異国の旅人たち
2009年 10月 30日
なにげにもう 「江戸検」二日前になりました
去年の当時のブログを見ると 結構取り乱している自分発見
みなさんは そんなことないでしょうが あがらないで平常心で試験に挑んでくださいね
今日のまとめは 江戸の街道を旅した外国人使節の話にしましょう
はい やはり一番にぎやかだったのはこの「朝鮮通信使」ですね
秀吉の朝鮮出兵で途絶えていた国交は江戸初期の慶長12年(1607)に回復
対馬藩宋氏が 外交実務にあたり貿易も再開
日本からは「丁銀」を輸出し 輸入品の主なものは朝鮮人参や 中国産の
生糸・絹織物などでした
彼らは江戸時代を通じて 12回「朝鮮通信使」として来日
うち10回は 江戸城で国書奉呈などの儀式も行われました 浮世絵にも描かれ お祭の出し物にも残っていますね
そして 次が薩摩の参勤交代に同行して参府した琉球の行列です
絵からでは 朝鮮と琉球の区別つきませんね
彼らは 将軍の代替わりには「慶賀使」を 琉球国王の代替わりには「謝恩使」を
江戸に参府させていました
琉球は薩摩藩の管轄化にあったので まず日比谷公園のところにあった薩摩藩の屋敷で
衣服を整えて行ったため この屋敷は「装束屋敷」と呼ばれていましたよ
彼らは 全部で18回 渡来しています
この朝鮮・琉球に比べグッと地味だったのはオランダ商館長(カピタン)の一行
彼らは カピタン・副使・医師の三人くらいで
残りはすべて日本人の一行ですから 仕方ないですね
秘密保持のため せまい駕籠での旅を強いられ
彼らにとっても 大変だったことでしょう
彼らは 毎年1月15日には長崎で馬ぞろいを行い
3月はじめ=ひな祭りの頃には 江戸に着きました
阿蘭陀も花に来にけり 馬に鞍 芭蕉
ってわけです 常宿だった「長崎屋」は 日本橋石町の「時の鐘」のすぐそば
石町の鐘は 阿蘭陀までひびき
と 言われたんですね
ジミだったけど この一行にはケンペルやシーボルトもいて
江戸時代を通じて 166回も江戸に来ています
去年の当時のブログを見ると 結構取り乱している自分発見
みなさんは そんなことないでしょうが あがらないで平常心で試験に挑んでくださいね
今日のまとめは 江戸の街道を旅した外国人使節の話にしましょう
はい やはり一番にぎやかだったのはこの「朝鮮通信使」ですね
秀吉の朝鮮出兵で途絶えていた国交は江戸初期の慶長12年(1607)に回復
対馬藩宋氏が 外交実務にあたり貿易も再開
日本からは「丁銀」を輸出し 輸入品の主なものは朝鮮人参や 中国産の
生糸・絹織物などでした
彼らは江戸時代を通じて 12回「朝鮮通信使」として来日
うち10回は 江戸城で国書奉呈などの儀式も行われました 浮世絵にも描かれ お祭の出し物にも残っていますね
そして 次が薩摩の参勤交代に同行して参府した琉球の行列です
絵からでは 朝鮮と琉球の区別つきませんね
彼らは 将軍の代替わりには「慶賀使」を 琉球国王の代替わりには「謝恩使」を
江戸に参府させていました
琉球は薩摩藩の管轄化にあったので まず日比谷公園のところにあった薩摩藩の屋敷で
衣服を整えて行ったため この屋敷は「装束屋敷」と呼ばれていましたよ
彼らは 全部で18回 渡来しています
この朝鮮・琉球に比べグッと地味だったのはオランダ商館長(カピタン)の一行
彼らは カピタン・副使・医師の三人くらいで
残りはすべて日本人の一行ですから 仕方ないですね
秘密保持のため せまい駕籠での旅を強いられ
彼らにとっても 大変だったことでしょう
彼らは 毎年1月15日には長崎で馬ぞろいを行い
3月はじめ=ひな祭りの頃には 江戸に着きました
阿蘭陀も花に来にけり 馬に鞍 芭蕉
ってわけです 常宿だった「長崎屋」は 日本橋石町の「時の鐘」のすぐそば
石町の鐘は 阿蘭陀までひびき
と 言われたんですね
ジミだったけど この一行にはケンペルやシーボルトもいて
江戸時代を通じて 166回も江戸に来ています
by tukitodoraneko | 2009-10-30 14:33 | 江戸のあれこれ