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中居重兵衛の桜田門

横浜開港当時 輸出品として最も重要だったのは「生糸」です
そしてこの「生糸商」として 莫大な身代を作ったのが「中居重兵衛」
彼が建てた店は 銅葺きの屋根が陽に照り映え「あかがね屋敷」と呼ばれました
中居重兵衛の桜田門_f0122653_14334596.jpgところが これほどの大商人となった重兵衛さん
「桜田門の変」の直後に 失踪し行方知れずになったのです
その最後は「毒殺だったらしい・・・」と言う噂ですが
はっきりしたことはわかっていません
わりと最近になって「横浜開港史」に関わる方々が
彼の出身地 群馬県嬬恋まで行って 親族らに調査をし
やっとその数奇な運命がわかって来ました
重兵衛は 本名を「黒岩撰之助」といい 嬬恋の裕福な
庄屋の息子に生まれています
ちょっと変わっていたことは この家には代々家伝として
「火薬の製法」が伝わっていました
それだけならどうということもなかったのですが
彼の祖父と父は 当時江戸からの遊山地だった「草津温泉」で旅宿を営んでいて 
そこで若き日の撰之助は 佐久間象山と出会ってしまうのです
象山は彼に 鉄砲の構造などを教え 少年の心に「蘭学」に対する憧れが
芽生えたとしても 不思議ではありません
このため 父親が「銅鉱山」に手を出して 家財を失い 放浪の旅に出てしまうと 
彼は母方の祖母の再縁した日本橋四丁目 和泉屋の牧野善兵衛を頼っていきました
ここでも撰之助はかわいがられ やがて娘をもらい暖簾分けしてもらっています
ここで初めて 名前を中居姓に変え 商人として一人立ちするんですね
この頃から 彼は再び佐久間象山の塾へ通い始め
ここで 多くの蘭学者や幕末の志士たちと知り合いになっています
彼自身も「重要砲薬新書」という 火薬の製法に関する本を出していますよ
そして 偶然にも放浪の末 淀藩・稲葉候のお抱え絵師となっていた
父・幸右衛門と再会するのです
この父の立場から 様々な便宜をはかってもらい
撰之助は 開港したばかりの横浜で 生糸の輸出の大半を占め
巨万の富を築き上げるようになりました
妻との間に 一人娘の「たか」も生まれ 順風満帆に思えたその時
例の「安政の大獄」が 起こりました
彼にしてみれば 井伊直弼は開国し 商売をさせてくれた恩人でもあります
彼自身 「蘭学好き」だから 外国人に対する偏見もありません
横浜で 水戸浪士に殺されたロシア人の遺体を丁重に弔ったことも有ります
しかし 自分がつきあってきた人々が容赦なく捕らえられ
無残にも殺されていくやり方に どうにも我慢が出来なかったのでしょう
彼は 秘密裏に水戸浪士と接触し 五連発短銃20挺を提供したのです
そして 安政7年 1860年の3月3日
この日は 彼の一人娘「たか」の初節句の日
大勢の客に囲まれて 重兵衛は始終 ご機嫌で
「今に もう1つ良い知らせが参りますぞ」と 語っていたそうです
やがて 江戸からの早馬が 「桜田門」の大事件を知らせにやってきました

この直後に 重兵衛は「失踪」するのですね
近年の調査では 離婚し 店も譲り 一時 千葉の方へ身を隠したそうですが
芝の隠宅に戻ってきて潜伏中 急死した・・・とされています
死の原因は 「はしか」とも言われていますが 全身に出た発疹の様子から
毒殺では・・・という 疑いもあったそうです
どちらにしても 実に数奇な運命ですねぇ・・・
これには まだ「後日談」もありますが 今日はこの辺で・・・・

by tukitodoraneko | 2008-08-05 15:46 | 江戸のあれこれ

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