「突然」のその後

天正15年(1587)九州で 秀吉が「突然」じゃなく「当然」
「伴天連追放令」その他の書状を出すと
キリシタンの大名・家臣たちには 衝撃が走りました
この時すぐさま棄教して 一転キリシタン迫害に移るのは
父・宗麟を亡くしたばかりの 大友義統
そりゃそうでしょ 「島津がひどいよ!SOS」出して 助けてもらった手前
それぐらいしないとね
相手はもう 戦国の一大名じゃなく 「関白太政大臣」秀吉様ですもん
この時すばやく 身を処したのは 黒田孝高(官兵衛・如水)
蒲生氏郷 有馬春信 など 期を見るに敏い方々
彼らは 秀吉の手前は従順で その実 自領では今までどうり
キリシタンを保護した者もいます
まあ それが妥当な線でしょう
でも それができない 「自分 不器用ですから・・・」の人
f0122653_11364070.jpg←そんな 戦国版高倉健だったのが 高山右近でした
秀吉は 「伴天連追放令」を出した時
二人の使者を出し 一人はその時博多に入港していたポルトガル船へ
もう一人は 別の書状を持って 高山右近の陣営へと走りました
もちろん 「領国を安堵するから棄教せよ」という内容
秀吉はなにより 右近の人望、他の大名への影響力を恐れていました
実際 右近の勧めで入教した者も多かったのです
この頃 右近は播磨の国・明石に6万石の領地をもらっていました
高山の小さな盆地の領主だった時から比べれば たいした出世です
右近は 武将としての資質にも優れ 秀吉にもその手腕を買われていた証拠です
それなのに 右近は棄教を迫られるや 領国も領民も捨て その日のうちに逃亡しちゃうんですね 「人々をキリシタンに入信せしは 我が手柄!」と言い切って
海路 小西行長の領地の一部だった小豆島へ!
やがてここで オルガンティーノ あの伴天連「うるがん」さんと再会します 
この うるがんさんに説得されて 小西行長はまた
一度は捨てたキリシタンへ戻ってしまうんですねー
気の弱い行長は 右近のような行動にあこがれながら
秀吉とキリシタンの間で 二股膏薬のように あっちへぺタリ こっちへぺタリ
この人も ある意味 不器用な人だったんでしょう
もとは 堺の豪商の二代目だった小西行長 
後に 「関が原」で西軍の将として 断罪されるなんて
まだ思ってもいなかった頃のことです
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by tukitodoraneko | 2007-07-27 12:29 | 江戸のあれこれ

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