徳川家の「ザ・タッチ」

もうちょっとキリスト教に関して まとめときましょう
この前1601年には やはりスペイン系フランシスコ会の宣教師
ルイス・ソテロが来日 家康や秀吉に会っています
家康はスペイン船を 江戸に呼びたかったんですね
だから 初期の幕府は布教に関しては「黙認」状態
この間にキリシタンの数はドッと増え 東北・蝦夷にまで広まりました
こういう状況のなか 1605年正月 家康はまた上洛
それに遅れて3月 後をおった秀忠はなんと!10万の大軍を引き連れていました
これには大坂方もびっくり! 一戦あるのか?と思ったら
家康は 将軍職を秀忠に譲ることを 朝廷に申請
4月にはこれが認められて とうとう将軍は徳川家の世襲になるんですね
この時 家康は大坂の秀頼に 挨拶に来いや と言いましたが
淀君 大反対で かわって家康の6男・忠輝が報告に行ってます
こうして2代将軍は 3男・秀忠に決定しました
長男・信康はとっくに死んでるんでしかたないとはいえ
まだ結城家へ養子に行った2男・秀康はいたんですがね
この辺は 秀康の出生にも何か関わりがあったのでしょうか
家康には 11男5女がいて 側室は20人以上いたと思われます
f0122653_1232546.jpg←2男・秀康を生んだのは お万の方
まだ正室・築山殿 健在の時ですが 秀康は城下の家臣の家で産まれています
このため 築山殿の「いじめ」が取りざたされていますが 真偽はわかりません
丸裸にして 城外にほっぽりだした・・ってやつですね
普通は 城内で出産があたりまえのところ 何かわけがあったのでしょう
これは 秀康が双子であったためかもしれません
当時は 双子を「畜生腹」などといって忌み嫌う傾向がありました
ですから この時の双子の片割れは お万の方の実家にひきとられ 永見姓となり 知立神社の神職を継いでいます
この人は慶長9年(1605)に 子供もなく31才で亡くなりました
秀康の方も その2年後には亡くなっていますので
運の悪い双子でしたね
この二人のほか 問題児6男・忠輝も双子だったそうですよ
徳川家は 双子の血筋だったんでしょうか?
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by tukitodoraneko | 2007-09-23 12:33 | 江戸のあれこれ

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