恋と戦争にはルールがない?

家康の「関が原」に向けての準備は 着々と進んでました
一つ目のタンコブ 前田は加賀におしこめ 人質もとった
二つ目のタンコブ 三成は佐和山に 逃げ込んでる
薩摩にも恩を売ったし 宇喜多の重臣も取り込んだ
ほとんどの有力大名とは 親戚関係
家康は西国の雄・毛利輝元にも 手紙を送って
「何があっても 兄弟だよ!」と 懐柔してます
あとはちょっとした「きっかけ」が 必要なだけ
f0122653_10553386.gifそんな1599年の7月のこと
←会津の上杉景勝が 領国へ帰ると挨拶に来ました
景勝は あの勇名たかき変人・謙信の養子です
生涯 独身を通した謙信は二人の養子を取って亡くなりました
実の姉の子・景勝と 北条氏康の子・景虎です
謙信没後 二人は「御館の乱」で戦って 景勝が勝ち残ったわけです もちろんバックには 直江兼継あり!
後年 「関が原」のきっかけに関しては 諸説取りざたされています
直江兼継が三成と組んで 東西で挙兵しようとした「西軍主導説」
家康が 「会津征討」を口実に大坂を離れ 三成の挙兵を誘う「東軍主導説」
ま、両方とも いつかぶつからなきゃならなかったんだから たまたまこの時にタイミングがあったのさ という「東西呼応説」
みなさんはどう思いますか?
わたしは 家康には多分「誘い出し」の意図はあったと思います
でも 三成側でも「罠だな」という自覚があって挙兵したんでしょう
もちろん やけで挙兵したわけじゃなく 西国大名や豊臣恩顧のものに加え
西国の雄・毛利氏と 秀頼さえいれば勝てる!とふんでの行動です
ただし 「西軍主導説」だけはどうかなー?と
かしこい兼継が 果たして三成と組んで勝てると思ったのかな?
その辺が???です
どちらにしても 景勝が帰国したのが「初めの一歩」になったのは確か
戦国の群雄割拠の頃とは違い もう勝手に戦争始めるわけには
いかなくなったということでしょう
いくさには「大義名分」が必要になってきたんです
これは 進歩なのかしら?
とりあえず 日本における最初の「戦争のルール」ですね
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by tukitodoraneko | 2007-08-14 12:13 | 江戸のあれこれ

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