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死因は みんないっしょ

家康の次男 結城秀康・金の虎の加藤清正・紀伊和歌山藩 初代藩主浅野幸長
そして 加賀藩 芳春院の息子 前田利長
この4人に 共通するファクターってなんでしょう?
結城秀康 1607年 34才
加藤清正 1611年 50才
浅野幸長 1613年 38才
前田利長 1614年 53才
年齢は 享年です そう 死因なんですね
全員が 梅毒のため 亡くなっています
中でも 結城秀康の「鼻欠け事件」は有名なんで 知ってる人も多いでしょう
秀康が欠けた鼻を 膏薬でかくして 家康に対面したところ
「大将たるもののすることではない! わが子として情けない!汚れきった心根じゃ!」
と さんざんな言われ方 まぁ かくさなくたって文句言ったんでしょうが・・・
 
特効薬のペニシリンができてから 梅毒は死ぬ病気ではなくなりました
エイズは知ってても 梅毒はどんな病気か知らないわ って人もいるでしょう
ひと昔まえは 「花柳病」とか「腎虚」なんていう場合もありました
戦前までは 普通に「○○さんのおじいちゃんって人は梅毒で・・・」
なんて話が よく聞かれたそうです
梅毒という病気の原因菌は 南米大陸にあったそうです
エイズが初め タイの猿の間の風土病と言われてたのと 似てますね
この梅毒菌は 大航海時代の始まりと共に 世界中に広まります
コロンブスがスペインに持ち込んだのが 1493年
日本では 早くも19年後の永正9年(1512年)
京都を中心に西日本で流行しています
近代になって 東京駅付近の堀の中から発掘された人骨は
室町時代のもので うち年齢の若い三体は頭蓋骨に穴が開くほどの
ひどい梅毒に侵されていたそうです
初期の梅毒は 数ヶ月で死に至るほどの劇症だったのですね
この梅毒は 50年もすると かなり病状の進行が遅くなり
感染してから 死亡までが10年以上
この梅毒が 戦国末期にまた流行したんですね
この遅延型の梅毒は 1期から4期まで進み 3期に至ると鼻が溶け崩れたそうです
結城秀康の死の10年前というと 1597年
秀吉が朝鮮に2度目の出兵をする 慶長の役の年
梅毒の感染源は 朝鮮か 又はこのころ大はやりの
歌舞伎踊りの踊り手たちではないかと 推測されます
この4人とも 秀吉寄りの武将だったこと そして秀吉自身も
梅毒だったんじゃないかという疑いを持たれていることからすると
なんとなく うなずける点がありますよね
どちらにしても 英雄・豪傑といわれた人々の
死因としては ま!それもいいんじゃない と思えます
夢を追い 戦いに明け暮れ 花柳病で死す!
なかなか 風流な生き方だと 思いますよ

by tukitodoraneko | 2007-05-21 12:29 | 江戸のあれこれ

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