ゴヤの赤 広重の青

十返舎一九のことを書いたからには 「広重」について書かないと片手落ちですね
しかし こちらは思ったよりもむずかしいんですよ
f0122653_17191354.jpg←こちらは還暦を過ぎて 剃髪した広重の肖像画
同じ 歌川派で仲がよく 共作もしている三代
豊国の描いたものです
この豊国と広重 国芳の三人は 歌川三羽烏と呼ばれ 豊国は 似顔(人物) 国芳は武者絵 そして広重はもちろん風景画・・・と 互いに得意分野があったわけです
まず 出身からいきますと 広重は八重洲河岸の
火消屋敷で 火消同心・安藤源右衛門の子として生まれました
父・源右衛門は早くに亡くなったらしく
13才で家督を相続 しかし 幼いときから画才があったらしい重右衛門は 当時 高名だった
初代・豊国に師事しようとしますが 門人が多すぎて断られ
なんとか豊広に入門を許され 師匠の「広」の字と自分の名を合わせて「広重」となのるようになるのですね
そして 肝心な彼の画業のことですが 他の浮世絵師と同様 日本ではほとんど 芸術作品としての評価・研究が 定まっていないのが現実です
皆さんもご存知のように 「浮世絵」の評価は 冬の天気と同じ
「西高東低」なんですね 
今では 誰もが知っている「写楽」のことを 初めて日本に紹介したのは
クルトさん 明治も終わりの頃のことです
ボストン美術館に何万点もの浮世絵が あるのも
幕末から 明治にかけて 日本人は誰も 鼻もひっかけなかったおかげです
もともと 「浮世絵」は江戸の人々にとっては ポスターみたいなもの
そば一杯と同じ値段で買える 手軽な刷り物だったんですね
だから 地方から来た勤番侍が 国に持って帰ったりして
かえって地方都市の蔵の中から 反古といっしょに出てきたりするんです
それでなくとも 破れた襖や障子の穴ふさぎにされたり
輸出する陶器の詰めぐさにされ 今なら発泡スチロールがわりにされて
海外に渡っていきました
広重の絵も そうしてピカソやルノワールの手元に届き 賞賛されたわけです
海外では 広重の版画の中に多く使われる「藍」を ヒロシゲブルーと呼んでいます
これは ゴヤ・レッドと並ぶ 色に個人名がついた珍しい例ですね
それほど 評価の高い広重ですが 日本では 
彼が実際に東海道を旅したことがあるのかどうか
また かれの「五十三次」には別人の書いた下絵があったんじゃないか
など 多くの謎が 謎のまま残っています
時間がたてばたつほど これらの事は不明になってしまい
西洋の価値観が大事な日本では 浮世絵の値段ばかりが
富士山よりも 高くなっていってしまうのでした・・・

安政のコロリで 亡くなった広重のお墓は 
足立区 竹の塚の東岳寺にあります
百年忌に建てられた 記念碑も残っていますよ
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by tukitodoraneko | 2009-01-31 18:19 | 東海道五十三次

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