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池波正太郎氏 おススメの散歩道

はーい 今日はまた「外堀ツアー」の続きで 赤坂見附と弁慶橋へ 行ってみましょう
清水谷公園を左手に まっすぐ歩けば 弁慶橋にぶつかります
渡りきれば 赤坂見附の交差点です
池波正太郎氏 おススメの散歩道_f0122653_14135918.jpg渡った方向から振り返って撮った写真です
左隅に見える小さな白い建物はボート乗り場
なんと ここでは「えさ釣り」は禁止ですが ルアーでなら釣りしてもいいんですよ
実際 見てるうちにも釣り上げてる人がいました
ブラックバスなどが釣れるみたいですよ
都会の真中で釣り・・・
なんだか いけないことをしてる感があります
この「弁慶橋」 できたのは 明治22年のこと 
江戸時代には ここに橋はかかってなかったので 
堀を越えるには東の赤坂見附門の橋を渡るか
紀の国坂を上り 西の食違見附の橋を渡るかしかなかったんですね
なぜ この橋を「弁慶橋」というかといえば もともと神田鍛冶町にあった同名の橋を
ここに移築したためです
池波正太郎氏 おススメの散歩道_f0122653_14321487.jpg← これがその橋です 変な形でしょう?
下を流れるのが「藍染川」 紺屋町を流れるから藍染の名がついたともいわれてます
この川が 曲がりくねって流れていたため 当時(寛永ころ)の弁慶小左衛門という大工の棟梁が
設計して こんな形の橋を架けたんですね
この橋は 明治18年ごろ 下の藍染川を埋め立てたため 解体され その廃材を利用して ここに移築したので そのまま名前を引き継ぎました
今では ここの堀も「弁慶掘」と 呼ばれています
本によっては この堀自体も「弁慶小左衛門」の縄張り(設計・施工)だったから・・・と 書いてあるものもあるんですが どうでしょう?
江戸時代の地図では 溜池以外 堀に名前が書いてあるものはないので やはり 橋の名前が先でしょうねー
またここの欄干についてる「擬宝珠(ぎぼし)」も 以前は他の見附の橋についていたものを 転用して使っていた・・・銘が彫ってあるのを見たという書物もあるのですが 昭和60年の 架け替え以来 どうなってしまったのやら 不明です
このあたりのところ 「江戸」時代ばかりに執着してると 明治になってから どれほど いい加減に開発の名の下に消えていった事物があるか わからないですね
やはり 明治~昭和の変遷も ちゃんと勉強しなければダメね と 思う今日この頃です
ここは 頭上に「高速道路」が走る前は とても閑静な散歩道でした
かの池波正太郎氏が 切絵図を持って散策した本に書いていますが
この赤坂見附から 弁慶橋を渡り 清水谷へ入っていく道がとてもお気に入りだったようです
「都会とは思えない静寂な雰囲気」が 当時はあったのでしょうね
私たちは このあと ニューオータニさんのご好意で 普段は鍵がかかって
通行不可になっている 内側の道(ボート小屋の裏の道)を通してもらい
大木の下の土の道を ちょっとした山歩き気分で歩きました
数年前 土手が崩れたため 今は閉鎖されている道です
池波さんの気分 ちょっとは味わえたかな?

by tukitodoraneko | 2009-05-13 15:14 | 江戸のあれこれ

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