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梁塵秘抄 アイドルおたくの親王

カーテンを開けると そこは雪国だった・・・・・・
しかたないから 月猫はこたつでブログでも書くかな
f0122653_10535055.jpg← 葛飾北斎の「白拍子」 きれいですねー
  遊びをせんとや うまれけん~
     たわむれせんとや うまれけ~ん~

ごぞんじ「平清盛」のテーマ曲となっているこれ
今 ひそかにマイ・ブームです
どういう時に 使うかというと 
「また どこに行くの?」
「今度は 何を買ったの!」という家人の問いに
この歌を 舞い唄い 最後に「おーほっほ!」という
高笑いで 走り去るという荒業ですね
二度と 訊く気にならないという点で 実に便利
最近 パートナーが「ちょっと うざい」と 
お思いのあなた 一度 試してみてね
さて 今日は この今様=流行歌が載っている
梁塵秘抄(りょうじんひしょう)の話にしましょう
聞いたことないですか?
梁(うつばり)・・・「りょう」とか「はり」ともいい
f0122653_11163120.jpg和風建築の横木の部分ですね
ここに積もった塵も 落ちるほどの美声・・
オペラ歌手が 声でグラスを割るような感じでしょうか
そんな美声で唄われた歌を 書き集めたもの
それが「梁塵秘抄」です
集めたのは この人 → 後白河法皇ですね
次回の大河にも 初登場します
松田翔太さんがやる雅仁親王
これが 若き日の後白河法皇なんですね
f0122653_1147732.jpg清盛より9才年下の
この親王は 10代の
うちから流行歌狂い
昼夜も分かたず 歌のレッスンをし
今様合わせ=コンサートの際は
江口・神崎からも遊び女を招いて
庶民が 聴聞に押し寄せても 人払いもさせなかったとか
そんなフリースタイルのコンサートが15日間
続いたこともあったそうですよ
今のアイドルおたくと なんら変わりませんね
しかし 彼のおかげで9百年後まで
当時の歌が 伝えられ 歌われている(主に私により)のは確か
この「梁塵秘抄」 他にも 童謡風 法歌 いろいろ載ってます
岩波文庫で出ていますから 読んでみてね
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by tukitodoraneko | 2012-02-29 12:02 | 大河ドラマ | Comments(4)

佃島と人足寄場

f0122653_11353816.jpgはーい では佃島に渡りましょうねー
橋の上から 上流を見ると スカイツリーが!
こんなところからも よく見えますね
f0122653_1134245.jpg






佃煮屋さんも ちゃんとありますよ →
f0122653_11383112.jpg
そして 長谷川平蔵が松平定信に建議した人足寄場跡
ここ住所は 中央区 佃です
今 この常夜灯の下 トイレになっていますよ
正式には「加役方人足寄場」といい
石川島(石川大隈守の屋敷)と佃島の間にあった
葦沼を あの悪名高い岡場所・中洲の土で
埋め立てたのだそうです
 屋根舟も 屋形も今は御用船 
      「ちちつん」は止み 土つんでくる

「ちちつん」は もちろん三味の音
ここの人足の衣服は 柿色地に水玉でした
そのため「水玉人足」とも呼ばれましたよ なんだかポップな制服ですね
収容年数により 水玉の数が減り 釈放が近づくと 柿色の無地になったとか
当日 私は たまたま柿色のカーディガン着てました 無地でよかった・・・・
f0122653_1210476.jpg← 秋本さんにもらった資料です
赤丸のところは 油絞場
ここで 人足たちに
「油を絞らせた」のですね
道楽息子などは 「少し寄場にでも行って 油を絞ってこい」
なんて 言われたそうですよ
よく見ると 女部屋もあります
当時の不良少女も来たのかな?
そして労働だけではなく
教化というのでしょうか
あの中沢道二などが来て
「心学」の講話をしたそうです
仕事で得た金の一部は
強制的に貯金させ
出所の時に渡されるのですね
ここは そういう意味では
一種の職業訓練校
同時に 幕府の「無宿人対策」
であったのですね

ではまた明日
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by tukitodoraneko | 2012-02-28 12:26 | 江戸あるき | Comments(0)

平清盛 第8回「宋銭と内大臣」事前勉強と 前回感想

f0122653_1329268.jpg平清盛第七回「光らない君」
光源氏に比べられたら
かわいそうですが
清盛は 無事最初の妻・高階基章の娘と結ばれました
保延5年(1139)清盛21才で長男・重盛が生まれ
その翌年には 基盛が生まれます
記録にはありませんが その
8年後 2番目の妻・時子が 宗盛を生んでいますので 
この間に最初の妻は亡くなっているのでしょう
こんな風に 女性の記録は
残らない時代ですが 
子供の出生から考えると 
最初の結婚は長くとも7~8年で 妻の死によって終わって
しまったのでしょう
それでも 平家の嫡子は 長男・重盛なんですね
二度目の妻・時子は 平時信の娘で 同じ桓武平氏の出ですが 
こちらは京都で朝廷の事務を扱う家系で 時子の父も鳥羽法皇の判官代を勤めていました
いわば 政治通の近臣であったわけですね
そして 今回 とうとう藤原頼長が登場しますf0122653_14153678.jpg← はい たまには系図を出しましょうね
f0122653_14175257.jpgこのチョー怖いおじさん知ってますね →
藤原忠実(ただざね)です
白河法皇のときの関白なんですが
法皇に逆らって解任され
おとなしい息子の忠通が跡を継ぎました
ここで 忠実がおとなしく引き下がれば問題はなかったのですが
この人 おとなしい長男より 当時「日本一の大学生(だいがくしょう)」と称されていた
弟の頼長が 大のお気に入りだったのです
甥の慈円も歴史書「愚管抄」の中で ベタぼめしていますし 確かに法律や学問に通じていて 内大臣にもなりました
そして この忠実・頼長親子は 鳥羽法皇に 再び擦り寄ってきて
平氏にとっても 目の上のたんこぶとなりますし やがて 藤原家内部でも深刻な お家騒動をひきおこしていくのですね
続きは 大河のあとで・・・・
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by tukitodoraneko | 2012-02-26 14:41 | 大河ドラマ | Comments(4)

鬼平と海舟ツアー 鉄砲洲稲荷

f0122653_1246212.jpgメトロに乗って八丁堀へ移動
次は鉄砲洲稲荷です
「湊稲荷」ともいいますね
江戸の港にあったので 船乗りたちの
信仰の対象となっていました
江戸以前からあったものですが
埋め立てに伴い 常に海岸へ移転を
繰り返してきた神さまです
↓ 広重「名所百景」にもありますね
f0122653_12583790.jpg

佃方面から見たもので 稲荷橋と その左の赤い塀が 
稲荷ですね →
f0122653_133498.jpg










↑ 本殿はこんな感じ
大震災後 昭和10年に再建されたもので 空襲は受けていません
f0122653_1382089.jpgここには もう区内唯一となった富士塚もあります
富士山の溶岩で造ったもので こちらも
何度も移転を繰り返しながら 今も5m
以上の高さで現存しています
あぶないから登っちゃダメ、とは書いて
ありますが 昔は登れたのでしょうか?
江戸名所図会でちょっと見てみましょう
↓ こんな感じです
ずいぶん大きく感じますね
f0122653_13175675.jpgこの絵では
右が 河口
少し南に
佃島
左に稲荷橋も
見えますね



f0122653_13262632.jpg
切絵図では 上部の赤い所が稲荷
のところは 鬼平が5才から南本所に移るまでの屋敷があったところです
今でも地名は 中央区湊2-11
は 石川島
そう 平蔵が「人足寄場」を作った所ですね
次は 佃島から 寄場跡に向かいますよ

では今日は この辺で!
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by tukitodoraneko | 2012-02-24 13:39 | 江戸あるき | Comments(0)

最後の海舟邸 氷川小学校

いやな冷たい雨が降ってますねー 
今日は 海舟が明治五年から 晩年をすごした屋敷跡に行ってみましょう
「氷川清話」も この家に住んでいる時のものです
f0122653_12584530.jpg切絵図が 
新婚時代の屋敷
は幕末期
そして
静岡から帰って
買った屋敷
だんだん広くなってますね
ここは 元旗本・柴田七九郎の屋敷で
海舟は5百円で
買取り
5百円かけて修築
しています
千円で 豪邸が
買えたんですね
f0122653_1373725.jpg海舟の死後 
← この地は東京市に寄付され
平成5年まで 氷川小学校の校舎でした
廃校の後は 老人ホームと子供のプラザとして使われています
今でも 建築時に発掘された
海舟縁の品が展示されています
海舟は「氷川清話」の中で
老人がみんなで暮らせる
施設の構想を語っていますので
f0122653_13313710.jpg
f0122653_13363833.jpgいい使い方かもしれませんね
勝海舟は 76才で亡くなる
明治36年まで 
この地に住んでいました

お疲れ様でした

合掌
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by tukitodoraneko | 2012-02-23 13:39 | 江戸あるき | Comments(7)

鬼平・海舟ツアー 氷川神社

f0122653_10494895.jpgはい では氷川神社にいってみましょう
← 略図を出しました
私たちは 左上の坂道から入っています
「江戸名所図会」によると
天暦5年(951)霊夢によって創建され 現在地周辺は 木曾義仲の臣・今井氏の城があった所だそうです

f0122653_10592169.jpg享保15年(1730)吉宗将軍の時 この地に移り 本殿はその時のもの
場所柄 紀州家の産土神とも言われています
また浅野内匠頭夫人の実家 浅野土佐守の屋敷跡でもありました
忠臣蔵で有名な「南部坂の別れ」
大石内蔵助が 内匠頭の妻・瑤泉院に
別れの挨拶に行く場面ですね
↓ 切絵図ではの所に南部坂がありますf0122653_11243375.jpg盛岡藩南部家の屋敷があったためです
浅野家と屋敷地を交換し 現・有栖川公園の地に移りますが 坂の名前は
残ってしまいました
移転先にも 南部坂がありますね
には勝麟太郎の名が
の「長山祐之助」の所には 
鬼平生誕地と説明があります
ここには勝海舟が合祀した「しあわせ稲荷」もあります ↓
f0122653_1145331.jpg「お手々とお手々を合わせてしあわせー」じゃなく
玉川・地頭(じぬし)・本氷川・古呂故(ころこ)という四つの稲荷を合わせたので「四合稲荷」です
ここはまた 大銀杏でも有名ですね
吉宗の時には すでに樹齢百年と伝えられています
現在も善福寺の逆さ銀杏に次いで 第二の大木だそうですよ
時間があれば ↓ 芳年の絵馬も見ていってください
f0122653_1156655.jpg月岡芳年の
肉筆で
「ま」組火消し出動の図
明治12年に奉納されたもので 区の文化財になっています
額堂の中に納められていますので いつでも見れます 
「ま」組は 氷川神社の北東から 南一帯
元赤坂町 裏伝馬町 赤坂田町 麻布今井町を受け持ちとしました
氷川神社 見どころいっぱいですが 長くなりましたので この辺で・・・
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by tukitodoraneko | 2012-02-22 12:06 | 江戸あるき | Comments(7)

鬼平と海舟ツアー その1

f0122653_11191874.jpg今回の町歩き 初めて行ったところがいっぱいなので 何回かに分けて ご紹介しておきましょう
← 何?このカラオケ屋 それも「パセラ」じゃない モノマネ芸人の聖地じゃない!
ここは 赤坂田町3丁目 勝海舟が24才から
所帯を持ったところなんですね
いわゆる新婚のスィートホーム
カラオケになったのも何かの縁
誰か 勝海舟のモノマネ会得してね
f0122653_11264246.jpgそしてこちらは 平蔵の生誕時の屋敷跡地 →
5才までは ここだったそうですよ
勝海舟は 鬼平の死後 28年たって 生まれているので 通りですれちがったことはないでしょうが
思いのほか近いところなんですね
ここは赤坂6丁目です
f0122653_11575748.jpg


← すぐそばには37才から 明治元年まで
10年間住んだ屋敷跡もあります
咸臨丸でアメリカにでかけたのも 龍馬が千葉重太郎と乗り込んで来たのも 近藤勇の助命のため 土方歳三がやってきたのも この屋敷です
いろんな事件を見てきたんですねー
f0122653_1275673.jpg


森山(切絵図では守山)孝盛の屋敷跡を説明する秋山さんです → りりしいですね!
辺りはすっかり変わってしまいましたが
切絵図を見ると 道路の曲がり方とか
江戸そのままなんですよ
この日は 秋山さんの用意してくれた
延宝期の「江戸方角安見」を見ながら歩きました
f0122653_1217569.jpg← さて次は この坂を上って(かなりな急坂!)
裏口から 氷川神社へ
この辺りは 本当に坂が多いですね
海舟は この赤坂の地をとても愛しましたが
何度も転居して えらくなっていくほどに
同じ赤坂でも 低地から高台へと移っていくのですね

長くなりましたので 今日はこの辺で
明日は 氷川神社から はじめましょう
では また明日! 
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by tukitodoraneko | 2012-02-21 12:30 | 江戸あるき | Comments(2)

鬼平と海舟!

f0122653_1414483.jpg昨日は 恒例の二期定例会でした
今回は まだ五期の定例会が始まっていないので 
そちらからの参加もあり 大人数でした
バクさんもブログに書いてるから またダブっちゃうんですが
何しろ 大先輩で憧れの秋山太兵衛ちゃんのガイドでした
ので 書かずにはいれません
ツアータイトルは「鬼平と海舟の住まいめぐり」
なんだか 江戸のあちこちに「海舟のすまい」って
ありますよねー
赤坂だけでも 三ヶ所!
ということで 今回の集合は千代田線「赤坂」です
私たちの定例町歩きも もう数十回になりますが
f0122653_14411862.jpg赤坂は初めてですねー
同じ赤坂に 長谷川宣以の生誕地もあったんですね
5才までの屋敷はここにあったそうですよ
それから氷川神社により 四合(しあわせ)稲荷を見て
切絵図で位置を確認
元氷川小学校だった屋敷跡にもいきました
この辺は 明日くわしくバクさんが書いてくれるでしょう
ここから「八丁堀」へ 移動
鉄砲洲稲荷の富士塚を見て
平蔵が5才からの 屋敷の跡地へ 
そして もちろん人足寄せ場は 必修コース
昨日2月19日は なんと鬼平が寄場取扱に就任した
「寄せ場記念日」!
ここで 私たちは 往時を忍んで たっぷり油を絞って
もらって 住吉神社
ここで 地震がありましたよ 結構大きかったですね
f0122653_1457376.jpgそして月島から「森下」へ移動 
駅前に 一級仲間・木下さんの書いた案内銘板があります
← 二の橋のそば あの有名な「五鉄」の跡地にも・・・秋山さんの言うには 本当はこれが立っている所の 四つ角をはさんで対角線上の所が
正確な跡地ということですよ
私も もちろん 秋山さんに一票!
この後は 平蔵役宅跡や 本所の時の鐘
勝海舟が 8才から24才まで過ごした地を見て
今日のツアーは終了
そして いつも通り 夜の巷での宴会ツアーに突入しましたね
秋山さん お疲れ様でした!
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by tukitodoraneko | 2012-02-20 15:08 | 江戸あるき | Comments(3)

平清盛 第7回「光らない君」

f0122653_15225775.jpgはい 週末大河です
先週出てきた 深キョンは 清盛の最初の
妻役ではないのですね
嫡子・重盛ともう一人 男の子を産んで 
亡くなった最初の妻=高階基章(たかしなもとなり)の娘は 加藤あいさんがやるようです
「明子」という名になっていますが 記録には出てきません 仮名ってところですね
f0122653_15284712.jpg深キョンは 二度目の妻・時子役で 大河では二人は友達という設定のようです
最初の妻に関しては 長男・重盛が生まれた年が
保延5年(1139)で 清盛21才ということから
それ以前に結婚したということくらいしかわかりません
海賊追討後 その功賞で 清盛は従四位下になり
翌年の1136年 19才で 中務権大輔(なかつかさごんのたいふ)に なっています
これは天皇の公務に関する事務役です
そして同じ年に (仮)明子の父・基章も右近衛将鑑(うこんのえのしょうげん)になっていて これは警護の現場指揮官といった役職です
もちろん 清盛の方が 身分は高く この最初の結婚は 今で言う「格差婚」でした
おそらく 役職がら 顔を合わすことの多かった二人は 父子ほど年が離れてはいましたが 
顔見知りとなり その娘をもらったということなのでしょう
身分は違いますが 正式な妻として迎えているのですから 
本当に清盛が気に入って妻にしたのかもしれません
大河では 「光源氏」にかけて「光らない君」と言われちゃう松山清盛
毎回 汚い顔で出てきて またどっかの知事を怒らせるんじゃないかと
ヒヤヒヤしてますが 女性ファンは あの野性的で マザコン気味の清盛
大好きなんですがねー
男性陣の感想は いかがかな?
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by tukitodoraneko | 2012-02-18 15:59 | 大河ドラマ | Comments(2)

東照宮御実紀 三方が原の戦

さて姉川の戦が終わったところまででしたね
この後も 朝倉・浅井に組した佐々木承禎入道が 近江・野州郡に討って出ると聞き
信長からまた援軍を頼まれ 本多康重 松井忠次に二千の兵をつけて出しています
f0122653_11321116.jpgさて この頃 越後の←上杉謙信が頭角を現してきました
軍略・兵法は「孫呉」に似た「きこえ高い古強者」
孫呉というのは「三国志」の呉の孫氏のことですね
はじめは 今川氏真の縁で 音信を通わすようになったのです
当時 街道一の弓取りと名の高き徳川殿と よしみを通じること 謙信が身の喜び これに過ぎるはなけれ
と 左近忠次まで書状を送り 喜んだとか
それ以来ずっと よい関係が続いていたのですね
この年また 長男・三郎君は13才になり元服
織田信長から一字をもらい 二郎三郎信康を名乗ることになりました
あけて元亀2年(1571)金井・大井川の辺りの巡視を行う
時に信玄は 謙信との交流を聞いて これは早めに徳川を叩いておこう
と例の策謀を働かせ 「天竜川を領国の境」と決めていたのを
大井川に出たところ「同盟をやぶるのか」と 因縁をつけてきたのです
家康はこれを聞いて「こちらは大井川をへだて 手を出すつもりはない
信玄こそ 秋山・山県などを使って こちらの領分を侵しながら
今また 難癖つけるとは なんてこったい!」と 怒り これで友好関係は終わり
信玄は いよいよ姦謀をほしいままにして しばしば三河 遠江に軍を出し
城々を 攻め討ちはじめました
そしてついに神無月(10月)山県昌景の5千騎を先手として
入道自ら4万5千の大軍を率いて 遠江に討ち入り
多々良・飯田などの城を落として 浜松めがけて押し寄せてきました
 信玄は 腹黒にて 策謀姦智の振舞い多しといえど 兵衛軍法においては
 よくその節制を得て 謙信と並んで 当時その右に出るもの無し
 当家は 上下こころを一にして力を合わせること 子の父に仕えるごとし
 (中略)されど 衆寡敵せずのならひなれ・・・

↑ この部分は 全部「いいわけ」ですねー
とにかく 12月22日 三方が原の戦いでは
徳川方は 利を失い 名ある者ども 多く討たれる  ことになってしまいました
夏目次郎左衛門吉信は命に代えて 家康を逃がしました
この夏目は 永禄の頃 あの一向門徒に組し 敵となって捕らえられ
松平伊忠の「この者は 必ず後に御用に立つべき者なり」という言葉に
助けられ その後もねんごろに召しつかわれていたので
 この日 御恩に報いんと 君(家康)が敵中に引き返すのを見て
 手に持った槍の柄で 馬の尻を叩きたて 浜松の方へ押し向け
 その身は 敵中に向かい 討ち死にせしとぞ

f0122653_12233669.jpgこのおかげで やっと浜松城に逃げ帰った家康は 
城門は閉めず 城の内外に大篝(かがり)を炊かせ
奥に入って 湯漬けを三杯かきこむと 大いびきで寝てしまったそうです
さすがに「実記」ですので ちびりながら逃げたことや
直後に自分の姿を絵師に描かせた→なんて話は 
NGですねー
代わりに 鳥居 植村 天野 渡辺ら御家人が
場外に討ち出し 敵を追い払ったこと
その夜 大久保忠世らが 間道から敵の陣所へ忍び入り
穴山梅雪の陣に鉄砲を打ちかけ その手下の人馬が
犀が磯(犀ヶ崖の下)に落ち 多くが死んだこと
そして 信玄の言葉として 勝っても 恐るべきは浜松の敵なりというのが 載ってます
ま、べろ負けして 逃げ帰ったとは 書けなかったんでしょうね

 これ三方が原の戦とて 大戦の二なり
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by tukitodoraneko | 2012-02-17 12:39 | 徳川実紀 | Comments(7)