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漂流船リーフデ号の謎

さてさて 家康・江戸入りから8年後 待ちに待った秀吉の死去
目の上のタンコブがとれた家康は さっさと朝鮮から撤兵させ
次の年には 豊臣派の石田光成を 蟄居に追い込みます
そして 1600年 天下分け目の関が原の戦いの年がやってきました
ところがこの年 関が原の半年前の3月に 思いがけない事件がおこります
オランダ船 「リーフデ号」の漂着です
漂着したのは 豊後の国 今の九州・大分県ですね
国を出た時は 5隻ほどの船団でしたが 災害やら襲撃やらで
たどり着いたのはたった1隻
それも 100名以上いた乗組員のうち24名しかおらず
ほとんどが ヘロヘロの状態でした
はじめは 海賊とまちがわれ殺されそうになりましたが
大阪で そのうち比較的元気だった二人と謁見した家康は
彼らが気に入って 領国・江戸に連れ帰ります
漂流船リーフデ号の謎_f0122653_1231743.jpg一人は←この人 イギリス人のウィリアム・アダムス航海士
後の「三浦按針」さんですよ 
今も日本橋に 按針通りという地名が残ってますね
この人は ロンドンの南・ジリンガムという造船の街で生まれ
バーバリ商会に勤めてたこともあります
ちょっと前まで 女子高生御用達だった あのバーバリですよ
家康の下でも 造船・外交顧問として大活躍
大伝馬町の名主・馬込勘解由(まごめかげゆ)の娘と結婚して 
ジョセフ・スザンナという二人の子までいました
横須賀に250石の知行地ももらっていたそうですよ
名字帯刀を許された初めてのイギリス人です
漂流船リーフデ号の謎_f0122653_12273513.jpg←これは東京・八重洲口に残る
「リーフデ号」とヤン・ヨーステンのレリーフ
もう一人は 「八重洲」と言う地名に残るこの人 砲術専門家でした
拝領した屋敷が 内堀の近くのこの辺りにありました
関が原で 家康軍の大砲の的中率が格段に上がったのは この人のおかげと言われてますよ その後も朱印状を持って 貿易に従事 家康政権に貢献します
でもかわいそうな事に 二人とも帰国を望みながら 叶えられぬまま
日本で客死してしまいます 不憫ですねー
でも もっと不憫なのは リーフデ号の残りのメンバー22人
そして 按針の二人の子供のその後です
どちらも 記録に残ってないのは 何でなの?
結構 心配ですよね これって

by tukitodoraneko | 2007-05-14 12:48 | 江戸のあれこれ

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