「プッツン」前夜
2008年 07月 21日
こんにちわ 毎日暑くてバテちゃいますね
今日は昨日の「篤姫」でくわしく触れなかった政治向きの動きのことを
おさらいしときましょう
幕末はドドドっと進んじゃいますが 1つ1つ丁寧に押さえとくと
理解しやすくなります (誰よりも私にとって・・・)
まず 波乱の幕開け 安政5年(1858)をダイジェストしてみましょうね
3月20日 孝明天皇 条約調印に関しては 諸大名と協議のうえ再度請願しなさい
と 堀田正睦に告げる 簡単に言えば「不許可」
4月23日 井伊直弼 大老就任
6月19日 幕府 アメリカと無勅許・調印
24日 水戸斉昭・慶篤親子 松平慶永(春嶽) 徳川慶勝(尾張)ら
不時登城して 井伊直弼を詰問
25日 家茂 将軍継子に決定
7月 3日 家定 倒れる 老中ら 大奥寝所に呼ばれる
4日 〃 一時持ち直し 井伊直弼と政治向きの対談
5日 不時登城した一橋派に 隠居・謹慎処分下る
6日 家定 薨去
7日 島津斉彬 没
8月 8日 「戊午(ぼご)の密勅」 水戸藩に下る
←安政の大獄の引き金となる「密勅」を出したのはこの人
孝明天皇です
この人を中心として 朝廷や公家は外国との調印に反対でした
特に この頃になると中・下級の若い公家たちの間では
「攘夷思想」が蔓延 徒党を組んで天皇に訴えるほどに
活性化していたんですね
このため孝明天皇も 「攘夷」を掲げる水戸・一橋派の意見に動き
前代未聞の 幕府の頭越しの「密勅」降下となりました
内容は 幕府の独裁的条約調印を責め これからは外様も含む
各大名と談合の上 攘夷に励むよう・・・・というものです
このやり方に 井伊直弼が「プッツン」しましたよー
どんだけプッツンしたかは また明日くわしくやりましょう
今日は昨日の「篤姫」でくわしく触れなかった政治向きの動きのことを
おさらいしときましょう
幕末はドドドっと進んじゃいますが 1つ1つ丁寧に押さえとくと
理解しやすくなります (誰よりも私にとって・・・)
まず 波乱の幕開け 安政5年(1858)をダイジェストしてみましょうね
3月20日 孝明天皇 条約調印に関しては 諸大名と協議のうえ再度請願しなさい
と 堀田正睦に告げる 簡単に言えば「不許可」
4月23日 井伊直弼 大老就任
6月19日 幕府 アメリカと無勅許・調印
24日 水戸斉昭・慶篤親子 松平慶永(春嶽) 徳川慶勝(尾張)ら
不時登城して 井伊直弼を詰問
25日 家茂 将軍継子に決定
7月 3日 家定 倒れる 老中ら 大奥寝所に呼ばれる
4日 〃 一時持ち直し 井伊直弼と政治向きの対談
5日 不時登城した一橋派に 隠居・謹慎処分下る
6日 家定 薨去
7日 島津斉彬 没
8月 8日 「戊午(ぼご)の密勅」 水戸藩に下る
←安政の大獄の引き金となる「密勅」を出したのはこの人
孝明天皇です
この人を中心として 朝廷や公家は外国との調印に反対でした
特に この頃になると中・下級の若い公家たちの間では
「攘夷思想」が蔓延 徒党を組んで天皇に訴えるほどに
活性化していたんですね
このため孝明天皇も 「攘夷」を掲げる水戸・一橋派の意見に動き
前代未聞の 幕府の頭越しの「密勅」降下となりました
内容は 幕府の独裁的条約調印を責め これからは外様も含む
各大名と談合の上 攘夷に励むよう・・・・というものです
このやり方に 井伊直弼が「プッツン」しましたよー
どんだけプッツンしたかは また明日くわしくやりましょう
by tukitodoraneko | 2008-07-21 17:16 | 江戸のあれこれ