「THE 関が原」 前日

さあ とうとう「関が原」前日になりました
今東京は「台風」が近づいてますよー 
関が原も雨が続いていたといいますから こんなだったでしょうか
f0122653_12174626.gif関が原の位置はだいだいわかりますか?
岐阜と滋賀の県境近く 岐阜の西南部あたり
西に十数キロで琵琶湖にぶつかります
この湖畔に石田三成の佐和山城がありました
戦場になった場所は 伊吹山系と鈴鹿山系にはさまれた
東西4キロ・南北2キロの細長い盆地です
地図の青丸は 最初に先発軍が集合してたところ
中仙道の赤坂宿です
ここの東南に大垣城があり 三成たちが集まってました
9月1日 江戸を発った家康本隊は 12,3日には岐阜に到着
この頃にしたら なかなかの強行軍でしたね
14日の早朝には 赤坂に移動 長良川に鵜船を並べ
橋がわりにして渡ったそうです
そして赤坂のすぐ南 岡山の頂上に設けられた陣所に入りました
岡山は 戦後 東軍勝利を記念して「勝山」と名づけられた所です
ここに突如 家康の旗差物がひるがえると 東軍の意気は一気に上がり
西軍の方からは 「もう来たのか!」という どよめきが聞こえたということですよ
 うわ!よくないムード!こりゃいっちょ かまさないと!
っていうんで 出て行ったのが島左近 
そして 宇喜多秀家の軍師・明石全登(てるずみ)です
大垣の西を流れる杭瀬川(くいせがわ)を渡り
水田の稲を刈って 東軍を挑発したんですね
この挑発に乗って出てきた東軍は 逃げる西軍を追いかけて杭瀬川を渡り 
待ち構えていた伏兵に散々な目に会いました
この勢いで 到着したばかりの疲れた家康軍を 岡山で夜討にかけたら
もしかしたら・・・・って思いませんか?
事実 宇喜多秀家や島津義弘は 強く主張したんですが
腰が引けてる三成は 賛成しなかったんですね

現代の私達は 結果を知っているんで 
関が原の「東軍圧勝」は当たり前のことと 受け止めがちですが 
当時はいくつかの時点で 結果を左右する「決断」の時があったんでしょうね
江戸を発ち 東海道を上る家康軍を見て
「この度 徳川殿 御滅亡」 という風聞が飛び交ったと言います
少なくとも 当時の人たちには 戦の行方は予測不能だったんですね
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by tukitodoraneko | 2007-09-06 13:36 | 江戸のあれこれ

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