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長尾邸と長尾よね

長尾邸と長尾よね_f0122653_1216444.jpg先日 H氏に案内していただいた深沢高校内の長尾邸
「東京の地霊」という本も買って 調べ始めたら どんどんおもしろい事実につきあたって 収集が
つかなくなってきましたので 
とりあえず ここまでのところを 
書いてみましょう
現在 東京都選定の歴史建造物となっているこの長尾邸
設計は 大江新太郎(他に明治神宮の宝物殿・高野山霊宝館など)
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今はない日本庭園は 財閥御用達の小川治兵衛(植治)の作庭  昭和6年にできた大邸宅でした
持ち主は お年の方なら誰もが知ってる「わかもと」で 
一代に巨万の富を築いた長尾欽弥でした
私の祖母も 「強力わかもと」常備薬でしたよ
「ビール酵母」同様 滋養強壮整腸剤として 当時の人はみんな知っているでしょう
戦時色の強くなっていく昭和初期 長尾財閥は軍部と結びついて 「わかもと」は兵隊の常備薬ともなり 年間一千万本の売り上げを誇り 昭和12年の日中事変の時には 
軍に戦闘機を 献納しています
軍部や政府との結びつきには 欽弥の妻・よねの存在も大きかったでしょう
長尾邸と長尾よね_f0122653_1362938.jpgこの女性は 私生児だったということで 実の父母については 分からなかったのですが あの土佐出身の宮内大臣・
田中光顕の養女になっているのです
田中は いわずと知れた
明治天皇の側近です
そして 夫妻共に 美術工芸品の収集家になっていくのですね 
当時 長尾邸には 里見弴や 画家・児島喜久雄などが出入
長尾邸と長尾よね_f0122653_13144276.jpgりしていました
この深沢の屋敷以外にも 近江・坂本には「隣松園」 鎌倉には「扇湖山荘」という大邸宅も持っていました
しかし それも終戦と共に 全て終わりを告げます
時の内閣 そして「戦犯」となった近衛文麿は →
隠棲していた軽井沢から上京すると 荻窪の自邸ではなく
この長尾邸に直行して 自殺の前日まで滞在していました
彼が服毒した毒薬は 製薬会社社長だった長尾氏から
手に入れたものと推測され その枕元には 「わかもと」の
ビンもあったと 記されています
終戦と共に 長尾氏は会社での実権も失い 邸宅も次々に
人手に渡りました
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国宝級の美術品があったという「長尾美術館」も 一時は「鎌倉園」という料亭となり 数年前には 三菱から鎌倉市に 寄贈されています
世田谷の長尾邸も 昭和30年には 
当時のお金で六千万という高額で売られ それからは夫婦して 原宿のセントラルマンションやホテル(ニュージャパン)を転々としたようです
欽弥の方が先に亡くなっているのですが 資料は見つからず
妻のよねは 晩年は鎌倉にひっこんで 昭和42年 79才で亡くなりました
多くの芸術家を支援し いつもボロボロの穴の開いた服を着ている児島喜久雄に 
服をこしらえてやったり あの魯山人の後援もしていて 
衆人の中 口論してひっぱたいたこともあるという女傑でした
そして 相撲好き 刀剣好きで 内田良平と戦後まもなく 海外に持ち出される刀剣類の
保護もしたようですよ

これぐらい書けばいいかな・・・? Hさん 読んでくださいね

by tukitodoraneko | 2012-07-12 14:05 | 明治・大正・昭和

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