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公武合体から坂下門外の変へ

「桜田門外の変」で 大老・井伊直弼を失った幕府は 帆をなくした船のよう
時代の風に吹きまくられ ヨロヨロと幕末へ向かって漂うことになります
とりあえず 井伊大老の計画どおり 「公武合体」をすすめようと
頑張ったのは 久世広周と安藤信正コンビ
「桜田門」の翌月には 京都所司代を通じて願い出ます
これに関しても 世論は真っ二つ!
それもそのはず 朝廷はあくまでも「攘夷」してほしいから公武合体
対する幕府は 開国の許可をもらいたいから公武合体
折り合うはずも ありません
 「和宮を降下させたら 攘夷の方はいつやるの?」という 質問に
 「えー 7、8年か・・10年くらい・・・」
なーんて 心にもない いいかげんな返事で 事を推し進めます
これに怒ったのは 尊皇攘夷派
 「攘夷する気もないくせに 皇女を人質にする気か!」
そのとうりなんで 言い返せませんねー

すったもんだの末 文久元年(1861)10月15日 和宮の輿は 京都を発ちます
攘夷派の 和宮奪還!の計画を恐れて 東海道を避け
中仙道を 大変な警備ですすみました
御三卿のひとつ 清水家に到着したのは 一ヵ月後
井伊直弼の死から 1年8ヵ月がたっていました
和宮は 翌月 本丸に移り 年が明けて2月に家茂との婚儀が決まりました
ところが その婚儀の直前 またしても襲撃事件が 起こるのです
今度も 水戸浪士の犯行 場所は坂下門の前
公武合体から坂下門外の変へ_f0122653_13375097.jpg襲われたのは 公武合体を進めた 安藤信正です
時は 1月15日 小正月の登城日にあたります
さすがに 「桜田門」の教訓もあり 警備が厳重だったため
6人の襲撃者は その場で切り殺されました
信正はというと 背中に軽傷を負っただけ
ところが この時 はだしで坂下門に逃げ込んだ姿が
 「幕閣にあるまじき ぶざまな態度!!」
と 非難され 老中を罷免されてしまいます
確かに ちょっと気の弱そうな お顔立ち
だけど 命あってのモノダネだと思いますよねー
ま そこまで対面を気にするくらい 幕府の権威は地に落ちて来てたんでしょうね

by tukitodoraneko | 2007-04-03 13:51 | 江戸のあれこれ

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