正定寺 剣豪と名人
2011年 11月 14日
うわー やっと4件目正定寺さんです
学校みたいに見えますが 右横から墓地に入れます
台東区松が谷にある浄土宗のお寺
当初は神田にあり 後 下谷
正徳4年(1714)現在の「三十三間堂跡地」に移ってきました
当日は お稚児行列があるとかで
可愛いお子様たちが稚児の格好で
たくさん来てました
ここの墓地にあるのは 剣豪 島田虎之助のお墓 →
直心影流ですねー
中津藩士の子に生まれ 天保9年(1838)に江戸へ出て
男谷清一郎の内弟子となります
一年ほどで 師範免許を受け 男谷道場の師範代を勤めるようになるのですね
同14年 東北方面に武者修行の後 浅草新堀で道場を開き
ここには勝麟太郎(のちの海舟)も通いました
虎之助は 男谷に次ぐ幕末の剣豪といわれますが
嘉永5年(1852)9月16日に39歳で病没
墓碑には「余、哀歎ほとんど一臂を失うごとし」と
男谷精一郎の銘文が刻まれていますよ
そしてもう一人は「鏝絵(こてえ)」で有名な伊豆長八のお墓です
千住や品川に「鏝絵」は残っていますので 実際ご覧になった方も多いでしょう
漆喰を鏝で塗りつけ 浮き彫りのようにする技術です
長八はこの名人で 出身地の伊豆・松崎には美術館もありますね
明治3年(1870)に名字の名乗りが許されると 最初上田と名乗り 後に入江と改姓
明治22年10月8日に78歳で 深川に没すると 遺骨は正定寺に埋葬され 同時に松崎の浄感寺にも分骨されています
正定寺の墓石には「入江家先祖の墓」と刻まれ 台石に刻まれた「深川播磨屋」というのは養家の家号です
「鏝絵」というのは
← たとえばこんなの
彫刻みたいですね
火防せの願いをこめて
蔵の内戸に龍を彫ったり
商店の看板の上の壁に
商売にちなんだものを 造ったりしたんですね
この他 三世柳亭種彦=高畠 藍泉(たかばたけ らんせん)の墓もここです
初代の弟子として 明治初期の新聞で活躍した人ですね
あー やっと4件終わった・・・・
浅草寺町 まだまだ続きますよー
学校みたいに見えますが 右横から墓地に入れます
台東区松が谷にある浄土宗のお寺
当初は神田にあり 後 下谷
正徳4年(1714)現在の「三十三間堂跡地」に移ってきました
当日は お稚児行列があるとかで
可愛いお子様たちが稚児の格好で
たくさん来てました
ここの墓地にあるのは 剣豪 島田虎之助のお墓 →
直心影流ですねー
中津藩士の子に生まれ 天保9年(1838)に江戸へ出て
男谷清一郎の内弟子となります
一年ほどで 師範免許を受け 男谷道場の師範代を勤めるようになるのですね
同14年 東北方面に武者修行の後 浅草新堀で道場を開き
ここには勝麟太郎(のちの海舟)も通いました
虎之助は 男谷に次ぐ幕末の剣豪といわれますが
嘉永5年(1852)9月16日に39歳で病没
墓碑には「余、哀歎ほとんど一臂を失うごとし」と
男谷精一郎の銘文が刻まれていますよ
そしてもう一人は「鏝絵(こてえ)」で有名な伊豆長八のお墓です
千住や品川に「鏝絵」は残っていますので 実際ご覧になった方も多いでしょう
漆喰を鏝で塗りつけ 浮き彫りのようにする技術です
長八はこの名人で 出身地の伊豆・松崎には美術館もありますね
明治3年(1870)に名字の名乗りが許されると 最初上田と名乗り 後に入江と改姓
明治22年10月8日に78歳で 深川に没すると 遺骨は正定寺に埋葬され 同時に松崎の浄感寺にも分骨されています
正定寺の墓石には「入江家先祖の墓」と刻まれ 台石に刻まれた「深川播磨屋」というのは養家の家号です
「鏝絵」というのは
← たとえばこんなの
彫刻みたいですね
火防せの願いをこめて
蔵の内戸に龍を彫ったり
商店の看板の上の壁に
商売にちなんだものを 造ったりしたんですね
この他 三世柳亭種彦=高畠 藍泉(たかばたけ らんせん)の墓もここです
初代の弟子として 明治初期の新聞で活躍した人ですね
あー やっと4件終わった・・・・
浅草寺町 まだまだ続きますよー
by tukitodoraneko | 2011-11-14 10:28 | 江戸あるき