徳川埋蔵金伝説

今日は 小栗上野介忠順(ただまさ)のことを 書いてみましょう
あーら どこかで聞いたことあるわ という方
「徳川埋蔵金」関係では ないでしょうか
f0122653_14283433.gif慶喜が 大坂から逃げ帰った時 城内は「主戦派」「恭順派」に分かれて 大論争となったのですが この時 主戦派の頂点にいたのが 小栗忠順です
幕臣の家に生まれた彼は 目付けから 勘定奉行 軍艦奉行と 重職を歴任
幕末の混迷する政相のなか 何度も「罷免」と「再任」を繰り返しながらも 幕府と日本の未来を 考え続けた人です
外国奉行を務めたこともあり 非常に開明的で
ポーハタン号でアメリカにも行っていますし 
日本で初めて 洋館を建て 住んだ人でもあります
横須賀造船所を造ったのも この人で 後世では
「明治の父」とも呼ばれています
しかーし!残念ながら 今もっとも この人の名が
出てくるのは「埋蔵金」がらみなんですねー
慶喜が 「恭順」路線を決めると 主戦派だった小栗は 解任されます
この時 同じ主戦派だった松平容保は 江戸藩邸の藩士や家族を率い ひそかに大量の武器を持ち出し 会津へ出発しています
これが2月16日のこと
小栗も 同じ頃に 領地の上野国・権田村への帰参許可を願い出ています
今の群馬県 高崎市 倉渕村のあたりですね
しかし 当初から 帰国する小栗一行には 怪しい噂がつきまとっていたのです
 -どうやら 幕府御用金を こっそり携帯しているらしい・・・
なぜか この噂は 上野の農民の間にまで 広まっていました
一説には 旗本とはいえ 二千石以上の殿様の引き移りですから
初めて その豪勢な行列を見た地元の人々には たんまりお金を
持っているように思えたからだということです
この噂のお陰で 静かに隠棲していた小栗一族は
何度か 地元の博徒集団の襲撃を 受けています
そして この噂に拍車をかけたのが 例の勝海舟の一言です
4月 4日 慶喜刑免の知らせを持った橋本実梁と西郷が
江戸城に赴いた時 城の金蔵は 空っぽだったのです
これについて 詰問された勝は 「小栗殿に聞かれよ」と 責任転化
しかし 当の小栗殿は その二日後
進軍してきた官軍の手で 取り調べもないままに
近くの 烏川で 斬首されてしまいます
翌日には 養子の又一や 一族郎党の者も 斬首という非道な仕打ち
この辺りから どうも「徳川埋蔵金」の噂は 広まっていったようなのです
いわゆる 「死人にくちなし」ってやつですね
官軍が あれほどの仕打ちをしたからには その影に大きな秘密が
あったのかもしれない・・・と 思われたんでしょう
現在でも この「埋蔵金伝説」は 手を代え品を代え
数年に一度は テレビで 特集されています
某 有名コピーライターさんも はまっていましたよね
ま 本当にあるかどうかなんて ヤボなこと
そんな 心躍る伝説が 一つくらいあってもいいと思いますよ
小栗さんも 草葉の陰から 笑ってみていることでしょう




 
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by tukitodoraneko | 2008-11-22 16:35 | 江戸のあれこれ

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