聚楽第のこと

さて週末は 「大河」に戻って 今日はあまり出てこない聚楽第について書いてみましょう
f0122653_14591740.gifこれは 秀吉が関白になった翌年 造営を始め 九州征討から戻って後 使い始めた所
天正15年(1587)のことですね
4年後 姉の子・秀次に関白職をゆずると共に この建物も一緒に与えていますので 関白の政庁そして接待の場所として 使われたと見ていいでしょう
後陽成天皇が 秀吉時代 秀次時代と 短期間に2回 行幸しているのも ここが関白の公邸の性格を持っていたからでしょうね
聚楽第という名前は 楽しみを 聚(あつ)めるという意味からつけたもので 「第」は今では「だい」としか読みませんが 当時は「てい」とも読み =邸の意味でもありました
f0122653_15211252.jpgとはいえ 二の丸や堀もありましたので 聚楽城と 表記したものもあります
秀吉は「関白」として 謁見する場合は ここを使っています
家康や かの天正少年遣欧使節が帰国した時も
ここで会って 西洋音楽など聴いていますよ
周りには 当時の有力大名の屋敷も立ち並び 「総理官邸」的な感じだったのではないでしょうか
場所は 二条城の北1km 御所の西にあたる所です
今は町屋になっていますので 大規模な発掘調査はなされていませんが 金箔の瓦なども出土し かなり装飾的であったことから
やはり城というよりは接待所としての機能の方が強かったようです
f0122653_15333987.jpgこの「聚楽第」の遺構が ほとんど残っていないのは 関白・秀次の失脚と共に ここがきれいに破却されてしまったからです
結局 聚楽第は 秀吉・秀次時代を合わせても 8年間しか存在しなかったわけですね
遺構のいくつかは 伏見城や 寺などに移されたといいますが
運の悪いことに 破却の翌年には 
あの「京都大地震」・・・清正が 駆けつけたというアレがあったため
確かな物は 確認できなくなっています
東南の伏見区に 現在も「聚楽町」という地名が残っていますが ここは破却の後 周りの町民が移り住んだ所だそうです
私世代の方は 「じゅらく」と聞くと むかしTVCMで「ジュラクよ~ん」と 
色っぽい外人のお姉さんが言っていた某キャバレーチェーンを 思い出しませんか?
あの名前が 「楽しみを集める」意味だったとは 小学生の知るよしもなかったですねー
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by tukitodoraneko | 2011-05-21 15:50 | 大河ドラマ

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