さて姉川の戦が終わったところまででしたね
この後も 朝倉・浅井に組した
佐々木承禎入道が 近江・野州郡に討って出ると聞き
信長からまた援軍を頼まれ
本多康重 松井忠次に二千の兵をつけて出しています

さて この頃 越後の←
上杉謙信が頭角を現してきました
軍略・兵法は「孫呉」に似た「きこえ高い古強者」
孫呉というのは「三国志」の呉の孫氏のことですね
はじめは
今川氏真の縁で 音信を通わすようになったのです
当時 街道一の弓取りと名の高き徳川殿と よしみを通じること 謙信が身の喜び これに過ぎるはなけれと 左近忠次まで書状を送り 喜んだとか
それ以来ずっと よい関係が続いていたのですね
この年また 長男・三郎君は13才になり元服
織田信長から一字をもらい
二郎三郎信康を名乗ることになりました
あけて
元亀2年(1571)金井・大井川の辺りの巡視を行う
時に
信玄は 謙信との交流を聞いて これは早めに徳川を叩いておこう
と例の策謀を働かせ 「天竜川を領国の境」と決めていたのを
大井川に出たところ「同盟をやぶるのか」と 因縁をつけてきたのです
家康はこれを聞いて「こちらは大井川をへだて 手を出すつもりはない
信玄こそ 秋山・山県などを使って こちらの領分を侵しながら
今また 難癖つけるとは なんてこったい!」と 怒り これで友好関係は終わり
信玄は いよいよ姦謀をほしいままにして しばしば三河 遠江に軍を出し
城々を 攻め討ちはじめました
そしてついに神無月(10月)山県昌景の5千騎を先手として
入道自ら4万5千の大軍を率いて 遠江に討ち入り
多々良・飯田などの城を落として 浜松めがけて押し寄せてきました
信玄は 腹黒にて 策謀姦智の振舞い多しといえど 兵衛軍法においては
よくその節制を得て 謙信と並んで 当時その右に出るもの無し
当家は 上下こころを一にして力を合わせること 子の父に仕えるごとし
(中略)されど 衆寡敵せずのならひなれ・・・↑ この部分は 全部「いいわけ」ですねー
とにかく 12月22日
三方が原の戦いでは
徳川方は
利を失い 名ある者ども 多く討たれる ことになってしまいました
夏目次郎左衛門吉信は命に代えて 家康を逃がしました
この夏目は 永禄の頃 あの一向門徒に組し 敵となって捕らえられ
松平伊忠の「この者は 必ず後に御用に立つべき者なり」という言葉に
助けられ その後もねんごろに召しつかわれていたので
この日 御恩に報いんと 君(家康)が敵中に引き返すのを見て
手に持った槍の柄で 馬の尻を叩きたて 浜松の方へ押し向け
その身は 敵中に向かい 討ち死にせしとぞ
このおかげで やっと浜松城に逃げ帰った家康は
城門は閉めず 城の内外に大篝(かがり)を炊かせ
奥に入って 湯漬けを三杯かきこむと 大いびきで寝てしまったそうです
さすがに「実記」ですので ちびりながら逃げたことや
直後に自分の姿を絵師に描かせた→なんて話は
NGですねー
代わりに 鳥居 植村 天野 渡辺ら御家人が
場外に討ち出し 敵を追い払ったこと
その夜 大久保忠世らが 間道から敵の陣所へ忍び入り
穴山梅雪の陣に鉄砲を打ちかけ その手下の人馬が
犀が磯(犀ヶ崖の下)に落ち 多くが死んだこと
そして
信玄の言葉として
勝っても 恐るべきは浜松の敵なりというのが 載ってます
ま、べろ負けして 逃げ帰ったとは 書けなかったんでしょうね
これ三方が原の戦とて 大戦の二なり