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江戸が消えた日

年も明けて 慶応4年(1868) 江戸の最後の年がやって来ました
政権だけじゃなく 官位も領地も返せよ!と追い込まれた慶喜
そこに 薩摩藩の挑発も加わり 大阪に退いていた幕軍は
とうとう 京に向けて進軍を始めました
会津藩や新撰組も この中にいます
待ち構えていた薩・長軍と 鳥羽・伏見の戦いが始まります
しかし 相手は今や 官軍!その上 新政府軍!
どちらにつくのが有利かは 「火を見るよりも明らか」 ってやつ
もともと この進軍に乗り気でなかったという慶喜は 
大阪にいましたが 自分への「追討令」が 出たと聞くと
1月7日の夜 わずかの側近とともに 江戸へ逃走します

さあ ここからが「大奥」の出番ですよ
この時 江戸城にいて 逃げ帰った慶喜を待ち構えていたのは
天障院と静寛院(和宮)
天障院は 薩摩藩主・島津斉彬の養女として 家定に嫁いだ方
官軍リーダー・西郷隆盛にとっては 大恩ある藩主の姫君
一方 静寛院は 現天皇の叔母にあたり 官軍の総督・有栖川宮は
かつての婚約者でした
二人は 慶喜が上野・寛永寺に謹慎後も 江戸城を一歩も動かず
官軍・朝廷に宛てて 陳情の手紙を書きまくります
 「我が命と引き換えても 徳川家の存続 このことだけは・・・」
かつての嫁・姑が 徳川家存続の危機で 一致団結したんですね
江戸城の無血開城の裏には こんな大奥の女たちの尽力があったのですよ
現在も徳川の子孫の中には この時の二人のご恩をわすれず
ご位牌を祀っている お家もあるそうですよ

3月13日 田町の薩摩藩邸で 西郷と勝海舟の会見がおこなわれ
開城は 4月11日に決定しました
先立つ9日 午前10時過ぎ 天障院は夫・家定の生母・本寿院と
ともに 一橋邸へと
静寛院は同じく 姑・実成院とともに 清水邸へ移るため
江戸城 御出門  苦楽のすべてをそこで過ごした大奥の終焉でした

そして 11日 開城の日
寛永寺を出た慶喜の一行は 水戸に向かって出立しました
旧幕臣たちは 慶喜の籠から離れがたく
千住に至ると 泣きながら 遠くなる一行を見送ったそうです
誰の心にも せつない事実が 浮かんだ事でしょう

 ああ・・・・江戸が 去っていく・・・・・

by tukitodoraneko | 2007-04-17 11:32 | 江戸のあれこれ

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