新撰組 市村鉄之助
2012年 06月 20日
さて今日は 日野本陣パート2 新撰組 市村鉄之助です
「組オタ」の方は とっくにご存知でしょうが 恥ずかしながら初耳です
嘉永7年(1854)美濃・大垣生まれのこの人は 兄と共に14才で 新撰組に入り
土方歳三付きの両長召抱人(小姓)となります
そして函館まで同行し 明治2年(1869)には この地で果てるはずでした
しかし 土方に「行かなければ斬る!」とまで言われ
日野の土方の義兄・佐藤彦五郎の元に 土方の遺品(洋装写真・遺髪・小切紙)を
届ける役目を負いました
小切紙には「使いの者の身の上 頼上候 義豊」と歳三の自筆で書かれていて
これが彼の絶筆でした
同年7月 佐藤家にたどりついた鉄之助は 以来2年あまり 本陣内の←この六畳間に
かくまわれ過ごします
まだ16才ほどの男の子 どんな生活だったのでしょうね
この間 彦五郎から読み書き・剣術を習っていたそうですよ
現在 駐車場になっているところに
天然理心流佐藤道場がありました
今も立派な道場跡碑が残り これは彦五郎のひ孫の方が
建てたものですね →
その後 鉄之助は 地元・大垣に帰り 商人になっていた兄と再会
しかし 西南戦争が起こると 西郷軍に参加して 九州で戦死したと伝わっています
地元では これをはばかったのか「病死」ということになっていて 大昌寺にお墓もあります
← この市村家の墓に兄・辰之助と共に 眠っていることになっているそうですが 本当はどこで亡くなったのでしょう
西南戦争に行ったとしても まだ20代前半
短く 波乱に富んだ一生だったのですね
土方歳三は「頗る勝気 性亦怜悧」と彼を評しています
最後に 関さんの描かれた市村鉄之助 ↓
ホントに二人が出会ってたら
ちょっと同窓会気分だったで
しょうね^^
「組オタ」の方は とっくにご存知でしょうが 恥ずかしながら初耳です
嘉永7年(1854)美濃・大垣生まれのこの人は 兄と共に14才で 新撰組に入り
土方歳三付きの両長召抱人(小姓)となります
そして函館まで同行し 明治2年(1869)には この地で果てるはずでした
しかし 土方に「行かなければ斬る!」とまで言われ
日野の土方の義兄・佐藤彦五郎の元に 土方の遺品(洋装写真・遺髪・小切紙)を
届ける役目を負いました
小切紙には「使いの者の身の上 頼上候 義豊」と歳三の自筆で書かれていて
これが彼の絶筆でした
同年7月 佐藤家にたどりついた鉄之助は 以来2年あまり 本陣内の←この六畳間に
かくまわれ過ごします
まだ16才ほどの男の子 どんな生活だったのでしょうね
この間 彦五郎から読み書き・剣術を習っていたそうですよ
現在 駐車場になっているところに
天然理心流佐藤道場がありました
今も立派な道場跡碑が残り これは彦五郎のひ孫の方が
建てたものですね →
その後 鉄之助は 地元・大垣に帰り 商人になっていた兄と再会
しかし 西南戦争が起こると 西郷軍に参加して 九州で戦死したと伝わっています
地元では これをはばかったのか「病死」ということになっていて 大昌寺にお墓もあります
← この市村家の墓に兄・辰之助と共に 眠っていることになっているそうですが 本当はどこで亡くなったのでしょう
西南戦争に行ったとしても まだ20代前半
短く 波乱に富んだ一生だったのですね
土方歳三は「頗る勝気 性亦怜悧」と彼を評しています
最後に 関さんの描かれた市村鉄之助 ↓
ホントに二人が出会ってたら
ちょっと同窓会気分だったで
しょうね^^
by tukitodoraneko | 2012-06-20 12:05 | 江戸あるき