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by tukitodoraneko
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明日の大河は「祇園乱闘事件」それにそなえて 「強訴」の話を しときましょう
史書には「嗷訴」とかいてあります
「嗷(ごう)」は かまびすしい・・という意味ですね
f0122653_1328287.jpg白河法皇が 思い通りにならないもの・・として挙げた「加茂川の水・双六の賽・山法師」この山法師というのが 強訴を行う僧兵のことですね
← これは琵琶湖文化館蔵の「山法師強訴図」
これはもう 僧侶ではなく武士の姿ですね
この「強訴」という乱暴な手段が始まったのは
清盛が生まれる120年ほど前
天台宗が 二派に分裂したことから起こっています
円仁・円珍という二人の僧が対立し 派閥を
作り 正暦4年(993)円仁派に比叡山を追われた円珍派は 近江の坂本・園城寺に移り 
天台宗は 山門(円仁派)と寺門(円珍派)に分裂してしまったのです
この対立をきっかけとして 寺社は自派の要求を通そうと
神木や神輿を担ぎ出しては 強訴するという手段に出るようになっていきました
これに対しては 要求を通してなだめたり 寄進をしたり
もしくは 武士を使って 強行手段をとるかしかなくなっていくのですね
寺社も それぞれ収入源として 広大な荘園をもっていましたので
この荘園をめぐる争いでも 神輿は担ぎ出されました
白河法皇は この寺社勢力を抑制しようと 法勝寺を造り
全仏教勢力の頂点としましたが それによって統制できたのは
座主・別当といった トップクラスの僧だけでした
以下には 道衆 神人(じにん)などの下級僧侶が存在し
満寺(山)集会を行っては はでなアジテーションをし
神仏を威しの道具に使って 京へ押し寄せるわけです
匿名性のために 被り物をする僧が多かったといいますから
一時の「学生集会」やデモ隊を 想起させますね
明日の大河ドラマでは 清盛がこの山法師と対立してしまいます
さて どうなるかな?
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by tukitodoraneko | 2012-03-31 14:14 | 大河ドラマ
f0122653_14212073.jpg今日「歌舞伎会」の冊子「ほうおう」5月号が届きました
いや いや 市川中車さん 6月デビューですねー
私の中では いまだ香川照之さん というか 岩崎弥太郎
なんですが・・・
初舞台は「小栗栖(おぐるす)の長兵衛」の長兵衛です
猿之助さんの当たり役ですねー
小栗栖の地名で気付かれたでしょうが この長兵衛
落ち武者となった明智光秀を 竹やりでつき殺した百姓です
岡本綺堂作で 大正11年 初演
地味っていえば地味な筋書き・・・
でも 舞踊がないので はじめての歌舞伎としたらやりやすいのかな?
f0122653_14352325.jpg猿之助改め「猿翁」さんは 口上のみですね
大丈夫なんでしょうか?
そして夜の部は あのスーパー歌舞伎
「ヤマトタケル」が 帰ってきます
歌舞伎座では上演されなかったスーパー歌舞伎が こうして同じ舞台に立つ日が来たんですねー
三代目が倒れた後 右近さんと段治郎さん 
頑張っていたんですが
亀治郎改め四代目猿之助で新規まきなおし 頑張っていただきたいです
こちらには 中車さん「帝」役で出るだけ
ま、なんとかなるでしょう
しかし・・50才近くなって歌舞伎デビューってなあ・・
なんとかなるか・・・と客に思わせる役者ってどうなの?と思いますが 
ま、話題性は 充分ですね! 
なんとかなるかどうか 見に行くお客もあるでしょう(私みたいにね!)
そして 恒例「コクーン歌舞伎」は 6月15日から「天日坊」です
こちらは あの八代将軍吉宗のおとし子と言われた天一坊の話
吉宗を 源頼朝に替えた 河竹黙阿弥作の狂言で
なんと慶応三年に演じられてから 150年ぶりの上演です
江戸からずっと やっていなかったんですねー
宮藤勘九郎(クドカン)の脚本 いつもの串田演出です
これは 両方行かないとだめかなー
なんとも 忙しくなりそうな 6月歌舞伎です
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by tukitodoraneko | 2012-03-29 15:02 | 歌舞伎
f0122653_10481159.jpg大河では 清盛に二度目の妻・時子ができました
「伏せ籠の内に こめ置きつる雀」が 逃げてしまったわけですね
あんな失礼なプロポーズ あったもんじゃないけど
この時子は 清盛亡き後も 壇ノ浦まで 平氏の一門の支えとなる気丈な女性です
f0122653_10574974.jpg父親は 中流貴族の平時信 蛭子さんがやってました
異母弟が 時忠でこちらはV6の森田剛くん →
どちらの母も あまり身分の高い人ではなかったようです
清盛の妻となったのは21~2才の時と 推定されますが
当時の初婚年齢からすると 遅い気がしますね
弟・時忠と同母の滋子という妹がいるのですが
この人は 絶世の美女だったと言われています
上西門院というあの待賢門院璋子の娘に仕えて「小弁」と名乗っていました
あの「今様」好きの困った雅仁親王が後白河天皇になると
その美貌が目に とまって 大出世!
滋子の産んだ男子は 第七子にもかかわらず
高倉天皇になるんですね
そして この高倉天皇の中宮に 清盛・時子夫妻の娘・徳子(のりこ)が 上がります
妹の産んだ子のところに 娘を嫁がせたわけですから
従弟同士の結婚ってことですね
この時 時子は従二位に叙せられ 以降「二位の尼」と呼ばれます
平家物語の壇ノ浦では 徳子の産んだ自分の孫・幼い安徳天皇を抱いて
「波の下にも 都の候ぞ」と言いきかせ 入水する悲しい場面があります
その気丈さは 熊野社前で 大雨の中 奉納の舞を踊り切った妹・滋子と
共通する性格だったのでしょうね
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by tukitodoraneko | 2012-03-28 11:54 | 大河ドラマ
f0122653_11392330.jpg土曜日は ←これを見に行ってました
墨田公園に特設された「平成中村座」です
演目は 「暫(しばらく)」「一条大蔵譚」と 舞踊「舞鶴雪月花」でした
今日は この中で大河の「平清盛」にも関係ある
「一条大蔵譚」の話をしましょう
この演目に登場するのは 常磐御前
そう 夕べ大河で由良御前と結ばれたばかりの
義朝の次の愛妾が 常磐御前です
牛若=義経を 産んだ人ですね
昨日の大河 久安3年まで進んで もう頼朝も
生まれてました
それから三年後 近衛天皇の中宮として 
藤原呈子が入内する時 そのお付きの女官を
募集しました
都中から 千人の美女を集め 百人 十人 三人としぼり ついに選ばれたのが13才の常磐でした
f0122653_12869.jpgそして16才で 義朝に見染められ 今若 乙若 牛若の三人の男児をもうけます
しかし牛若の生まれた年(1159)年 平治の乱
義朝は敗死 子供をつれて逃げた常磐は 母・関屋が
捕らえられたと知って 都に戻り出頭します
ここで 清盛の目に留まり 子供ともども命を助けられるのですね
後の物語では 清盛にも見染められ 愛妾となったと
書かれています
それは史実かどうかはわかりませんが わずか2年の後
常磐は 藤原長成(ながしげ)に 嫁ぎます
この人が 大蔵卿で一条の館に住んでいたので
「一条大蔵卿」と 呼ばれていたのですね
ふ~・・ここまで知ってないと歌舞伎は見れませんね
さて これからが 舞台で演じられるわけです
f0122653_12523396.jpgもとは 享保16年 大坂竹本座で初演した
「鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)」
全五段の芝居の四段目ですね
源氏再興を志す吉岡鬼次郎夫婦は 常磐の嫁ぎ先
一条大蔵卿の館に 偵察にやってきます
大蔵卿は 狂言や舞が大好きなとんでもない阿呆の公家
常磐も そこで楊弓などして 遊び暮らしています
たまりかねた鬼次郎が 常磐に打ちかかると
なんと弓の的の下には 清盛の絵姿が!
そして これを知って清盛に注進に行こうとした
悪家老を 討ち取ったのは 阿呆のはずの大蔵卿でした
なんと二人して本心を隠し平氏打倒を願っていたのでした
愛嬌のある阿呆の大蔵卿が 一転 武士に戻って
大見得を切るこの場面 なんとも胸がすく名場面です
 二十年来 長成が 作りこんだるこしらえ阿呆
     鼻の下が長成と 笑わば笑え 言わば言え
 いのち長成 気も長成  ただ楽しみは 狂言舞

最後の幕では お約束の奥の壁が倒れ スカイツリーが望めました
平成中村座 江戸歌舞伎の片鱗が見れて 楽しかったですよ
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by tukitodoraneko | 2012-03-26 13:06 | 歌舞伎
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今夜の大河ドラマは 久安元年(1145)が中心です
待賢門院・璋子は 近衛帝の即位後 呪詛の疑いをかけられ
やむなく落飾していましたが この年 44才で死亡
鳥羽上皇は その枕元で 号泣したと 記録に残っています
自らが 再建した法金剛院(右京区花園)には あの絵姿も残っていますよ

この年 天養から久安に改元したのは 彗星の出現が原因といわれています
鳥羽上皇の命で 高階通憲が書いた歴史書「本朝世紀」
藤原頼長の「台記」にも このときの騒動が書かれています
陰陽師が呼ばれ 孔雀経をあげて 不吉な星の訪れを心配したのでしょう
この星は 実は ハレー彗星でした
75年周期で やってくるおなじみの星ですね
「トム・ソーヤー」のマーク・トゥエインは このハレー彗星の来た年に生まれ
75年後 またこの彗星がやってきた年に亡くなりました(1835~1910)
星と共に生まれ そして去ったのですね
彼は 次のハレー彗星が来る年 自分は死ぬだろうと予見していたといいます
「花の下にて われ死なん」と詠んだ西行と 似ていませんか?

この年 23才の源義朝は 京に出てきました
とうとう 頼朝を産む由良御前(田中麗奈ちゃん)と 結ばれるでしょう
5才年上の清盛は 28才
この2年後の久安3年 清盛と時子(深キョン)の間に 三男・宗盛が誕生
同年 頼朝も産まれていますので 二人の御曹司ともに
この辺りで本当に その母親と結ばれたのでしょうね
では 今日はこの辺で
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by tukitodoraneko | 2012-03-25 14:36 | 大河ドラマ
やれやれ 心配したわりには 何事もなく過ぎましたよ
穏当に 本の話でもしましょーねー
f0122653_1374367.jpgさて 鴨長明「方丈記」は覚えていますか
 行く河の流れは絶えずして 
         しかも もとの水にあらず・・・
 朝(あした)に死に 夕べに生まるる習ひ 
         ただ水の泡に似たりける

今は ←こんな訳がくわしいものも出ています
鴨長明は1155年 平安後期の生まれです
お父さんは 京都・下鴨神社の禰宜(ねぎ)
神職で 神事を統括する人ですね
次男に生まれた長明は 末社・河合社の神職をめざしますが
挫折して 出家 隠棲してしまいます
その住まいが 一丈(約3m)四方だったので「方丈庵」 
ここで書かれたから「方丈記」です
f0122653_14314563.jpg河合神社は 今も糺(ただす)の森の中に残っています →
長明を偲び 記述のままに再建した方丈庵も
ありますよ
「方丈記」は およそ百年後に書かれた
「徒然草」「枕草子」と共に三代随筆
いわれますが 方丈記には 記録としての
おもしろさもありますね
平安末期の不安定な情勢と 安元の大火
治承(ぢしょう)の辻風 養和の飢饉・大地震
といった 次々に襲いかかる災害の記録
f0122653_14413913.jpgこれらは ちょうど平家が滅亡へと向かっていく
時代と重なります
大河にはこれからでてくる「福原遷都」のことも
実際に見た一人として書いていますので
大河ドラマの副読本としてもおすすめです
京都 東南の日野山には 実際に方丈庵が
建っていたという「方丈石」が残っています
ここに彼は「折琴」「継ぎ琵琶」などという
組み立て式携帯楽器を友として住んでいました
家も同様に組み立て式で こわして運ぶにも
車2台で済み 半日もあれば立て直せるほど
簡素な造りだったようです
災害の多い昨今 ちょっとマネしてみたいですね


  
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by tukitodoraneko | 2012-03-23 13:16 | 本の話
一つ歳をとったので 大人になったかなー・・と思いますので
今日はちょっと「タブー」に触れましょうかねー
前にも書きましたが ブログで語ってはいけないこと 政治・野球・宗教問題
史学系卒論のタブーは 天皇・憑き物筋・部落問題 と 決まっています 
なぜ?・・・荒れるから  却下されるから
でもねー 「天皇家を 王家と言うな」という感覚
それにまともに答えて 弁明するN〇K
そっちの方が 怖いよ と思うので あえて書きましょう
f0122653_11343618.jpg江戸だけでなく ある程度 「歴史が好き」という方なら
「王家」と言って何がいけないの?という 感覚が
普通でしょう
文学でも 歌舞伎でも 平安以前のものは
「王朝文学」といい「王朝もの」といいます
それは 当たり前のことでしょう
そちらは 無視で なぜ「王家」にだけ反応するの?
せめて ← こういう本一冊でもいいから読んでいたら
あの発言は 出てこないと思うのですが
戦前の「皇国史観」のまま 歴史が止まっているとしか
思えませんね 
天皇が主権者であり 天皇=国家だったのは
戦前のほんの一時期の教育によるものです
天皇は 万世一系でもありませんよ
戦後の歴史研究は 軍国主義と侵略戦争に便宜として使われたこの「皇国史観」への
嫌悪・反発・反省から始まっています
だからといって 天皇を尊敬するなという意味ではありませんよ
この辺を 利き手寄りの方は(左利きの方ごめんなさい)勘ちがいしやすいのでしょうが
天皇は 現在でも「日本の象徴」です
これは 幕末期の官軍が 天皇の軍隊ではなかったのと同じことですね
あれは 官軍ではなく 薩長を中心とする討幕軍でした
「天皇」を 騙った軍隊のトップは そのまま明治のトップとなり
一度 成功した「天皇の軍隊」を 今度は国家レベルで 対外的に使うようになっただけです
せめて これぐらいのことは知ってから 文句をつけましょう
「無知は 罪ではない」のは 当然ですが
無知だからと言って許される罪がないのも 当然のことです

ちょっと 書きすぎたかしら・・・?
あああ・・・荒れないでねー
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by tukitodoraneko | 2012-03-22 12:12 | 本の話

マイバースデイ

f0122653_12523045.jpgおめでとう 自分! 
うれしくないけど 誕生日です
バースデイメールくださった皆さん
ありがとう ございます
なんとか 一年たちましたね
それどころじゃなかった去年を
思い出しています
f0122653_1259512.jpgこの3月21日という誕生日
あのトルシエ監督と 年まで同じです
そういえば ロナウジーニョも
同じ誕生日でしたね
なんで サッカー関係が多いんだろう・・・?
他には アイルトン・セナ(故人ですが)
料理家の平野レミさんがいます
あの口数が多いとこ ちょっと似てる?
そして 斉藤茂太先生も この日生まれ
こうやって並べても それぞれ バラバラで
統一感ゼロですねー
しかし セナと茂太さんは天国で
他の方々も 世界のどこかで
誕生日を 祝っていることでしょう
お誕生日 
    おめでとう!
 

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by tukitodoraneko | 2012-03-21 13:11 | よしなしごと

白河VS鳥羽VS崇徳の話

f0122653_1865878.jpg大河ドラマでは 清盛と崇徳帝は← このもののけ・白河法皇の子ということに なっちゃってます
後世の噂話と 物語の中にしか 出てこない説なんですがねー
じゃあ なぜ この白河VS鳥羽 鳥羽VS崇徳という構図ができてしまったのでしょう
今日は そこのところ わかりやすく書いてみましょうね
さて 父・後三条帝から リリーフのつもりで譲位された白河帝ところが 父が急死すると 弟には皇位を譲らず
f0122653_18215719.jpg自分の息子・堀河天皇に譲り この子も死ぬと
孫・鳥羽天皇が 5才で即位します
嘉承2年(1107)のことです
この時 同時に 外戚でもない藤原忠実を →
摂政に任命しました
こうして 自分の直系の天皇と 自分が任命した摂政で
天皇は 傀儡(かいらい)となり 自分の思いのままの院政を
行えるわけですね
しかし ここで白河帝と忠実の間に 問題がおきます
白河帝は 藤原家の公実の娘・璋子(のちの待賢門院)と
f0122653_18521487.jpg← 忠実の息子・忠通(ただみち)を 結婚させ
忠実の娘・泰子を 鳥羽天皇に・・・と考えていました
これに忠実は 乗り気ではなく しぶっていたんですね
言うことを聞かない忠実に怒って 白河上皇は 璋子を
鳥羽天皇に 押し付けてしまいます
璋子は 18才で顕仁親王(のちの崇徳帝)を産みますが
鳥羽帝と忠実は 影で「泰子の入内」を画策していました
つまり 璋子はもらいたくないが 泰子は鳥羽帝に・・と
思ってたということですね
これが ばれて忠実は 宇治に蟄居させられます
f0122653_19293171.jpgこのきつい処分に鳥羽天皇も恐れをなし
これ以降 顕仁が5才で即位し 崇徳帝になっても →
その崇徳に 藤原忠通の娘・聖子を嫁がせても 
じっと我慢していました
しかし この後 白河法皇が 崩御してしまうと
すぐに 鳥羽上皇は 忠実を呼び返し
白河法皇の遺言もやぶり その娘・泰子を
39才になっているにも関わらず 皇后としてしまうのです
鳥羽上皇の院政は まず白河帝の意思を排除することから
始まっているわけですね
崇徳帝を排し 弟に即位させ近衛帝にしたのも
白河の定めた「直系」を排して 直系の父・祖父しか行えない院政を 
崇徳から自分の決めた直系へと 取り戻す意図だったわけです
たとえ 崇徳帝が自分の子であったとしても
思い通りに院政を続けるためには じゃま者であったのですね
こういった確執が のちに「崇徳帝は叔父子」という噂に
拡大して行ったのかな と 私は思うんだけどなー
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by tukitodoraneko | 2012-03-19 19:37 | 大河ドラマ
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今夜の大河ドラマ「平清盛」崇徳に代わって近衛帝誕生です
得子(なりこ・松雪さん)が生んだ3才の体仁(なりひと)が即位するのですね
栄治元年(1141)12月のことです
この年 清盛は23才 重盛 基盛 二人の男児にめぐまれていました
この後 三男・宗盛は二度目の妻・時子が 7年後に産みますので
この間に 最初の妻と死別しているのでしょう
今夜の大河は もう最初の妻(加藤愛)とお別れになるみたいですね

さてここで 鳥羽上皇・崇徳帝 そして亡くなった白河法皇の関係について
わかりやすくしておきましょう
寵愛する得子に男子・体仁親王が生まれた時
鳥羽上皇は 生後3ヶ月のこの子を「皇太弟」としました
この時 まだ崇徳帝には 自分の子がありませんでしたから
当然 この子は自分の猶子(なおこ=養子)になり
「皇太子」になるのだろうと思っていた崇徳帝は がっかり・・・
当時の状態で 上皇の子が「皇太弟」になるということは
「次の直系の跡継ぎはこの子」と 宣言する意味があったのですね
同じことが 白河帝がその父・後三条から譲位された時にも 起こっています
後三条帝は 白河帝に譲位すると同時に 次男・実仁親王を「皇太弟」にしています
これは 白河はただの中継ぎであって 皇位を継承する直系は 実仁だよ
と 表明したということです
上皇が その後の皇位継承者を決めるということは この後三条帝から始まっています
そして 院政にとって この決定権を持つということが どれだけ大事かは
お分かりのことと思います
しかし 後三条の場合は 突然の死によって この構想は夢と消えてしまいました
中継ぎのはずの白河帝は 実仁が15才で死ぬまで 譲位しませんでした
そして8才のわが子に即位させ堀河帝にします
まだ 8才ですから 当然 跡継ぎはいません
そのうえ 死んだ実仁には 弟もいたのに これも無視
いずれ 堀河帝に子供ができたら その子が継承者になるということを
暗黙の内に 表明していたわけですね
しかし この堀河帝も 在位中に亡くなってしまいます
すると 白河帝は こういう時の例で 存命中に譲位したという形もとらず
自らの詔(みことのり=任命)で 堀河帝の5才の息子・宗仁を新帝にします
この宗仁親王こそ 鳥羽天皇
大河の中の鳥羽上皇です
彼は 祖父が父からされたことを 自分の息子・崇徳にも行ったわけですねー
では 今日は ここまで 

 
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by tukitodoraneko | 2012-03-18 14:19 | 大河ドラマ