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幽霊美人コンテスト

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左:全生庵              中:バークレー校           右:九渡寺
顔だけ 並べてみましたが どうでしょう?
保存状態のせいか バークレーのものが際立って見えます
どれが 本物らしいかと言えば やっぱりこれ?
そして 向って右の目の黒目の位置?
バークレー(中)と九渡寺(右)は 右下を見てる感じですよね
全生庵のは なんとなくこれが前方を見てる感じ
口元の笑った感じも 中と右は近いような・・・・
村松梢風(孫に「時代屋の女房」の村松友視)「本朝画人伝」によると
大津に囲っていた妾のお花の病死後 その面影を描いたのが
応挙の幽霊画の始まりってことです
はかなさの中に 色気と 凄味のある美人幽霊
九渡寺のは 写真もぼんやりしてるんで 何とも言えませんが
あとは 好みなのかなあ・・・・
幽霊美人コンテストがあったとしたら あなたは上の三人 誰が一番好み?
一位に選んだ幽霊さんが 落語の「野晒し」みたいに
夜 お礼を言いに来てくれるかもよ! 
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by tukitodoraneko | 2015-07-30 12:47 | 江戸のあれこれ

応挙の幽霊

あ~ 毎日 ヘリが飛び交っていて いいかげんにしてほしいです
今度は あれが落ちないかと 怖ろしいんですけど・・・・
障害者1級の夫が 体調くずしてますので よけい心配です
ま、しかたないですね  誰も大変!
考えても仕方ないんで ブログでも書こう
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上の絵 二枚とも応挙の幽霊図です
左は 昨日も挙げた全生庵の圓朝コレクション
右は アメリカのカリフォルニア大バークレー校にあるものです
「応挙の幽霊」は あまりにも有名になっていますが
実を言うと 美術史家の間で 間違いなく応挙の真筆と認められているものは
一点もないのです
不思議に思えますが あまりにも有名になったがため
似たような絵が たくさん出回ったということなのでしょう
全生庵のものは 圓朝さんのコレクションだったので「おそらく本物」
と 思われて来ただけで 応挙のサイン・判もありません
いわゆる証拠がないので どれも真筆とは言い切れないということなのでしょう
鏑木清方は 子供の頃から圓朝さんとは なじみがあって
もちろんその幽霊画もみたことがあるのですが
「応挙の幽霊は 有名だが 信ずべき真筆をみたことがないので 何とも言えない」 
と 語っています
そこで バークレーの方ですが これは現在 専門家の間で
最も真筆に近い・・・といわれている二本の中の一本なのです
サインも判もあるのは これだけ
f0122653_1912243.jpgそして もう一本が 青森県弘前の九渡寺にある ← これですね
「返魂香之図」と 伝わるもので 江戸時代 藩の家老が
江戸から持ち帰ったものと伝わっています
しかしどうも痛みがひどいようで 毎年旧暦五月十八日に一時間だけ公開する
というシロモノなので カリフォルニアのバークレーのは見たが
九渡寺の方を 実際に見たという近世絵画の専門家は いないのだそうです
公開された写真によれば 真筆に近い・・・というだけなんですね
どうでしょう? 真筆に近いと言われた二作は(右上と左下)
こうして見ると 同一人物が描いたように思えます

しかし今となっては 幽霊だけに「足がつかない」 
確たる証拠は残ってない・・・といったところでしょうか
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by tukitodoraneko | 2015-07-29 19:55 | 江戸・東京綺譚

うらめしや~冥土のみやげ展

f0122653_1421680.jpgはい!暑中お見舞い申し上げます!
・・・ってことでね「谷中全生庵」伝応挙の幽霊図です
毎年八月の間 公開される圓朝の幽霊画コレクションの目玉ですね
しかし! 今年に限っては 八月の半ばまで
東京芸大の大学美術館で↑ 上記の「冥土のみやげ展」に
貸し出されていますので 全生庵にはありません
展示替えで 16日までは芸大 18日から全生庵に戻ります
今年は 両方に行かないと全部は見れません
じゃあ来年でいいか…と思ったあなた!
「今度と 幽霊は 見たことがない」って 知ってますか?
「今度 メシでも・・・」「あ、じゃあまた今度」って言って
本当にメシに行きましたかね? 
それでなくとも 来年まで 何があるかわからないでしょ
明日のわが身は 誰にもわかりません
今年の幽霊は 今年 見ときましょう
それにね 芸大の方には も一つ目玉があるのよ
それは 明治39年(1906)圓朝の七回忌に出された
圓朝追福「七怪奇」絵葉我喜セット(七枚組)
この内 4枚は 焼失 または散逸してしまったもので
今回は 個人所有のものを 借りて展示しています
鏑木清方のものもありますのでね ぜひ見といてください
この圓朝七回忌にも いろいろ怪談がありましてね
この時 三遊派一門だけでも八十名 (その他二百名)が参加したのですが 中でも真打ち連は 僧侶の格好で練り込むという趣向
だったそうです
一番弟子ともいうべき圓橘は 大僧正のいでたちで 家を出る時
「この恰好で 師匠の法事に一門が集まって お経を聞きながら
あの世に行けたら これがホントの大往生だ」
そう言ったそうですが なんたることか ほんとに読経の最中
脳溢血で昏倒 桜木町の病院に搬送されましたが 亡くなってしまったのです
まあ 不思議な事もあるもの・・・・!?
明日は我が身かもしれませんのでね
皆さん 目の玉の黒いうちに ぜひ「幽霊」たちに会いに行ってくださいね
いい 「冥途のみやげ」になりますよ~
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by tukitodoraneko | 2015-07-28 15:06 | 江戸・東京綺譚

調布飛行場セスナ墜落

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ああびっくりしましたねー 
さっき11時ころですが 家族でランチ食べに行ってました
食べ終わって店を出ると 近くで黒煙があがっていたんですよ
ちょうど真正面の辺り 
「火事だねー」と行って 車に乗り込み走り出すと
あっちこっちから 消防車や警察車両が集まってきて なかなか進めない状況
なんだろう?と そっち方面に左折したら
もう通行止めが始まっていて 「セスナが落ちて炎上中です 迂回してください」
と 言われて戻ってきました
すぐにニュースをつけたら 住宅街に落ちたのですねー
500mくらい離れた所で ご飯食べてましたが 音は聞こえませんでした
ただ すごい煙が立ち上っていただけなんですが 怖かったです
五人乗りセスナが 離陸直後墜落だとか・・・・
住宅にいた方々は 助かったのでしょうか
30分後のニュースでは もう 一軒のお家は 全焼してましたよ
いつも近くをウロウロしてますんで こんなことがあるとは・・・

御心配いただいた昭ちゃん さすがにニュース速いですね
ありがとうございました
月猫一家は無事でしたが 取材のヘリが飛び回ってて そっちも怖いです^^;
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by tukitodoraneko | 2015-07-26 12:05 | よしなしごと

江戸検参考図書

寺社関係の良き参考書 いろいろさがしてみましたが なかなか 見つかりません
祭に関しては「東都歳事記」が一番読みやすいですしねー・・・
「御府内備考 続編」の「寺社書上」は 高すぎるし 読みにくいです
これご存知ですよね
文政年間に官撰で(松平定信の決定で)まとめられた地誌「新編御府内風土記」
そのもとになった調査史料がこの「御府内備考」です
正編の方は「町方書上」続編が「寺社書上」です
明治6年に「新編御府内風土記」の稿本は 皇城火事で焼失したため
今ではその編さんのための調査史料 つまり素材であった「御府内備考」正・続のみが残り
貴重な史料となっているのです
古文書館にありますし 正編だけなら近代デジタルライブラリーで読めます
「大日本地誌体系」で 検索して見てください
よく町歩きに行くと 教育委員会の説明板がありますよね
あれは この「寺社書上」をネタ元にしてるものが多いんですよ
市区によっては 自分とこの分だけ出版してるとこもあります
便利になりましてネットでも「御府内備考によると・・・」
って 書いてくれてるとこも多くなりました
祭が一番盛んだった文政期の寺社の記録ですので
頼りになりますが 読みにくいのよねー・・・
f0122653_11564939.jpgだから こんなのも挙げておきましょう
ああ・・・!新書って読みやすい と感激します
「出開帳」に関しては 必ず出ますので 押さえといてください
震災の後にも 復興支援の出開帳ありましたよね
どのお寺か どこでやったか 御本尊は何?
なんてことも チェックしといてくださいね
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右→は 前から持ってた本ですが 読みやすいです
たぶん今でも手に入ると思うので ぜひ

本以外でも「東京神社庁」のHPや
各寺社のHPは お家で見れてらくちんです
大きな寺社では 由緒が書かれた出版物
祭の保存会などでは 祭に関するのものを
出していますので 余裕があれば読んでください
山王日枝神社では 公式Twitterまであるんですよ
時代が変わったのね!
もう夢のお告げじゃなく お知らせはTwitterなの!?
ハイテクじゃん 寺社! 
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by tukitodoraneko | 2015-07-25 12:40 | 祭と歳事

博多祇園山傘

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現在7月に行われる祇園会では 博多の山傘が有名でしょうか?
元は京都の祇園会と同じものだったとは思いますが
起源に関しては諸説あります
「養生訓」の貝原益軒の説では 1400年ごろ始まるとありますね
上に挙げたのは 福岡市博物館にある「祇園祭礼絵巻」
京都の祇園会の山鉾とは 違って見えますね
本来「山鉾」は人形を据えた「山」の部分と 高く柱状に伸びる「鉾」
この二つの部分で 構成されています
しかし博多の場合 この「山」の部分だけ 受け継いだので(祇園囃もなし)
初期には 上の絵巻のような山車だったのです
しかし この山車は 年々 上へ上へと巨大化し・・・
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このように豪華絢爛になってしまったのですね
あまりに巨大すぎて 現在では「曳き山」「飾り山」二つに分かれています
詳しくは 福岡市博物館の「山傘」のページを見てください

しかし暑いですね
現在 室温32.6度! PCに触るのも嫌なので 早めに終わります^^:
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by tukitodoraneko | 2015-07-13 13:43 | 祭と歳事

赤坂氷川明神

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上は 文政6年の赤坂氷川明神の山車番付です
これも ネット検索で見れますよ
全部で 16番まで山車があり この他にも地走り・踊り屋台も出ています
江戸時代には 隔年催行の神田と山王祭
その山王祭が お休みの年には 6月15日氷川明神の祭礼が行われました
近くに 麻布氷川 白金氷川など 氷川社はたくさんありましたが
f0122653_1244317.jpg今も赤坂の同じ場所にあるのが 当社です →
(右手に溜池があります)
HPで「由緒」が見れますので チェックしてみて
ください 詳しくまとめられています
ここは もと一ツ木にあった氷川社の御旅所だった
そうですが 八代吉宗が 将軍になった時 その
産土神として 社殿を建て直し 遷座してきました
紀州藩邸があった赤坂の総鎮守ということですかね
「神田・山王に次ぐ大祭であった」と「東都歳事記」にもあります
この場所は 元 備後三次(みよし)藩浅野家の屋敷があった所
そう浅野内匠守の夫人・遙泉院の実家ですね
地図の明神の上には「勝麟太郎」の文字が・・・あの勝海舟のお家ですねー
海舟は この赤坂界隈で何度か転宅してます
江戸散歩で人気のコースですね
江戸時代は 境内が5千坪近くあった「氷川明神」
ぜひ 覚えておいてくださいね
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by tukitodoraneko | 2015-07-12 13:13 | 祭と歳事

日吉(ひえ)山王祭

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6月の天下祭「山王祭」に 行ってみましょう
陰暦の6月は 盛夏です 
だいたい今の7月終わりから 8月の初めに催行されました
今日のような 暑い晴天の祭りだったのですね
天下祭に関しては 祭礼の図や絵巻 番付表など たくさん残っていますので
詳しいことは 書きません ネットでも山ほど見られますのでね
ポイントだけ書くことにしましょう
まず山王祭 正しくは「永田馬場日吉山王権現御祭礼」
川越の仙波にあったものを 太田道灌が江戸城内に勧請
家康が 一時 貝塚に移し 元和元年(1615)山車・練り物(神輿)が
江戸城内に入る・・・とありますが これがどの程度の規模だったのか
詳しい記述は無いのでわかりません
たった二年前の 天王祭が 催行人員30名だった事を考えれば
それほどではなかったように思います
寛永江戸図に 浅草三社祭の様子が描かれていますが
あれの20年前ですからねー
「東都歳時記」では 寛永11年(1634)から「大祭となった」とあります
山車の一番(猿=南伝馬町)と 二番(鶏=大伝馬町)の順番が入れ替わったのが
元和の頃 とあるのでこの二つの山車は少なくともあったのでしょう
しかし「守貞漫稿」にいう「五十七輌の山車」というのは
江戸祭礼の最盛期 天保の改革以前の文化・文政の頃のことです
江戸時代長いですからね 170年後が最も盛大だったわけです
この頃の特徴は 山車の他に 踊り屋台や 地走り(歩行して踊る)
花籠(はなかご・着飾った稚児を乗せた花屋台)も出ました
大店では一軒持ちでこれを出したり 幕命で一町から出したり
とにかく「女房を質においても祭に出る」のが 当時の江戸っ子堅気
こういうのを附け祭と言ったのですが 天保以降は
三町に限って これを許し「年番」制になりました

とりあえずこんなところでしょうか
あ、それと また読み方ね
日吉を「ひよし」と読むのは 戦後からです
それ以前 もちろん江戸時代には 日吉山王=「ひえ」山王です
これ 結構 他のブログでも気になりましたので 「ひえ」で覚えてください 

 
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by tukitodoraneko | 2015-07-11 16:38 | 祭と歳事

小伝馬町→小舟町天王

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さて 南伝馬町 大伝馬町ときて 残る小伝馬町天王のことなんですが
この祭礼に関しては「不詳」であると「東都歳事記」に書いてあります
「守貞漫稿」によると 正徳(1711~)頃 疫病除けで 小舟町に遷座して
そのままになったんだよ・・・と 書いてあります
でも それ以前の祭の記録はないようなので そもそも 小伝馬町では
祭 やってなかったんじゃないでしょうか?
南伝馬町は 慶長18年(1613) 大伝馬町は元和(1615~)頃
結構早いうちに 祭の記録があります
それに対して「小伝馬町から小舟町に移ったのは寛文6年(1666)」と
いう記事も見つけましたが 最初の祭りに関しては 何もなし
不思議ですよねー 小伝馬町って 神田・山王どちらの氏子でもないんですね 
氏子になってるのは 天王だけです
こういうのもあったんだー と 不思議な感じ
かたや両方に参加し またどちらにも参加しないのは 何故?
そして初めて気付いたのですが どちらの氏子でもない町って結構あります
そのうち○○同朋町とか ○○屋敷が 氏子でないのはわかります
どちらも拝領地に住んでる人で 町人ではないからね
その他の 現人形町の一部とか 紺屋町が入っていないのも
歌舞伎役者や藍染め職人が 被差別民だった時からの慣習なんでしょう
じゃあ小伝馬町は? 「囚獄」ができたからなのかしら?
ああ 気になってたまらない! この辺のこと書いてあるものをさがさないと・・・

あら まあ とんだ寄り道・・・!
とりあえず小舟町天王の祭礼については たくさんあります
「この祭礼で 有名なるは二王尊の像を染めだした大幟
「天王おまつり・・・と仮名文字で書きたる幟は 蜀山人の考案
「日本橋魚河岸へ渡御すれば 魚問屋は数千本の団扇をまき散らす
 一名 うちわ天王」 (「絵本江戸風俗往来」より)
「十日未明に明神を出て 氏子百八十ヶ町を巡り巡って 帰るのが十三日か十四日
 その間の里程が丁度十三里あるというので 一に十三里天王」(「東京年中行事」より)

まあとにかく 派手なお祭りだったようです
天保の改革以後は 少し抑え気味
そして明治になると ほとんどの祭りは消えていきます
さしもの小舟町天王も 明治後期には「もう十二年も絶えている」(「東京年中行事」)
と いった状況でした
今は 4年に一回くらい 復活してるのかな?
あ、あともう一つ「こぶねちょう」といいぐせがついてる人もいますので
小舟町=こぶなちょう です
早めに直しましょう ではまた!
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by tukitodoraneko | 2015-07-10 17:35 | 祭と歳事

大伝馬町 南伝馬町

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さて 大伝馬町天王に進みましょう
ご存知の通り 南伝馬町・大伝馬町は 神田・山王両方の祭の氏子でしたね
これも 大事な伝馬役を仰せつかった町の特権でもあり 義務でした
そのうえ 自分たちの天王祭もあり 山王の祭の年の 6月は大変!
まず 天王祭の時は 自分たちの町に仮屋=御旅所を造って
神田明神から 神輿を担ぎ出し ここに遷座します
還御が終わってほっとしたのも束の間 6月15日の山王祭には
↑ 大伝馬町は 上の諫呼鶏の山車 南伝馬町は猿の山車を出します
神田祭の年には 9月に山車を出すので 常に年二回の祭に参加してるんですね
当時の天王祭の様子は「絵本江戸風俗往来」(東洋文庫)に詳しいです
大伝馬町天王祭は「江戸砂子」によると 元和ころに始まったそうです 
亀田鵬斎の筆による「大幟」が有名でした
ここは 場所柄 太物問屋の組合持ちの祭りとなったので
豪華な祭であったようです
しかし だいぶ前から絶えてしまったようです
関東大震災で燃えてから 明神内の八雲神社は再建されましたが
神輿は造られなかったみたいですね
南伝馬町の方は 現在5月の神田祭に千貫神輿を出していますが
あれは 昭和30年代にこしらえた神輿です
明治末には どの天王祭も 絶えたと等しい状態になっていましたから
伝馬役が仰せつかった地主神の祭としては 存続してないってことでしょうか
南伝馬町天王の江戸神社は 明治初期 社名も「須賀神社」に変えています
当時の世相としては 前政権を思わせる「江戸」は 使いづらかったのでしょうね
江戸時代には 唐風の大幟(紅や黄の中国風かな?)や
四方行燈という道幅いっぱいの大きさの武者絵を描いた行燈を
辻の四方に下げ これが「江戸に無類の造り物」と 評判だったとか・・・
大伝馬町と小伝馬・小舟町は 日本橋の北東で 近いですが
南伝馬町は 京橋の北に当たる地域です
「東都歳事記」には 京橋の上で 神輿にお神酒を捧げた とあります
「中橋の天王」と呼ばれるのは すぐ隣に「中橋広小路」があったからでしょう

次回は 小伝馬町(小舟町)天王です

 
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by tukitodoraneko | 2015-07-09 14:37 | 祭と歳事