人気ブログランキング | 話題のタグを見る

将門のたたり

なんだか突然の暑さに すっかりバテてしまいました
私 本業は家事ですが 洗濯・草むしり・雑巾がけ 終わるとクラックラします
生まれた時から 専業主婦だったような気がしますし
なんだか ゴミを分別するためにだけ生きてるような気も・・・
あ、いかんいかん 先に進みましょうね
と、言っといてちょっと寄り道です
将門のたたり_f0122653_14161638.jpg先日 平将門の子孫・相馬家の話を書きましたが
この将門さまは 江戸で非常に人気のあった人です
西の菅原道真と同様の「たたり神」であっただけに 
その御利益も大きいと考えられていたんですね
平安・・・といっても 900年代なんで 清少納言より
もっと前ですが その頃 東国で軍を起こし 
藤原秀郷(俵藤太)に 征圧されてしまいました
その霊を祀ったのが 神田明神で 首塚は下馬将軍・
酒井忠清の邸内にあったものが 今も大手町に鎮座してますね
将門のたたり_f0122653_14341833.jpgまた 今は九段にあります「築土神社」には 将門の「首桶」というのも伝わっていました→

これは 戦災で社もろとも焼失してしまいましたが
「遊歴雑記」を書いた十方庵は 「この首桶の中味は 将門の髪とも 首とも されこうべとも言われ 見れば目がつぶれると言われて 神主でさえ開けたことがない」と 語っています
この写真は 明治になってから「東京市史稿」の調査で撮ったものですが 蓋が開いてますね・・・目、つぶれなかったかしら?
さて一方 将門を討った藤原秀郷の末裔
こちらは「佐野」という苗字を 継承している場合が多かったといいます
実は 内藤新宿の名の由来 高遠藩の内藤さまも 秀郷の家系=藤原を名乗っていましたよ
また 旗本の中にも「佐野」という家は 何家かありました
これらの家では 神田明神に参るのは厳禁で
使用人でさえ 「念書」を書かせてから雇ったといいます
行けば必ず将門の「たたり」があると言われ 祭礼の日など門を締め切り 
人の出入りを許しませんでした
祭りの日が登城日の場合は 夜が明ける前の七つ(午前四時)ころ 
神輿に行き会わないように出かけました
将門のたたり_f0122653_15254664.jpgここからは 天保(1840年)ころの東随舎というたぶん下級武士だった人の随筆からご紹介します
安永年中 旗本に神田織部という者がいました 神田は 
相馬と同じ将門の末裔で 紋は「繋ぎ馬
ある日 ここへ同役の佐野五右衛門という者が 
遊びに来たと思ってください
二人は 酔った勢いで このまま岡場所に遊びに行く事になりました
しかし 佐野はお城からの帰り道とあって 着替えがなく 
神田の紋のついた羽織を貸してもらいました
もちろん この紋は繋ぎ馬
ところが 色町に着いた頃から 佐野の顔色は悪くなり 何やらひどい汗・・・
と、思うまもなく 「う~ん・・」とうなって倒れてしまったのです
旗本が 岡場所で倒れたとあっては お家の大事
なんとか介抱しながら 自宅へ送り届け 次の日に様子を見に行くと
なんと 家に帰って羽織をぬいだとたんに ケロッと治ってしまったというのです
そして 気がついたのが羽織の紋・・・
先祖同士の因縁で きっと この紋がたたったのだろう
将門公の心霊 恐るべし!   ・・・という お話です
反対に 藤原秀郷が 討伐前に勝利を祈願したのが 成田山の地
このため 神田明神の氏子は 成田山新勝寺に 参詣すると
将門公の ご加護が受けられなくなると 戒められていましたよ
何百年も続く両家の因縁
江戸の人たちは こんな因縁話も ちゃーんと語り継いで来たんですね

by tukitodoraneko | 2010-07-17 15:48 | 江戸のあれこれ

<< 龍馬伝第29回「新天地、長崎」 四谷大木戸と将門の末裔 >>