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会津藩士からクリスチャンへ

大河ドラマでは 来週 八重たちは覚馬の生存がわかるのでしょう
とうとう 京都へと舞台が移りますね
ジョーも登場し 覚馬・八重は クリスチャンになります
会津藩から クリスチャン 実はこの二人だけではないのですよ
f0122653_11495758.jpg← はい、カレ 井深梶之助くん
この人 西郷頼母の甥にあたります
頼母の妹・ヤヨが 嫁ぎ先で産んだ子です
維新時は 14才
その後 横浜の「ブラウン塾」に入り 
キリスト教の洗礼を受けました
ヘボン博士が 明治学院大学を創立すると
副総長から 総長をつとめています
わが母校ですね
萱野権兵衛の息子・長正も こちらに来てれば
よかったですね
キリスト教の教義では 自殺は大罪です
ささいなきっかけで 若い命を散らすこともなかったかも・・・
あ、でも 離婚もダメなんですよ
そっちの方が困る人も いるかな?
梶之助くんは 30年以上 大学に勤め 昭和15年
87才の 天寿を全うしました
う~ん 明治時代 生き延びるためには クリスチャンになるのが
一番だったかもね
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by tukitodoraneko | 2013-07-31 12:06 | 大河ドラマ | Comments(2)

西郷頼母とその息子

f0122653_8385372.jpgさて今日は西郷頼母の息子のことです
会津城下を追われた時 頼母は たった一人の息子・吉十郎(11歳)の手を曳いていました
五稜郭に立てこもった時には あの龍馬のいとこ・沢辺琢磨に預けていたそうですよ
そうして大事に育てた息子は 明治12年 21才で病死します
西南戦争で負傷した、留学もしてた・・・と諸説あるのですが 最後は東大病院で死去 墓は麻布の長谷寺にあります
頼母は 戊辰戦争後 保科を名乗っていましたので
明治17年 志田四郎(19歳)を 養子にとり 保科四郎としました
f0122653_9185063.jpgこの人ですよ →
やがて復姓を許され 西郷四郎「姿三四郎」のモデルとなる人ですね
四郎は 25才で講道館を飛び出し 長崎に移ります
大陸へ渡るのに便利ということがあったようですが
「東洋日の出新聞」の編集責任者となり 後半生は
長崎で 暮らしました
この長崎の市長となったのが 萱野権兵衛の息子・長正の自刃に関わった北原雅長です
介錯した弟・神保巌之助は その縁でか 大浦戸町上長崎村辺りの村長だったそうですよ
四郎は 結婚もこの長崎でし 34才の時 巌之助の生後三か月の息子・孝之を養子に取っています
西郷家と神保家 ここで いっしょになるんですねー
頼母は 紆余曲折の人生の後 明治36年(1903)会津で74才の生涯を終え
妻・千恵のもとに35年ぶりで 帰って行きました
四郎は 大正11年 療養中の尾道で死去 56才でした
墓は長崎県 大光寺 
新潟の正法寺にもあるそうですが こちらは確認できませんでした
養子となった孝之のその後も不明です
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by tukitodoraneko | 2013-07-30 09:51 | 大河ドラマ | Comments(0)

萱野権兵衛の子 長正

昨日の大河 思ったより早く進み 萱野権兵衛切腹までいきましたね
「あばよ!!」ではなく 「では、さらばだ」というかっこいいお別れでした
これは明治2年 5月18日のこと 享年42歳です
奇しくも この日 函館・五稜郭戦争も終結
西郷頼母も そこにいましたね 一人だけ連れ出した息子・吉十郎も ここにいたのでしょう
今日は この二人の息子たちのこと 書いてみましょう
f0122653_11524867.jpgまず萱野権兵衛の息子(二男)長正は
戊辰戦争後 母方の姓・郡(こおり)をなのり 
郡長正といいます
鶴ヶ城開城の時は 12才
この人は 父の切腹後 わずか2年で 自らも切腹し果てています
当時 九州の小笠原家(豊浦藩)の藩校に 元会津藩の子弟を受け入れていたのですが ここで事件が起こりました
今となっては 真相はわかりませんが とにかく恥辱をそそぐため 自刃 
この時 介錯したのは神保巌之助で 見届けたのは 北原雅長名字は違いますが この二人は兄弟で 
あの神保修理の弟たちです
この二人 会津に戻ってから 山川浩(大蔵)に「なぜ一緒に死ななかった!」と 責められたそうですよ
明治となってからも こんなことあるのですねえ・・・
会津の汚名をそそぐには まだまだ 先が長いです

郡長正の墓は この福岡県豊浦の現・豊浦高校に立派な石碑や
記念公園となって 残っているほか
会津の天寧寺に 父・萱野権兵衛夫婦と共に 眠っています
福岡から 土を運んで 建てたものということですよ

長くなったので 頼母の子のことは また明日
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by tukitodoraneko | 2013-07-29 12:42 | 大河ドラマ | Comments(3)

八重の桜 第30回「再起への道」

f0122653_18264761.jpg30回にして 明治に入りましたね
といっても 慶応4年 9月8日 すでに元号は 明治に変わっています
鶴ヶ城籠城中のことだったのですね
それだけでなく この年1868年の7月17日
江戸は 「東京」とその名を変えていました
時代も 場所も もうどこにも「江戸」はなくなったのですね
明治天皇が 京を発ったのは 9月20日
翌月の10月13日には 東京に入り 江戸城は「皇居」となります
大きな 大きな 時代の波が押し寄せたのですねー・・・
藩士たちは 15歳以上 60歳以下は 猪苗代で謹慎
八重たち 婦女子 老人は 旧領・塩川村の農家などに分宿したようです
妙国寺で謹慎した容保親子は 一月ほどで 東京に護送され
容保は 鳥取藩池田家 喜徳(慶喜の弟)は 久留米藩有馬家の屋敷に幽閉されます
この時 つき従ったのは 萱野権兵衛ら 5人ばかりだったということです
そして 12月7日 二人に下りた政府の裁定は 「死一等を減じ (両家へ)永のお預け」
というものでした

では あとは大河の後で・・・・
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by tukitodoraneko | 2013-07-27 18:53 | 大河ドラマ | Comments(0)

江戸の床屋の休日は・・・

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式亭三馬の「浮世床」ですねー  今日は床屋の話です
家人は 今も昔風の土地の床屋に通っていますが
その情報通なこと 江戸以来の流れを汲んでいるのか
おしゃべり主婦もびっくりなくらい ご近所の家内のことを知っています
もともと江戸の床屋は「床」というくらいで 「床店」=露天だったのですね
主に橋の近くにあり 火事の時には高札を守る役目をもち
その代わりに 権現様から許されたという由緒があります
店を構える場合も 道に張り出すように建てています
そもそも江戸時代は 髪型で身分・職業のわかった時代
最近の時代劇のように 武家も町人も同じような髪形なんて おかしいですね
おしゃれな「八丁堀」が 節分の恵方巻みたいなちょんまげを乗っけてるなんて
当時の同心たちが見たら 噴飯ものでしょう
さかやきが伸びてるのは 病み上がりか 主人の服喪中
尾羽うち枯らした浪人者くらい
医者は総髪か それを後ろでちょっと結んだもの 坊主もいますよ
だから僧侶が 悪所に行く時は 医者に化けて行ったんですね
当時は 毎日床屋に行くと 年一両  これを二期に支払います
二日に一度で 二分です 床屋もかけ売りというのがおもしろいですね
五日に一度までの料金がありますから 少なくともそれくらいの頻度で通ったのでしょう
年末には おしゃれさんたちは専用の髪油を 床屋に預けました
そういう床屋たちは 権現さま以来の由緒を大切にし
月一度の休みも 権現さまの祥月命日 17日でした 
実はこれも 先日の「大江戸座談会」で読んだんですよ
明治の末くらいまで 守られていたそうですが この座談会のころ
昭和6年には 10日と25日に休みが変わったそうです
出席者の一人が それに触れて「だいたい17日の意味がもうわかっとらん!」
と 怒っています
江戸時代には 家康公のご命日には 江戸各地の東照宮では
お赤飯をくばったんだそうです その引換券もあったそうですよ
そして これは明治になってからですが 天璋院は二十日に亡くなったので
「二十日さま」と呼ばれ あんかけ豆腐がお好きだったので
毎月二十日は 所縁の家ではお赤飯にあんかけ豆腐をいただいたそうです
江戸が東京に変わろうと 幕府が倒れ 南から来た新政府が君臨しようと
江戸の人たちは こういう風俗を長く守って来たんですね
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by tukitodoraneko | 2013-07-25 12:17 | 江戸のあれこれ | Comments(1)

八重の桜 第29回「鶴ヶ城開城」

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明日の大河ではとうとう 八重の戦いが終わりそうです
来週にかけ二週で「鶴ヶ城開城」を やるみたいですね
8月23日の籠城以来 まだ一月もたたない9月15日
最後の総攻撃「一ノ堰の戦」で 八重の父・権八戦死 享年61才でした
もうこれ以前から 城内の首脳部の間では 降伏・開城への道を模索していました
15日には 手代木直右衛門と秋月悌次郎が 先に降伏した米沢藩の陣所に向かい
そこから板垣退助のもとに護送されて ようやく降伏交渉に入ります
20日に 秋月らは白旗を携えて 帰城
翌日 容保は家臣一同に 開城する旨を伝えました
発砲の音がやみ 一月ぶりに鶴ヶ城は静寂に包まれます
f0122653_9313734.jpg

開城後の鶴ヶ城の写真です
飛び立つ鶴のごとく優雅だった城は 大砲の傷跡も痛々しい廃墟のようです
開城の日 この城内には 八重も含め5千人にちかい会津の人々が 生きていたのです

ではまた来週
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by tukitodoraneko | 2013-07-20 09:37 | 大河ドラマ | Comments(2)

いわゆる年寄りの井戸端会議

f0122653_15443085.jpg← この本 お持ちでしょうか?
江戸博の竹内誠先生監修です
だいぶ前に 地元の古本屋で見つけて 買っておきましたのを 「積読つんどく」から やっと通読いたしました
内容は 昭和2年から6年までの
「江戸文化」という雑誌に載った
座談会です
浅草寺のご住職や 高村光雲
なども参加してます
この序文を 竹内先生が書かれてますが ちょうど2006年11月のことで 「今 私がこの原稿を書いている日に、第一回江戸文化歴史検定が行われた。受験応募者は一万人を越えているという」 という書き出しです  なんともう7年前なんですねー
私もこの日 青学で2級試験受けてました
根拠のない自信だけを持った専業主婦のおばさんでした
この序文だけでも いい思い出・・・と思って買いましたが 中身は難解・・・
だってそうでしょ 昭和2年は 1927年 
ご維新に15才としても 74才です
それ以下の年齢だと まとまった記憶は限られたものになってしまうし
それ以上の方は もうすでに江戸と明治の境目があやふやになっているのです
微妙だなあ・・・・
そして「座談会」という形式上 自分たちだけわかる話も多く
話題がどんどん変わって ほとんど尻切れトンボ
昭和の話さえ 「昔話」となった平成25年 これ 読み解くのは至難の技でしょ
例えば・・・三囲(みめぐり)の三井の額って どんなの?
二合半領(現・埼玉県 三郷市)って なんで二合半?
「かすがい山の提灯は 上野と浅草で同じ」って 何のこと?
くるみ焼って どんな食べ物?
まだまだ いっぱいあるけど あとは「後学を俟とう」
たぶん 江戸検1級の人には わかるんだろうなあ・・・・
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by tukitodoraneko | 2013-07-19 16:35 | 本の話 | Comments(3)

竹橋で「富士登山」

f0122653_14233216.jpgさて武蔵国府の国府台からは 
こーんなに富士山がよく見えます
ツアーの時 ぜひご案内したかったのですが 灼熱地獄ツアーで みなさんバテバテでしたので 
断念しました
代わりと言っては何ですが 今「国立公文書館」で 富士山の
企画展やっています
古文書や 絵による富士登山
これなら体力なくても大丈夫そうです
f0122653_14305987.jpgこれは江戸時代の富士八合目の様子を描いたもの →
へー なんか結構 小屋とか
あったんですね
当時から こんなに人気があったとは!
私 富士山は「遠くから見る派」なんで これまで最高でも五合目まで、もちろん車です
もう登ったも同じでしょ^^
スカイツリーと一緒で 上まで行ったら 富士山自体は 見えないもの
それに 本に出てくる富士山も なかなかいいですよ
みなさんのおススメは 何かしら?
やっぱり「富士に月見草はよく似合う」?
太宰の「富嶽百景」がイチオシですか?
古文書館では 「万葉集」「伊勢物語」
「安土日記」に出てくる富士山が見れますよ
昔から 富士を書いた本って いっぱいあったんですね
源氏物語の時代には 富士は「煙を吹く山」として知られていたようです
「鈴虫」の段で 持仏堂の開眼供養があり 蚊遣火をもうもうと炊く様子を見て 
源氏の君は「富士の峰よりも」煙を炊くのは 見苦しいと たしなめています
「竹取物語」の最後 月に帰るかぐや姫は 帝に不老不死の薬を残していきます
帝は この薬を 一番高い山の上で全部燃やしてしまいます
そしてこの山は「不死の山=富士山」と呼ばれるのですね
この他にも 富士山近辺の古地図は すごくおもしろいですよ
富士講の遺構や 神社・石碑関係は 古地図の方がいっぱい載っています
足腰に自信ない方 ここはひとつ「公文書館で富士登山」を!
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by tukitodoraneko | 2013-07-16 15:00 | よしなしごと | Comments(0)

八重の桜 第28回「自慢の娘」

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この年 8月23日に会津籠城戦が始まり
山川大蔵の 彼岸獅子入城も 済みましたね
これからが 本番ですよ
国境に出陣していた会津藩兵が 城に戻ったことで
政府軍は 続々と城下になだれ込み その総数は三万になろうとしていました
せっかくできた「奥羽列藩同盟」も 政府軍の前に次々降伏
明治政府と会津藩との仲介役をしてくれていた米沢藩は 9月4日
とうとう 政府軍に降伏してしまいます
政府軍は もう焦ることもなく持久戦の構え
城の東南1,5kmに位置する小田山に砲撃陣地を作り
9月14日には 50門もの大砲で攻撃を開始
八重の覚えでは この一日で 千2百発もの砲弾が城内に着弾したそうです
そんな中 さすが砲術指南の娘! 八重は政府軍が撃ち込んだ4斤(ポンド)砲の弾を
容保の前で 分解して見せ 中にあった多数の鉄片を示して
爆発するとこれが飛び散って 周囲に大きな損害を与えると説明しました
これは 容保だけでなく 居並ぶ藩士たちも感心させたということですよ
しかし 戦況は悪化するばかり・・・
15日には 仙台藩までもが 政府軍の軍門に下ります
同日 追い詰められた会津藩は 城外一之堰村へ 総攻撃をかけます
その中には 八重の父・山本権八の姿もありました

今日はこの辺で・・・・
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by tukitodoraneko | 2013-07-14 13:39 | 大河ドラマ | Comments(2)

国府ツアー① ケヤキ並木と馬場大門

f0122653_10595993.jpg暑いですねー 11時で すでに室内32度!
パソコンの放射熱もアチチ!です
← ちょっと涼しげな「けやき並木」の写真 出してみました
地元の人々=地モピーは 「馬場大門のケヤキ
並木」
と呼びます
東西二本の馬場が走り 祭の日は ここを馬が走ります ここも近年 大型商業施設が次々と建ち 
すっかり面影が変わりました
f0122653_119185.jpg以前はこんな風に→馬場の両側に並木があったのですね 
この図は まだ善明寺がありますので 延享元年(1744)以前のものでしょう
北にあった一の鳥居も描かれています
これで見ると 道の長さは少しずつ違い 全長で600m
くらいです
この並木がを奥州征討の帰り 頼義・義家親子が植えた・・・というのは日本東部に数え切れないほどある「伝説」の一つです
大抵は一本の木・塚などにまつわるものなので 並木は
珍しいですね
おそらく基になる並木があったところに いつからかこの伝承が結びつけられたと考えるのが妥当でしょう
縁起類でも古いものには書かれていませんし 今ある最も確実なものは「武蔵野地名考」(1736)です
う~ん700年後かあ・・・でも みんなこんなもんでしょ?
f0122653_11293138.jpgこれより確実なのは 家康が寄進した二本の馬場
これは大坂の陣の後 戦勝を祝って 寄進されたものだそうです
一説に この戦で家康が乗った「立黒(たてぐろ)」
立野の牧でとれた黒馬だったそうですよ
武蔵国は 古来50頭の馬を朝廷に献上していました
この辺りには 多くの大きな牧(まき=牧場)があったのですね
当時の馬は 消耗品! 
というのも4,5才になってやっと使えるようになり 耐用年数は10年くらいだったのです 
常に多くの馬を供給できる体制が必要だったのですね
このため「百頭の雌馬から六十頭の仔を得る」ことが規定されて
いました これより少なければ罰則があり 多ければ報償の対象
となったのです
当時の牧では 平均 献上する馬の20倍の頭数を保持していたそうです 20頭献上する牧では およそ400頭の馬を飼っていたというわけですね
現在でも「府中競馬場」がある 国府の町は
大昔から 多くの馬が駆け回る町だったのですねー

暑すぎるので 今日はこの辺で・・・・
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by tukitodoraneko | 2013-07-12 11:50 | 武蔵国府 郷土史 | Comments(2)