位下(牛久山口・吹上有馬・足利戸田・伊勢崎酒井・
                        久喜米津など)

全体から見ると 柳の間 外様の小大名というのが 一番多い感じがしますね
時には 縁戚関係で上がることもあります(島津など)ので 一定ではありません
次に 武家の官位のことですが だいたい二位から五位までで正(しょう)と従(じゅ)がつきます
正三位 従三位のように 同じ三位でも二種あり正のほうが上
またそれに上・下があり たとえば従四位下(じゅしいげ)といいます
読み方は 三位=さんみ 四位=しい 七位=しちい です
将軍でも だいたい二位止まりですが(死後に追贈は除く)家光と家斉は生前に一位まで上がっています
位階は 朝廷からいただくのがたてまえなので 朝廷との関係で高くなります
家光の乳母・福が 入内した家光の妹・和子(まさこ)に会いに行ったとき
無官だと宮中に上がれないので 従三位と「春日」の名を賜っていますね
5代・綱吉も 身分の低かった母・桂昌院のため 従一位をもらい
以降 桂昌院は 「一位の尼」と呼ばれてます
とにかく 後世になるほど この位階はいいかげんになり
享保の頃 象が渡来した時 これを見たいと思った天皇は
この象さんに 従四位を与えていますよ
では 今日はこの辺で・・・・





 

         

by tukitodoraneko | 2010-10-22 14:50 | 江戸のあれこれ

江戸博覧強記より その1

江戸博覧強記より その1_f0122653_11313886.gif
江戸博覧強記より その1_f0122653_11321561.jpgさて 幕末ばかりやっていても出るのは2割
全問中半分が ←ここから出るテキストのポイントも
書いていきましょう
1級に臨む方は 確認のつもりで それ以外の方は 
ホー、こんな問題出るの?くらいの感じで読んでみてください
まず 徳川家の石高ですが 天保期で420万石ありました
当時の全石高は3千万石ですから 約15%です
2番めの加賀百万石に比べても ダントツであったわけですね
これが 維新後は 70万石に減らされるわけです
6分の1になったということ ちょっと覚えていてね
そして一度出題されましたが「鎖国」の出典についてです
長崎・出島のオランダ商館に医師として滞在したケンペルは 1691,92年の2回 江戸参府して この時は
元禄4,5年ですから 綱吉に拝謁しています
帰国後「日本誌」を書きますが この本の一部を オランダ通詞の志筑忠雄(しづきただお)が
訳して 享和元年(1801)「鎖国論」と題したのが最初
これを 後の歴史家が使ったというだけで 当時「鎖国」という言葉も そういう法令・政策が
あったわけでもありません
そして「鎖国」という言葉から想像されるほど いちずに門を閉ざしたわけではなく
この時代にも 「四つの口」と称される外国との接点がありました
対馬(宗氏)ー朝鮮  薩摩ー琉球  長崎ーオランダ・中国  松前ーアイヌ などです
中でも 朝鮮と琉球とは ただの商売相手ではなく
国家間の交誼関係を結んだ 通信の国であり
単なる商取引のみの オランダ・清(中国)は 一段下の通商の国という位置づけでした
次に幕府の職制に関してですが 過去に奏者番のことが出題されています
定員20~30名で うち4名は寺社奉行を兼ねます
大目付・目付とともに三役といわれるのが奏者番です
京都所司代は 老中に継ぐNo2の重職です
西国大名と 朝廷の監察という重い役目があったからですね
そして テキストの不備の部分ですが 郡代のこともついでに覚えときましょう
郡代は勘定奉行の支配で 関東・美濃・西国・飛騨と4ヶ所にありました
郡代の仕事は 幕領(幕府直轄領)の裁判・年貢徴収
このうち関東郡代は 文化3年(1806)に廃止 変わりに代官所が置かれました
他の地域にも 重要な土地には城代が置かれ
江戸だけでなく 町奉行も 京都・大坂・駿府にありました
残りの重要都市(宗教・港・交易・鉱山)には 遠国奉行が置かれています
大岡(越前)忠相は はじめ山田奉行でしたね
当時の幕領は 全国68ヶ国のうち47ヶ国に及んでいました
そのうち4/1は 関東にありましたが 東海・畿内にも多く
逆に 全く幕領がなかったのは 薩摩・長門・土佐・出雲などの 西南部
例外的には 東北部の越中にも 幕領はありませんでした
さて次は幕府の財政状況に関してです
江戸期のちょうど中間地点 享保(8代・吉宗)の時と
幕末・天保期の歳入・歳出の表がp32に載っています
歳入は 天保期には倍になっているのですが その内訳は 年貢収入が半分近くに減り
その不足分を 貨幣改鋳・・つまり貨幣の質を落とすことで補填しているのですね
この辺り グラフが出題される事もあるので 見といてください
それと 毎回 一つくらい 家紋も出ますので 有名なのはチェック!です
p54に 載っています
今日は とりあえず このくらいで・・・
 

by tukitodoraneko | 2010-10-21 13:44 | 江戸のあれこれ

江戸の婚活

さて 江戸検定まで あと51日!
今日からは 1級テキスト「江戸博覧強記」プラスα って感じで お送りします
龍馬たちの結婚がありましたので 今日は江戸の結婚に関して まとめてみましょう
江戸の婚活_f0122653_11142550.jpg

婚礼場面の浮世絵 あまりないんですよね
↑ これは 国芳で 「婚礼お色直し之図」です
さて ではまず 武士の結婚に関してです
幕臣=旗本・御家人の縁組には 幕法で いろいろな規制がありました
まず 他の大名の家来=陪臣との縁組はだめ
同じ幕臣でも 同じ役職の同じ組同士は だめ という決まりです
これは 縁組によって 党を組み結束することを ふせぐためでした
また 身分違いの縁組・・・これは 農・工・商との縁組です
これも禁じられていましたが 実際は抜け道があり
しかるべき家に 一度 養子・養女に出せば OKです
もちろん 一夫一婦制ではありませんから 側室はOK
これを 川柳でみてみると
  妹のおかげで 馬におぶっさり
                       笑やるな 若殿様の叔父ごだよ

妹に 殿様の手が付いて 兄弟もにわか武士になっちゃうんですね 
そして縁組が決まると 両家から 上司に許可を願い出ます
そして ここで許可が降りると やっと縁組成立です
しかし 結婚の式を挙げたら また結婚届を 提出しなければなりません
武士階級の結婚は 結構めんどうだったんですねえ
これが 町人同士になりますと 許可制ではなく
ただ 家同士のつりあいだけが問題になります
当時は 女性が持参金を持っていくのが一般的で
この持参金目当ての 結婚も多かったんですねー
   湯文字まで 先からできる美しさ
                        百両はなくなり 顔は残ってる

そして 持参金の額と 嫁の器量は反比例
きれいな娘は  お金なんてなくても 嫁ぎ先から 下着まで送ってくるのでした
また 当時は 仲人を商売にする女性もいましたし
医者も 方々の家に出入りして 家の事情や 
本人の健康状態をよく知っているので 仲人として信頼されていました
   仲人は 小姑ひとり殺すなり
                     婿のとりようが遅いと 名医いい

そして この頃から町人同士でも お見合いをすることもありました
これは 水茶屋・・今の喫茶店や 芝居小屋 お寺さんの法会の時などに
さりげなく 行われました
   水茶屋を二軒ふさげて 見つ 見せつ
                          見ましたは 細おもてだともめるなり                  

このお見合い 時々 替え玉が出たようですね?
どちらにしても 大恋愛の末 結婚というのは 少なかったようです
龍馬と お龍ちゃんとは 珍しい例だったのですねー

by tukitodoraneko | 2010-09-10 12:35 | 江戸のあれこれ

誰でもできる江戸城ツアー

今日は みなさんがお友達を案内する時の 江戸城ガイドツアーやってみましょう
私も ニューオータニのツアーガイドで一度
そして 海外から来たお友達を案内して 何度か行っています
誰でもできる江戸城ツアー_f0122653_14181531.jpg

うえにざっとした 地図をあげておきました
今回は 歴史的に・・・というより あんまり興味ない人でも楽しめるガイドにいたしましょう
まず 江戸城は 「千代田城」ともいわれていましたよ
家康より前に 大田道灌がここに城を構えたころ
このあたりは 「千代田村」だったからです
大田道灌が 「わが庵(いお)は 松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端にぞみる」
と 詠った通り 日比谷辺りは まだ海でした
今も残る「潮見坂」の名前は ここから海がよく見えたからですね
1590年 家康は初めて 江戸城に入りますが
もうすでに 板葺きの屋根は 雨漏りがして
玄関には 舟板が三枚並んでいただけだったと言います
その江戸城本丸ですが 実は幕末の5年間
ここに 本丸はすでになかったんです
火事で焼けて 幕府にはもう再建するだけの力がなかったのですね
よく「江戸城明け渡し」の場面が ドラマや映画でやっていますが
明け渡そうにも ブツがなく あれは 「西の丸」を明け渡しているんですよ
大手門は 江戸城の正面玄関
ここを入ると すぐ右手に今は「三の丸尚蔵館」があります
その奥に トイレと休息所がありますが この休息所では
古地図や 絵葉書など ちょっとしたおみやげが買えます
ここから二の丸庭園に行く途中 ちょっとした雑木林を通りますが
ここは 当時 武蔵野に生えていた木々を 再現した林になっています
庭園そのものは 新しく造られたものですが 
典型的な日本庭園の見本ですね
ちなみに 東側の高台から見える建物は 宮内庁病院です
そして 本丸跡と天守台跡
ここでは 松の廊下の話はいかがでしょう
「廊下」というと いかにも板張り、フローリングを想像してしまいますが
お城の廊下というのは 控えの間もかねていました
今の廊下というのは 当時は「濡れ縁」
雨があたるような建物の外側についているものです
だから 浅野内匠守が吉良上野介に 斬りかかる場面で
もしも 下が木の廊下だったら これは 大まちがいです
実は 松の廊下は 畳敷き!
それも 畳90枚分の広さがありました
すごいですねー 今なら3LDK分が 廊下ですよ
そして 今も 当時と同じ姿で残る天守台この位置は 江戸時代から変っていません
このすぐ前一帯がが 大奥で 特に天守台のすぐ前は
御台様の お住まいの一角です
世が世なら 男は将軍さましか 入れなかった一角ですよ
ここには 御台様専用トイレもありまして 「万年」といい
井戸のように深い穴に 途中に鉄格子がはめられ(転落防止?)
ここだけは 汲み取りもせずに 代替わりには 土を入れたということです
そして 江戸城の天守ですが 家康 秀忠 家光 三代が
それぞれ 好みの天守閣を建て 全部で3タイプの天守が次々に建て返られていたのですが
1657年 江戸のほとんどを焼き尽くす 明暦の大火 別名・ふりそで火事で
全焼して以来 再建されませんでした
これは 家光の異母弟・保科正之が 戦国じゃないんだから もういらんやろ と言ったため
このため 最初の50年間しか 江戸城に「天守閣」はなかったんですね
でも 残りの2百年以上 天守番という役職は続いたんですよ
そして 最後に 北拮橋(はねばし)門
今は 普通の橋になっていますが 江戸時代には 名の通り
この橋は 跳ね橋になっていました
門の上部に 上げた橋を架ける鍵型が残っていますので 見てください
この橋の 両側の石垣には 石を切り出した大名のしるし(〇や×程度ですが)
比較的よく残っていますので 探してみてください

こんなところで いかがでしょう?
みなさんに 楽しんでいただけるといいですね
頑張って 江戸ファンを増やしてくださいねー 応援してますよー

by tukitodoraneko | 2010-09-09 15:17 | 江戸のあれこれ

国史大系 読んだ?

さてさて 単純な質問をしてみましょう 「国史大系 読んだ?」
おとといの1級会の飲み会の席で 向かいに座ったチャーミングなA山さんが
私に聞いた言葉です
国史大系 読んだ?_f0122653_9253480.jpg歴史を勉強しようと思えば これを読まないといけないんですが 残念ながら飛び飛びです
一時 図書館からランダムに借りては 読んでいたんですが いかんせん!大量です
及び わが町の中央図書館が移転して ちょっと自転車で行ける距離ではなくなりました
それに 借りた本はやっぱり苦手・・・
勉強系の本を読むときは 反射的に右手に赤ペンの習慣が染み付いていて いつか大変な事になるんじゃないかと・・・
ちょっと内容説明も書いときましょう
「国史大系」というぐらいで 日本史の史書を集めたもので
最初は 明治30年~34年にかけて経済雑誌社から出た正続32冊のものでした
正の方は 日本書紀や三代実録・古事記・今昔・水鏡・大鏡など17冊
ビッグタイトルなので 単独で読まれた方も多いでしょう
そして 続・15巻は 吾妻鏡と 9~15巻が「徳川実記」なんですねー
よく「徳川実記」を読みたいけど どこにもないよー という方
これは「続・国史大系」の9~15巻で検索しないと 出てこない場合がありますよ
この経済雑誌社版は すでに著作権フリーらしく 国会図書館の近代デジタルライブラリー
検索すれば すべて読めます
私は これで随分 古典籍を読みましたよ
しかし 残念ながら こちらは旧字で 画数が多い字は印刷でつぶれてしまっています
読みにくいこと 著しいんですが 慣れればなんとかなる感じ?
この他には 昭和4年から30数年をかけて 「新訂増補国史大系」が出ています
こちらは 吉川弘文館からで 全66冊 図書館で借りられます
このうち「徳川実記」は 38~47巻 「続徳川実記」が 48~57巻の20冊です
古書サイトで 調べてみると まだ結構高いですねー
歴史関係の本は どうしても「借りる本」ではないと思います
そばにおいて必要な時 調べる事ができないと 役立たずですね
かといって 古本に数万のお金を使うのは 扶養家族の身では 大それた事
仕方なく 近代ライブラリー版を見ては パソコンでポツポツ書き写して見たりしています
「徳川実記(正続)」だけでも 900ページくらいあるのが7冊分
私が生きてる内に うつせるのかしら?
絶対 途中でキー!っとなって 怒り狂った勢いで 全巻買ってしまいそう・・・
それでも もしも もしも 完成したら 大量の「武鑑」を コピーしてくださった優しいA山さんに
最初の一部を 進呈したいです

by tukitodoraneko | 2010-08-24 10:37 | 江戸のあれこれ

清正の石垣

ボーっとしている内に 「暑中見舞い」が「残暑見舞い」になってしまいました
それでも 出さないよりマシと思って 汗かきながら 発送しましたよ
やっと 今週辺り 夏休みがとれるかな・・・と思っていますが
基本 専業主婦に 炊事しない日は一日もないんで 休みと言ってもどーってことないです
さて! グチも済んだし 今日のお話 行って見ましょう
清正の石垣_f0122653_14481693.jpg先週の読売新聞ですが
江戸城の石垣から 大名の銘が見つかったそうです
今までも 簡単な目印が打ってある石は いくつかありました
丸に十とか 扇型 ひょうたん などで 一応 
切り出した大名が分かるんですが
今回のは 「加藤肥後守(=加藤清正)」のように 
ちゃんと名前が 刻んであるものです
清正の石垣_f0122653_14563357.jpgこれ→
ですね


上↑ の写真は「羽三左」と 書いてあるの
見えますか?
こちらは 姫路城主の池田輝政です
秀吉からもらった羽柴の姓に 三左衛門の名を
組み合わせたもの
この刻銘は 書院前櫓など 二箇所で見つかったということです
清正の石垣_f0122653_155789.jpg清正の刻銘は 天守台の北 北桔橋門の向かって右手です
この築城工事は 1603年 家康が命じた「天下普請」ですが
これまで 江戸城中心部の石垣で 各大名の具体的な普請場所が明らかになるのは 初めて・・・ということです
この他にも 古写真の解析で 輝政の長男・利隆=「松平武蔵守」
次男・忠継=「松平左衛門督」
福島正則=「羽柴左衛門大夫」の名前もあったということが 判明しているそうですよ
最近では 「清正の井」が パワースポットと言って 大騒ぎですが
あの下屋敷は 江戸を通じて ほとんど井伊直弼の下屋敷
それに比べ こっちは 清正本人の名前ですよ
清正の石垣」 こっちもパワースポットにならないかしら?
今ならまだ 混雑してないから 混む前に一目 見に行ってみようかな

by tukitodoraneko | 2010-08-10 15:21 | 江戸のあれこれ

荒木町ラビリンス

今日は 四谷荒木町の話をしましょう
そう聞いただけで 町歩きや居酒屋回りの好きな方々はオッ!と思っちゃうんでしょうね
荒木町ラビリンス_f0122653_1025370.gif都営新宿の「曙橋」と 丸の内線「四谷三丁目」の間にはさまれたこの土地は 地図で見ると平坦ですが 非常な高低差のため 坂と階段と路地でできた都会のラビリンスになっています
私たちは 雲が低く垂れ込めた 蒸し器の中にいるような梅雨明け前の一日
ここを散策したのですが そこは昭和とも言えず 東京とも言えず
何か 別の時代の別の都会の裏道に迷い込んでしまったような気がしました
都会の底は 流れる時間も 他とは違うように感じます
横にある坂の名前は「津の守坂
この辺り一帯は 江戸時代 松平摂津の守のお屋敷でした
広い庭には 高低差を使って4mもの落差を持つ滝があり
そのまま 130mはあったという大きな池を形作っていました
荒木町ラビリンス_f0122653_1026227.jpg← こんな感じです
摂津の守は 美濃高須の藩主で あの「高須四兄弟」を出した家ですね
最後の会津藩主 松平容保(かたもり)も ここ(現・荒木町19番地)で天保6(1835)年に生まれています
明治になってからは開放され 滝の景観が人を呼び 茶店が立つようになりました
こうなると やがて 酒を出すやら 女を置くやらで あっという間にいわゆる「三業地」へ発展していったのです
明治から大正にかけては待合が立ち並び 芸者もいて 新宿辺りの旦那衆はみんな荒木町で 遊んだそうです
荒木町ラビリンス_f0122653_10495366.jpgこれは「東京名所三十六戯撰」の一枚 →
津の守の滝です
4mの落差とはいきませんが まだ水浴びできるくらいはあったんですね
これに比べて 下の↓ 写真になると だいぶ水量が減っているようです
明治の終わり頃には すでに何本かの竹筒の先からちょろちょろ流れるくらいのものだったようです
近くの「新宿歴史博物館」に 当時の写真が展示されたことがありました
すでに 手水に使うくらいのものでしたよ
荒木町ラビリンス_f0122653_10482774.jpg




紀伊国屋の社長・田辺茂一氏は この荒木町の料亭で 同窓会(それも芸者付!)の幹事をしたそうですが そのときはもう滝の存在はわからなかったと言っています
荒木町ラビリンス_f0122653_1144443.jpg現在は 滝こそありませんが 池の一部が残り 弁財天が祀られています
小さくはなっても やはり「異空間」のような 特異な静けさに包まれています
辺りも 大きな料亭や芸者の姿は消え
その代わりに ユニークなバー・居酒屋が点在しています
ゴールデン街を もっとノスタルジックにした感じでしょうか
例えば「坊主バー
ここは 得度した本物の僧侶が カウンターでカクテルを造ってくれます
店内の仏壇には阿弥陀如来が鎮座し お酒は「般若湯」といいます
会計は 当然「お香典」
ここで酔いつぶれた友人は「ご成仏ですね」と お経を詠んでいただきました
もう一つ 「猫とバラの日々
ここは 猫科の人々が集まる店 お酒もつまみも絶品で 
猫と酒とうまいもの好きご用達の店ですよ
ご自分も 猫好きの店主さまは かつての芸能人ご用達のディスコ
「赤坂ビブロス」の店長だった方
芸能人から 猫好きへ・・・客層は 今の方が居心地いいかも

by tukitodoraneko | 2010-07-28 11:31 | 江戸のあれこれ