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「無人島」という名のユートピア

昨日の続き ボニン島のお話です
江戸時代 庶民はこの島の事知っていたんでしょうか?
実は 幕府がほったらかしにしている間にも 漂流してこの島にたどり着いた者は
結構いたらしく その人たちの話から 奇妙な噂が広まっていました
  「無人島の東には 草木も多く 魚も捕れ 年中温暖で五穀が絶えず
   当然 年貢もない 夢のような島があるそうだ・・・
  「先ごろ 銚子で一村 全員が蒸発したことがあったが
   あれは その島へ移住したということだ・・・
  「その島は めっぽう島というらしい・・
一種のユートピア幻想ですね
茨城 鹿島郡にあった無量寿寺の住職親子は この島への移住計画をたて
あの「妖怪」と恐れられた鳥居耀蔵に捕らえられてしまいます
幕府お抱えの儒家・林家出身の耀蔵は 蘭学嫌いで有名
無人島で 外国人と連絡を取るつもりだろう などと
あらぬ容疑をかけ この計画を 高野長英や渡辺崋山などの
幕府批判とむりやりこじつけ 「蛮社の獄」のきっかけとなってしまうのです
これを最後に 江戸庶民の「無人島」熱は 一気にさめてしまいます
そして 幕末から明治へと進み 本格的移住が始まるのです

この時 政府は この島の先有権を証明するため 
先に幕府が否定した「小笠原貞頼」説を持ち出してきました
  「実は1500年代から この島のことは知ってたんだよ アッハッハ・・
そのため 今では「父島」には「貞頼神社」もできています
「無人島」という名のユートピア_f0122653_831128.jpgしかし ここにまた 不思議なことがひとつ・・・
幕末の文久2年(1862) 最初の八丈島からの
移民が (これは すぐに中断されますが)
草に埋もれた←こんな石碑を見つけました
表面に「にほへ」と 彫ってあるのがみえますか?
実は 小笠原貞頼はこの島を見つけた時 記念として 「いろは」「にほへ」「とちり」と彫った三つの碑を 三つの島に埋めた・・・という伝承があったのです
この石は 今でも「貞頼神社」のかたすみにありますが くわしく検証されたことはないようです
これも 幕府が島の既得権を証明するために 偽造したものなのでしょうか?

この後もボニン島(父島)は 歴史の波の中 数奇な運命をたどります
昭和11年 「山月記」「李陵」などを書いた作家・中島敦は
この島を訪ね こんな文章を残しています
  「奥村に 帰化人部落あり もと捕鯨を業とする亜米利加人なりといふ」
そして 「ロバート」という名前の男の子や 一目で白人と分かる容姿の女の子
などとも会っています
彼らは 家の中ではみんな英語で会話していたそうです

しかし 戦争が始まり 戦局が厳しくなると 島民全員に
本土への疎開命令が出るんですね
日本国籍でありながら 白人の容姿をもった彼らは 戦時中の日本で
どんな風に 暮らしていたのでしょう
そして 敗戦後には GHQの占領下におかれた父島に
白人系の島民だけに 帰島許可が出ます
この時から つい40年前に日本に返還されるまで
またこの島は 東京から千キロ南にある「外国」だったのです

現在 「父島」には二千ほどの住民がいます
docomoの携帯なら 通じるようになりました
本土のTVが受信できるようになったのは ここ数年のことです
気象庁が出す各種の警報が 父島を含むようになったのは
なんと 今年の三月のことです
コンビニどころか 集落以外では 飲み水も手に入りません
ただ あるのは私たちがとっくに失った 空と海・・・
イルカと鯨が遊ぶ姿と ゆるやかに流れる時間だけです

いつか近いうちに「空港」ができ 都会から1、2時間で行けるようになったら
この島は どんな風に変わってしまうのでしょう
今のうちに 25時間半かけて行ってみたいと思うのは 私だけでしょうか?

by tukitodoraneko | 2008-05-30 09:20 | 江戸のあれこれ

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