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阿漕(あこぎ)な人!

f0122653_11501268.jpg昨日、一日遅れで大河を見ました
清盛「北面の武士」になってましたね
佐藤義清(のりきよ)のちの西行もいましたので
今日は その話にしましょう
義清は 清盛とは同い年
大河では だいぶお兄さんに見えますね
本当は 北面の武士になったのは18才からなので 殿上の闇討ちのころは まだいません
「古今著聞集」によれば 徳大寺家の家人
f0122653_1202723.jpgだったころですね
この徳大寺家は 和歌に優れたお家筋
← 当主・実能の妹が あの待賢門院璋子
鳥羽天皇の后になった人 崇徳帝の母です
義清は 18才で北面の武士になりたった5年 
23才の時には 出家して「西行」になってしまいます
その原因に関しては 藤原頼長の「台記」によれば
家富み 年若く 心愁い無きも ついに以って遁世す
つまり 何の理由もなく 仏門にひかれて・・・
ということになっています
「西行物語」では 同族・佐藤憲康の急死に世をはかなみ・・・となっています
f0122653_1271090.jpgしかし一番有名になったのは「源平盛衰記」にでてくる
さても西行 発心の想いをたずぬれば 源は恋ゆえとぞ承る
という 一説 申すも畏れある上臈女房を思いかけ
しまったのですね
これには 名前も書いてないんですが 現代になってから
小説家がこの上臈女房を「璋子」に仮定したところ 
それが真説のようになってしまいました
まあ 相手が誰にせよ この女性に義清は
「阿漕(あこぎ)であろう!
」とたしなめられるのですね
阿漕って 今は使いませんねー
少し前までは 強欲な奴という意味で使いました
もとは「歌枕」というものだったのですよ
歌枕=和歌に出てくる名所のことで「天橋立(あまのはしだて)」や「瀬田の唐橋」と同じです
伊勢の海 阿漕が浦にひく網も 度重なればあらわれにけり
という古歌で 知られています
伊勢神宮に差し上げる魚を捕る阿漕が浦は そもそも一般人は禁漁の地
そこで 何度も漁をした「阿漕」という漁師は やがて見つかって この沖に沈められた、
という伝説にもなっています
ある高貴な女房に懸想して 病づいた義清を
哀れと思い 女房は 一度だけの逢瀬を持ってくれるのですね
しかし 義清がその別れ際に 今一度と尋ねると
女房は「阿漕であろう」とだけ言って 去ってゆくのです
さて この意味が わからない!
平安後期から 歌の「故実」を知るというのが 大変重要なことになってきて 
これを知らないと教養に欠けるってわけです
義清 がっくりと落ち込んで出家してしまうのですね
落語の「西行」では 出家した義清が 伊勢まで来ると
道端の馬方が 馬に向かって「おまえのような阿漕な奴はない!」と 怒鳴っています
その意味を尋ねると「こいつ さっき飯を食ったばかりなのに すぐ又 飯をくれといいやがる!」というのですね
そこで 義清 「そうか!阿漕とは 二度目のことか!」と 思いつくという話です

お酒も飲めないのに「二次会」に拉致された関さん
今度から あの人たちに「阿漕であろう!」と 言ってやりましょう
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by tukitodoraneko | 2012-01-31 12:49 | 大河ドラマ

日比谷図書館で表彰式!

f0122653_10242149.jpg昨日29日は 江戸文化歴史検定の特別表彰式が 
行われました
これまでは 江戸博の内部で少人数で行われていたんですが 今回は140名という大量合格者だったため 過去の1級合格者も全員 お呼ばれし 日比谷図書館のホールで行われました
実質的には 今回の合格者の「初顔合わせ」です
たくさんの方がいらしてて まあびっくり!
会場に入ったとたんに 月猫は「名刺交換会」でした
プレゼンテイターは もちろん江戸博の竹内誠先生
今回94点という最高得点で 1級に受かった小林さんは 私たちの一年後に初合格した方で 毎年!1級受験して(もちろん合格)いる猛者です
三期の方々の祝賀会もあったようですよ
f0122653_10321349.jpg日比谷図書館 行ったことありますか?→
特別展示で「文化都市千代田の歴史」をやっていました
各種 講演会も行われ 竹内先生の講演会もあります
f0122653_10355037.jpgこの図書館 上から見ると← ほら きれいな三角形なんですよ
日比谷公園の中にありますから 散歩のついでにどうぞ
歴史のある図書館で
大正頃の様子は
f0122653_10502840.jpgこんな風だったんですよ →
昨日はこの他 三級を100点満点で合格した方、3名
準一級を取った外国人の方 
最高齢で準一級の90才女性
そして 最年少9才(小三!)で 三級合格のきょうなちゃんが 表彰され トロフィーをもらいました
きょうなちゃんの かわいいお振り袖姿は 感激もの!
来たれ 若者! そして頑張れ女性陣!
江戸検の男女比は 江戸時代と同じ2:1なんです
f0122653_10594976.jpg表彰式の後は 私のあこがれ 山本博文先生f0122653_1104338.jpg我らがホーリー=堀口茉純ちゃんとのトークショー
山本先生には コッテコテの
「バレンタイン・チョコ」を
差し入れしたんですが 私の心 伝わったでしょうか?
先生のご本と お公家さまのような上品なお顔の大ファンです
散会後は もちろん飲み会
偶然にも「五期=今回1級合格の会」と 居酒屋で遭遇
最後は ぐちゃぐちゃに 交流しました
私以外の「二期会」は その後 二次会に突入
もうホントに 江戸に詳しく 酒にも強い猛者ばっかり・・・・
こんな楽しい交流会 来年は ぜひ あなたも!
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by tukitodoraneko | 2012-01-30 11:10 | 江戸文化歴史検定

平清盛 第4回「殿上の闇討ち」

f0122653_13332668.jpgはい!週末大河です 今回は「平家物語」そのまま
「殿上の闇討ち」のエピソードです
← 今回の主役は パパ忠盛
殿上人になったパパは いろんな人たちのやっかみを受け
意地悪されるんですね
これは清盛がまだ 13才くらいの時
天承元年(1131)11月23日 忠盛は36才
「平家物語」では「すがめ」だったとかいてあります
「斜視」のことですかね
f0122653_1463829.jpg

「平家物語絵巻」にも この場面はあります
左上が 鳥羽院 右手 後ろ向きで刀を抜いているのが忠盛
庭に控えているのが 家臣・平家貞です
闇討ちの噂を聞いた忠盛が 郎党を一人 庭に忍ばせ
帯刀して 昇殿 後に これをとがめられると
郎党は 主を心配して勝手についてきたもの
刀は 木刀に銀箔を貼っただけ・・・と釈明して おとがめ無し
というこれだけの話です
忠盛 すがめだの何だのと 悪口も書かれてますが
殿中の女房の中に 恋人もいて なかなかやり手です
和歌もうまく「平忠盛集」があるくらい
笛もうまかったといいますから ただの堅い武人ではなかったのですね
貴族とつきあえるかどうかが 当時は大きな出世の糸口
坂東武者と言われて 武辺一辺倒の源氏は
この点が 問題で なかなか昇殿できなかった、というのが現実です
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by tukitodoraneko | 2012-01-28 14:17 | 大河ドラマ

東照宮御実紀 人質時代

とりあえず巻2に 進みましょう
弘治2年~天正5年まで 1556~1577年の22年間のことです
さて 弘治2年(1556)正月15日
f0122653_11265382.jpg人質状態の竹千代君も15才で 元服です
加冠役は 今川義元自身 理髪は関口親永
つとめ 義元の一字をもらい 
二郎三郎元信と 名をあらためました
同時に 関口親永の娘を 北の方とします
後の築山殿です
そして翌2月 義元の計らいで 東條松平義春を名代として 日近の城を攻めました
城将・奥平貞道は よく守りましたが討ち死
この城は 三河と尾州との国境にある重要な城でした
また尾張からの 侵略に備え 福釜にも新しく砦を築き 
酒井 大久保などの御家人に守らせました
信長は 柴田勝家を使って 攻めさせましたが かえって深手を負い引き返しただけ
こんな中 竹千代あらため元信は 元服も済んだことだし 一度 故郷に帰って 
墓参りがしたいと願い出 やっと里帰りが 許されました
この時 岡崎には 城代・山田新右衛門が 本丸を占拠していましたが 
元信は 文句も言わず二の丸に泊まり 「分別厚き少年」と 義元を感心させました
また 先代からの御家人で80過ぎの鳥居忠吉が 賦税役の合間 
こっそりと蔵に隠し貯めた金を見せると 涙を流し感謝したとか
その仁心 たぐいなきさま 祖父・清康公に生き写し・・・ということで
翌年の春 駿府に帰ってから この祖父にちなみ蔵人元康をなのりました
弘治4年 改元して 永禄元年(1558)
元康 17才の初陣は 三河の鈴木重教が守る寺部城攻め
順調に勝ちを収めると 「戦は後詰めが大事 枝葉を刈り取り 後に本根を断つべし
と なかなか慎重派で 城下に放火してさっさと引き上げたので
酒井正親 石川清兼など歴戦のつわものも 若大将の初陣とは思われず
その深慮に 感嘆したということですよ
義元も この初勝利に喜び 旧領の内 山中三百貫を返し 腰刀を賜りました
また 織田方の広瀬 誉母 伊保などの城も攻め 水野信元とも戦をしました
その主知 勇略に 古老も感服
ここらでそろそろ 城代も引き取り 領地を返してくれと 義元に頼んで見ましたが
翌年 尾州に軍を起こすつもりだから 国境の査定が済んでからな
と ごまかされてしまいました
永禄3年(1560)3月 駿府で 元康の北の方(築山殿)に男子誕生
のち 岡崎城を譲る三郎信康君これなり
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by tukitodoraneko | 2012-01-27 12:30 | 徳川実紀

東照宮御実紀 裏切りと死

さて 6才で今川の人質に出る竹千代
ここで 大原の戸田(弾正少弼)康光が出てきます
この人は 於大の方の後に 嫁いで来た北の方の父
竹千代からすれば 母方のおじいさんでした
陸路は何かと危険が多い 我が領地より 舟にて送り申さん
言葉巧みに持ちかけると 息子・政通と心を合わせ
お供の人々をだまして 竹千代を尾州熱田に連れて行って
なんと敵の織田信秀に 渡してしまったのです
f0122653_10173363.jpg信秀は 喜んで 竹千代を加藤順盛に預けました
これで 三河は我が手の内と 喜んだのですね
しかし!この次第を聞いた竹千代の父・広忠
一子への愛から 今川との多年の旧好を変ずべからず
愚息の一命は 霜台(弾正の唐名)の思慮にまかせらるべし

と 織田に寝返ろうとは しなかったのです
竹千代は 名古屋の萬松寺(今もありますね)に移され
天王坊におしこめられ 見張りがつけられました
この委細を聞いた今川方は 広忠の義心に感じ
援兵を 出してくれることになりました
遠江と東三河の勢が 差し向けられ 
← 三州小豆坂で 織田と合戦
織田方は むなしく 引き返しました
織田に内通していた蔵人信孝も 忠倫は討たれ同志も衰落
とうとう自ら 大明寺村に打って出て 討ち死し
同じく 寝返った権兵衛重弘も 山中城を捨て 落ち失せてしまいました
しかし 織田方は再度 大軍で押し寄せてくるでしょう
f0122653_10325839.jpgそんな中 まさかの一大事!
この戦の最中に体調を崩した広忠
その病状は 日々重くなっていき
天文18年(1549)3月6日 まだ24才という若さで 世を去ってしまったのです
まだ30にも満たず 親に続いてこのようなことになるとは・・・と一門御家人は 悲しみにくれました
しかし この事が織田に聞こえては大変
広忠は大樹寺に収めたことになっていますが 寺伝によれば 能見の原に密葬し 年経てから その地に一宇を建立 これが↑松応寺です
f0122653_10423781.jpg廟所は 岡崎市の指定文化財になっています
ここで今川方は 再度大軍を起こし 岡崎の手勢と合わせて その数二万余騎
織田信広のこもる安祥に押し寄せ
瞬く間にこれを制圧してしまいました
この時の 今川方の総将は あの雪斎和尚
信広と竹千代との「人質交換」を 織田に申し入れるのです
織田方でも この春に信秀が病没し その代は「勇鋭の大将」信長に移っていました
信長は 庶兄・信広を救わんと 鳴海まで進軍したところで 「安祥落ちる」の報を聞きました
そこで この交換に応じ 11月10日 三河の西野傘寺に竹千代を送って来
こちらも大久保忠俊など 岡崎普代のつはものが出迎えて これを受け取りました
竹千代 8才で 岡崎に戻ったのですね
し・か・し! それも束の間
今川では 幼い竹千代を後見するという理由で 再度 人質とし
同じ月の22日には また駿府の少将宮町に連れて行かれました
たった12日間の帰城だったんですねー
そして 岡崎へは 駿府から城代も送られ 国中が今川の思いのまま
岡崎の御家人たちは 戦の度に 先鋒として使われる有様・・・
これから 19才まで 竹千代の苦難の人質生活が始まったのでした

と、ここまでで 第一部が終わりです
第十までありますので やっと十分の一が 終わりましたよ
いかがでしょう? 長い? そうでもなかった?
私は 書いてて結構 おもしろかったですよ
続きは 皆さんの評判を聞いて 考えましょうねー
では また
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by tukitodoraneko | 2012-01-26 11:18 | 徳川実紀

東照宮御実紀 人質!

さて 竹千代はたった3才で 母・於大の方と別れてしまいました
そして天文14年(1545)3月 また事件です
岡崎の御家人・岩松八弥は 普段 広忠の側近く 仕えていましたが
ある日 いきなり 広忠に斬りかかり その太ももをつきさして
門外に 逃げ去りました
もちろん大勢で追いかけたのですが ちょうど外から帰って来たのが植村新六郎
すかさず八弥に飛びかかり 空堀に落ち 組み敷いて 討ち果たしたのです
この人 清康の時にも 阿倍定吉の息子・弥七を 討った人
 「二代の主の仇を 即時に誅するとは 冥加の武士
と 皆がうらやましく思った、ということですよ
この頃 尾張の織田信秀・・・信長パパは そろそろ三河に 触手をのばしてきました
上和田城の忠倫や 上野城の酒井忠尚は これに内通しているようでした
また 岡崎でも 蔵人信孝が 広忠の帰城に尽力したことを機会に力をつけ
以前の信定のように 専横のふるまいをするようになっていました
そのため天文16年(1547)の正月 病気の広忠の代わりに
今川に年始の挨拶に行っている間に 三木の領地を没収されてしまったのです
これに怒った信孝は 他の家臣の讒言のせいだと これを恨み
やはり 織田方に内通するようになってしまいました
当時 さしもの長生きじいちゃん道閲入道(長親)も亡くなり
織田信秀は この時とばかりに 兵を出して 安祥を攻め落とし
ここに その子・信広を置き 渡理・筒針にとりでを築き
上和田の忠倫 上野の酒井忠尚を置きました
その上 あの信定の子・清定も 味方につけました
このため 岡崎は 孤立してしまい 小競り合いの絶えない不穏な状況
そんな中 岡崎の御家人・筧(かけい)重忠が 降参をよそおって
上和田の忠倫に近づき みごと これを討ち取ったのです
岡崎方は 大喜びですが 織田信秀 これにはカンカン!
自ら 兵を率い 打って出るという噂が 広まりました
さすがに そうなったら 衆寡敵せず こりゃあやばい!と
f0122653_11163473.jpg← 今川義元に 援兵を求めることにしました
この時 義元が出した条件が 人質を出すこと
このために わずか6才の竹千代君は 
駿州に やられることになってしまうのですね
この時 お供したのは 石川数正 天野康景 上田元次(康宗) 金田正房 松平忠正 平岩親吉 榊原忠正 江原利全 など28名
知ってる名前が いっぱい出てきましたね
実記で 石川や天野の名前が出るのはここが
初めてです
この他に 雑兵50余人
そして 遊び友達として 阿部正宣の子・徳千代 6才
この子は 後の 阿部正勝になるのですね
今日は ここまで
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by tukitodoraneko | 2012-01-25 11:33 | 徳川実紀

東照宮御実紀 家康の母

f0122653_1012364.jpg天文11年(1542)12月26日
とうとう 家康 誕生です
この時には ←母・於大の方が 鳳来寺の峰の薬師に祈願して 
7日満願の日に 十二神将の寅神が現れ 授かったなどの「奇瑞」(きずい)が伝わっています
日光山の縁起にも 書かれているとありますが
英雄誕生譚には 必ずつきものですね
この時「蟇目」の役を勤めたのは 石川清兼
胞刀を奉ったのは 酒井(雅楽助)正親です
御七夜には「竹千代君」と 名づけられました
しかし その後 母の父・水野忠政が死ぬと
その子・信元は 今川から離れ 織田に寝返ってしまいます
広忠は 恩ある今川の手前 北の方を刈屋に送り返す決心をします
これが 竹千代 3才の時
そして金田・阿倍などがつきそい 水野の領内まで送ってきますと
北の方が言うには 「兄・信元は短慮の人 お前たちを無事には帰すまい
いつか 和議をすることになっても ここで何かあったらその障りになる」
そう言って 自分を置いて ここから帰れとききません
供のものは 仕方なく 駕籠を下ろし 物陰から見ていると
案の定 刈屋からの迎えの者がやってきて
信元から 供は全て 切り捨てよという命を受けてきたとのこと
北の方は 「供はとっくに返し 今ごろ岡崎に着いているだろう」と語り
無事に収まりました
この方の姉も 形原の紀伊守家広に嫁ぎ 同じように
実家に帰されたのですが その時の供は全て 斬られたといいます
さすがは 海道一の弓取りといわれる名将の母君
その深慮を 皆が感嘆した・・・ということですよ
広忠には この他に 一男三女がいました
もう一人の男子は 家元(のちに康元)といいますが
どうも足が不自由だったようで 「足なえて 生涯世に出ず 人に交わらず」と書いてあります
娘 多劫姫は 桜井松平の忠政に嫁し その弟・忠吉 その後 保科忠光に嫁ぎました 
市場殿は 荒川頼持(また義虎)へ 後 筒井政行に嫁ぎ
矢田姫は 長澤の康忠に 嫁いでいます
この後 広忠は 田原城主・戸田康光の娘をもらいますが
この間には 子供がなかったようです
しかし 福釜の松平親良 桑谷忠政 内藤信成
この三人は 「実は広忠の子」だとも伝えられています
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by tukitodoraneko | 2012-01-24 11:11 | 徳川実紀

平清盛第三回「源平の御曹司」

f0122653_1354370.jpg昨日の大河では 随分時が流れました
白河法皇の亡くなったのは大治4年(1129)
清盛12才の時でしたね
そして 父・忠盛が昇殿を許されたのは
保延元年(1135)清盛も18才になっていました
45分の内に 6年の月日が流れていたのですね
この辺りは「平家物語」でも 清盛に関する
記述はほとんどなく 当時の棟梁であった
父・忠盛のことのほうが多く語られています
その他の日記でも 鳥羽上皇の元で
親子して その武力を頼られていたということ
特に院の近臣・藤原家成とは 親しかったということくらいでしょうか
源氏の御曹司・義朝は 清盛よりも5才年下
まだ 関東にいたというのが本当のところでしょう
父・忠盛ですが 白河法皇の死後 
すぐに鳥羽上皇の院庁で 判官代という役目につき順調に出世 
また「得長寿院」を建設した功績により
内裏の昇殿(内昇殿)を許されるようになりました
当時は 位階が四位・五位の者の中で
特に天皇に認められた者が 昇殿を許され殿上人となりました
内裏=天皇の御所や 院の御所の建物の内に入って 
天皇や上皇の側近く仕えるのが昇殿
昇殿を許されないものは 源氏がそうだったように
内裏の庭までしか 入れないのですね
昇殿を許された殿上人は 公卿に継ぐ地位であり
すでに 貴族として 扱われます
それほど 昇殿できるか できないかは 大きな差のあることだったのです
そして 清盛ですが 父と共に 鳥羽院の近臣として
15才では すでに従五位上にまで上がっています
六波羅のふかすみの高平太・・・・それはちょうど この頃のことだったでしょう
f0122653_13422449.jpg昨日は 「北面の武士」の佐藤義清(のりきよ)も初登場
後の西行法師ですねー

ではまた 明日
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by tukitodoraneko | 2012-01-23 13:44 | 大河ドラマ

東照宮御実紀 東照宮誕生!

さて 一日さぼりましたが 徳川実記 すすめましょう
「森山崩れ」で 天文4年(1535)12月5日
25才の若さで 頓死した清康
彼には 三人の妻がいました
最初の妻は 攻められて娘を差し出した松平昌安入道の娘・春姫
しかし ここは「仲むつまじからず」子供もいませんでした
二番目の妻が 近郷の郷士・青木貞景の娘 この腹に広忠ができますが
産後すぐに亡くなってしまいました
三番目が 大河内元綱の娘で 元は水野忠政(三州刈屋城主)の妻だった女
つまりバツ一の後妻が来たわけですね
この他の子供は 弟二人に 姉一人
弟の内 一人は 信康 もう一人は大樹寺の住職となった成誉
姉は 始め 長沢の松平康高に嫁ぎ 後 酒井忠次に再嫁しました
さて 父清康が亡くなった時 広忠はまだ10才 幼名「仙千代」
曽祖父にあたる長親は 阿倍定吉を「すべて息子・弥七の乱心のせい」として
幼い仙千代を主として これからも忠勤に励むよう告げました
天文5年(1536)2月のはじめ 織田信秀が西三河を併合せんと 八千の兵を率い 攻め寄せてきました
岡崎方は 小勢ながら年来の居城を 敵の馬蹄にかけんも口惜し
伊田郷において決戦 織田軍はこの決死の猛攻に敗走しました
しかし 味方にも 林 植村 高力など 40人の戦死者が出ました
織田と内通の噂のあった信定は この後 老父の入道(長親)に取り入り
幼君の後見役と成り 岡崎の政務を専横していきます
この状況に 危機感を持った阿倍定吉は 幼君「仙千代」をともない
ひそかに 岡崎を脱出して 伊勢神戸の城主・東條持広のもとへ逃れました
ここは 清康の妹の嫁ぎ先 仙千代にとっては 叔母のところだったのですね
仙千代は この東條夫妻に育まれ ここで元服し
二郎三郎広忠を なのることになりました
とうとう 家康のパパですねー
しかし そう簡単にもいかず 持広がほどなく病没すると
その子・義安は 父に背き 織田方に内通 広忠を織田の人質に差し出そうとするんですね
このため 定吉は また広忠と共に 神戸を出
遠州・懸塚の鍛冶ヶ家に忍び 駿河の今川義元に援助を請います
定吉の弟・忠次も 岡崎の御家人の間をひそかに訪ね
林 大原 成瀬 八国 大久保などに 協力を取り付けました
今川義元は 広忠に恩を売り 三河一国を旗下に入れたい心づもりから
まず彼らを 牟呂の城に入れ その御家人を使って 
織田方の東條城主・吉良義郷を襲わせました
これがうまく行って 義郷は討ち死
また この結果を聞いて 驚いたのが 腹黒い信定
しかし 譜代(実記では 普第)の御家人が一致して 計ったため
天文6年(1637)5月1日 広忠 岡崎 帰城
この時の感状が 今も林忠英の家に 残っています
さしもの信定も この後 病没
年頃になった広忠に 定吉や 酒井 石川などが計らって
父・清康の 後の北の方(華陽院)が 前夫・水野忠政のもとで設けた娘を
広忠の北の方に 迎えることになりました
この方が 後の伝通院
そして 天文11年 12月26日 このお腹に 若君誕生

これぞ 当家 烈祖 東照宮にぞ ましましける
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by tukitodoraneko | 2012-01-21 13:41 | 徳川実紀

高額は 好学をはばむ話

昨日のコメント欄で 話題になっている本のこと ちょっと書いてみましょう
出版社は「吉川弘文館」安政年間に創業 吉川さんが始めた会社で
今の社長で 6代目ですねー
主に 歴史関係の資料などが主な出版物ですが とにかく全部高いですね
f0122653_11505172.jpg← 今これをシリーズで出し始めていますので 
ご存知の方も多いでしょう
今四巻目で 家康の分は5巻で完結ですので
今年の江戸検には まにあうでしょう
一冊 だいたい3千円くらい
買われた方 いますか?
私は本を定価で買わない人なんで(困った人!)
たぶん 買わないかな
そのかわり ブログに書いていきますよ
f0122653_1223842.jpgハカマオーが欲しがってたのがこの本 →
谷中墓地の 主に将軍の生母や側室などの墓を 改葬する際の発掘調査の報告書です
副葬品などから 大奥の慣習などもわかるし
復元の試みなども なされています
たしかにちょっと おもしろそうなんですが
全三巻で 15万って!!
もう 買って欲しくないんだろう・・・という値段なのは どうなの?
f0122653_12102031.jpg← 谷中のこの部分の発掘調査ですねー
結構 広い場所に点在しているようなので 改葬するんでしょうかねー
吉川弘文館では「永青文庫」という細川家の文書類のシリーズが出てて 私はこれが読みたいのですが やっぱり一冊
一万以上です
図書館に頼るしかないでしょうねー
しかし限定版となっているので
大学の研究室とかに収まるのかなー
時々 古本市などで「〇〇大学〇〇ゼミ」などの蔵書印のある本に出会います
こらこら パクったのかい!と思いますが 当然買います
そういえば 先日 やはり古本市で昭和30年出版くらいの川柳の本 買いました
その話をブログに書いたら 1級の大先輩・村上先生が ご覧になりたいというので 
お送りしました
そのお礼の電話で 「この本は高かったんですねー」と
村上さんが しみじみ仰いました
確か 2千円の定価がついていたと思います
箱入りの立派な本なので あまり気にしなかったのですが
「この本が出た頃の初任給は8千円くらいでしたよ
 僕も働いていたけど 手が出なかったんだろうなあ」
村上さんの言葉に あー・・・とせつなくなりましたよ
この本 古本市で 3百円でした
タイムマシンがあったなら 私は昭和30年にもどって
この本を 村上さんの本棚に そっと置いてきたい
昔も 今と同じ・・・ 高額な本に ため息をつき あきらめる本好きの気持ち
考えようよ 吉川弘文館!その他の出版社!
一部の研究者や 金持ちの好事家だけじゃなく
誰でも 読みたいときに 読みたい本を読める
これが 本当の出版文化だと思うんだけどなー
そうすれば ハカマオーも 江戸時代の川柳みたいに
「持参金つきの嫁」をもらわなくても 済むのになー
(ま、来るかどうかは 別として・・・)
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by tukitodoraneko | 2012-01-20 12:52 | 本の話