舌切り茶屋 縁起
2008年 07月 23日
「安政の大獄」の犠牲者は 死罪(切腹・獄門含む)が8名
獄死したものが6名 捕縛前に死亡が 梁川(やながわ)星巌と月照さんの2名
あとは数知れずですが 中には捕縛されても「お構いなし」になったものもいます
記録に残らない逮捕者もたくさんいたことでしょう
死罪は水戸藩士が最も多く4名
家老の安島帯刀は 斉昭の蟄居後 国政のため奔走し
茅根(ちのね)伊予之介と共に 評定所に呼び出され
評定の結果 2度も無罪になりながら 井伊直弼の独断で
帯刀は「切腹」 伊予之介には「死罪」の申し渡しでした
水戸藩の京都留守居だった鵜飼吉左衛門も「死罪」
勅許を受け取って 息子に運ばせたからです
で 運んだ息子・鵜飼幸吉は「獄門」 32才でした
手紙運んで 死罪・獄門はないでしょ・・と思いますよ ねぇ?
飯泉喜内は「旗本家臣」となっていますが 娘むこが旗本・曽我氏の抱え医師
本人は 公家・三条家にも仕え 江戸ー京都間を往復して連絡係をしていたようです
←この人は 頼(らい)三樹三郎 「日本外史」を書いた頼山陽の三男です
京都浪人で 一橋派でした
そして 福井藩士で 春嶽の側近だった橋本左内
ペリー密航事件の吉田松陰など まあ「遠島」ぐらいが妥当な人たちも全て
井伊直弼の独断制裁で「死罪」となってしまうのですね
そして 牢舎の中で拷問を受け 獄死したものたち6名
最初の捕縛者・梅田雲浜はじめ 月照の弟・信海
お先手組の与力で幕臣だった中井数馬
公卿・西園寺家の家臣 藤井但馬守
水戸から帰藩した薩摩藩士・日下部伊三治
この人の娘むこになるのが 有村俊斉です
後の海江田信義で 弟・次左衛門は
「桜田門」でみごと この時の恨みをはらしていますね
そして 清水寺 成就院の持侍・近藤正慎
この人は 月照を逃がした後 捕縛され
激しい拷問を受けますが 喋らずにすむようにと 自ら舌を噛み切り
壁に頭を打ち付けて自害するという 壮絶な最期をとげました
後に 清水寺の「忠僕茶屋」の隣に この人の遺徳を讃え
寺僧たちの援助で 「舌きり茶屋」ができました
すずめのお宿とは 関係なかったのね・・・・
獄死したものが6名 捕縛前に死亡が 梁川(やながわ)星巌と月照さんの2名
あとは数知れずですが 中には捕縛されても「お構いなし」になったものもいます
記録に残らない逮捕者もたくさんいたことでしょう
死罪は水戸藩士が最も多く4名
家老の安島帯刀は 斉昭の蟄居後 国政のため奔走し
茅根(ちのね)伊予之介と共に 評定所に呼び出され
評定の結果 2度も無罪になりながら 井伊直弼の独断で
帯刀は「切腹」 伊予之介には「死罪」の申し渡しでした
水戸藩の京都留守居だった鵜飼吉左衛門も「死罪」
勅許を受け取って 息子に運ばせたからです
で 運んだ息子・鵜飼幸吉は「獄門」 32才でした
手紙運んで 死罪・獄門はないでしょ・・と思いますよ ねぇ?
飯泉喜内は「旗本家臣」となっていますが 娘むこが旗本・曽我氏の抱え医師
本人は 公家・三条家にも仕え 江戸ー京都間を往復して連絡係をしていたようです
←この人は 頼(らい)三樹三郎 「日本外史」を書いた頼山陽の三男です
京都浪人で 一橋派でした
そして 福井藩士で 春嶽の側近だった橋本左内
ペリー密航事件の吉田松陰など まあ「遠島」ぐらいが妥当な人たちも全て
井伊直弼の独断制裁で「死罪」となってしまうのですね
そして 牢舎の中で拷問を受け 獄死したものたち6名
最初の捕縛者・梅田雲浜はじめ 月照の弟・信海
お先手組の与力で幕臣だった中井数馬
公卿・西園寺家の家臣 藤井但馬守
水戸から帰藩した薩摩藩士・日下部伊三治
この人の娘むこになるのが 有村俊斉です
後の海江田信義で 弟・次左衛門は
「桜田門」でみごと この時の恨みをはらしていますね
そして 清水寺 成就院の持侍・近藤正慎
この人は 月照を逃がした後 捕縛され
激しい拷問を受けますが 喋らずにすむようにと 自ら舌を噛み切り
壁に頭を打ち付けて自害するという 壮絶な最期をとげました
後に 清水寺の「忠僕茶屋」の隣に この人の遺徳を讃え
寺僧たちの援助で 「舌きり茶屋」ができました
すずめのお宿とは 関係なかったのね・・・・
by tukitodoraneko | 2008-07-23 10:48 | 江戸のあれこれ