鐘突きの娘はろくろ首!?
2009年 10月 14日
今日は 現在 伝馬町牢屋敷跡の「十思公園」内にある「時の鐘」の話をしましょう
コンクリート製のこんな鐘楼になってしまいましたが
江戸時代には「石町(こくちょう)」にあり
最も古い時の鐘です
最初は城内にありましたが 御座の間に近くあまりうるさかったために 町中に出したのですね
これより お城では「太鼓」で時を報せるようになりました
老中の登城なども この太鼓を聞いて出るんですよ
そして お城から下げ渡された鐘は「辻源七」というものが鐘突き役となって 江戸市中に時を報せました
お城の太鼓を合図に最初に鳴らすのがこの鐘なので
「八百八町の触れ頭」とも言われましたよ
この「時の鐘」は 江戸の町が大きくなると共に数が増えていきました
花の雲 鐘は上野か 浅草か
芭蕉の句にもあるように 上野の鐘は→
今も精養軒の横にありますね
浅草の鐘も 雷門の右手に現存しています
「鬼平」ファンの方なら 平蔵が本所の「時の鐘」のそばで
生まれ育ったことをご存じでしょう
この他にも「芝・切通し」「市谷八幡」「目白不動」「赤坂田町(成満寺)」「四谷天竜寺」などにもできました
石町の鐘は 四十八ヶ町に聞こえたといい
その範囲の町屋 一軒に付き「月四文」の鐘突き料をもらえます
武家は石高によって支払い 十万石で年間 銀一枚
加賀百万石では 一年に5両支払ったそうです
このように鐘突きという職業は とても儲かったので いろいろと「取り沙汰」されました
例えば 貸し金の催促や 牢屋敷の死刑執行など みんなこの「鐘」を合図にします
だから その恨みを受けると言うのですね
江戸時代の有名な俗説に「鐘突きの娘は首が伸びる」というのもあるんですよ
←いわゆる「ろくろ首」というものです
こういうこともあったためか 「鐘突き役」は何年か勤めると
株を売って人に譲り 隠居したとも言われています
現在の石町の鐘は 宝永8年(1711) 6代将軍 家宣の時
できたものが今も使われています
そろそろ300年になりますが 今でも「終戦記念日」と「大晦日」に私たちも突くことができます
江戸から続く 変わらぬ鐘の音 一度聞いてみたいですよね
コンクリート製のこんな鐘楼になってしまいましたが
江戸時代には「石町(こくちょう)」にあり
最も古い時の鐘です
最初は城内にありましたが 御座の間に近くあまりうるさかったために 町中に出したのですね
これより お城では「太鼓」で時を報せるようになりました
老中の登城なども この太鼓を聞いて出るんですよ
そして お城から下げ渡された鐘は「辻源七」というものが鐘突き役となって 江戸市中に時を報せました
お城の太鼓を合図に最初に鳴らすのがこの鐘なので
「八百八町の触れ頭」とも言われましたよ
この「時の鐘」は 江戸の町が大きくなると共に数が増えていきました
花の雲 鐘は上野か 浅草か
芭蕉の句にもあるように 上野の鐘は→
今も精養軒の横にありますね
浅草の鐘も 雷門の右手に現存しています
「鬼平」ファンの方なら 平蔵が本所の「時の鐘」のそばで
生まれ育ったことをご存じでしょう
この他にも「芝・切通し」「市谷八幡」「目白不動」「赤坂田町(成満寺)」「四谷天竜寺」などにもできました
石町の鐘は 四十八ヶ町に聞こえたといい
その範囲の町屋 一軒に付き「月四文」の鐘突き料をもらえます
武家は石高によって支払い 十万石で年間 銀一枚
加賀百万石では 一年に5両支払ったそうです
このように鐘突きという職業は とても儲かったので いろいろと「取り沙汰」されました
例えば 貸し金の催促や 牢屋敷の死刑執行など みんなこの「鐘」を合図にします
だから その恨みを受けると言うのですね
江戸時代の有名な俗説に「鐘突きの娘は首が伸びる」というのもあるんですよ
←いわゆる「ろくろ首」というものです
こういうこともあったためか 「鐘突き役」は何年か勤めると
株を売って人に譲り 隠居したとも言われています
現在の石町の鐘は 宝永8年(1711) 6代将軍 家宣の時
できたものが今も使われています
そろそろ300年になりますが 今でも「終戦記念日」と「大晦日」に私たちも突くことができます
江戸から続く 変わらぬ鐘の音 一度聞いてみたいですよね
by tukitodoraneko | 2009-10-14 14:57 | 江戸のあれこれ