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江戸の「厄落とし」

昨日は 寒いわけで「大寒」でしたね
そして今日 1月21日は「初大師」
江戸時代は こぞって厄落としに行く日でした
江戸の「厄落とし」_f0122653_1319942.jpgなかでも一番
人気があったのが
川崎大師
東海道名所図会には
参詣人で混雑
する奈良茶飯
の「万年屋」の
絵があります
奈良茶飯は
江戸検定の
問題にも出た
ことありますね
名前の通り 奈良・東大寺などの宿坊で食べられていたものです
江戸時代最初の食べ物屋も この「奈良茶飯屋」で
浅草の門前町に 明暦の大火の後 できたものです
どんなものかといいますと 五穀米をお茶で炊いて
そこにまたお茶をかけたもの・・・って感じかな
「膝栗毛」の中で 弥次さん 喜多さんも食べているほど
この川崎「万年屋」の奈良茶飯は有名でした
多摩川にかかる六郷の渡しを渡った所にあったそうです
厄落としというのは 女は19と33 男は25と42才を「厄年」として
この「厄」を 払いに行くものです

   九や三を 二が連れて行く 万年屋

なんて句もありますが これは42の男が
娘と妻を厄落としに連れて行くという意味ですね
当時 江戸の下町から川崎を一日で往復するのは
なかなかの強行軍 ちょっとした「旅」でした

   厄年に 東海道を ちっと見る

これは そんな旅気分を 詠んだものでしょう
川崎大師は 1127年 平間兼乗という元武士が
夢のお告げにより 大師河原で弘法大師像を網にかけたことを縁起とします
江戸中期には 8代・吉宗の子 田安宗武の帰依を受け
また 一橋家から将軍になった11代・家斉が参詣したことで
益々 評判を高めました
特に 文化10年(1813)家斉 41才の前厄の時
参詣の直前に 34世山主・隆円上人が急死すると
これが 将軍の厄落としのための身代わりとなったと喧伝され
またまた 庶民にもてはやされるようになりました
私の大好きな岡本綺堂氏の「半七捕物帳」にも こんな風に出てきます

 昔は 江戸から川崎の大師河原まで 五里半
 日帰りにすれば 往復十里以上 
 女は勿論 足の弱い人は途中をいくらか駕籠に 助けてもらわなければなりません
 脚の達者なものも 随分くたびれました

往復40キロ以上ですよ 
昔の人は みんな 箱根駅伝に出場できましたねー

by tukitodoraneko | 2009-01-21 14:30 | 江戸のあれこれ

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