<   2011年 10月 ( 28 )   > この月の画像一覧

江~姫たちの戦国 42回「大坂冬の陣」

一晩明けて 合格圏内の方々は あらためて うれしさをかみしめている朝でしょう
合格証が届くまで 不安かもしれませんが とりあえず おめでとうございます!
受かった方々 すべてあなたの努力の結果です!
そして 残念ながら数点足りなかった方々
あなたこそ来年の「1級予備軍」です
もう一度「お祭」に参加できますよ! 一緒にがんばりましょう

f0122653_11323713.jpgさて そうこうしているうちに大河ドラマは もう大坂冬の陣が終わりました
早いなー! 来週はもう淀=茶々と秀頼の最後・・・夏の陣ですよー
つまらぬ!メチャクチャ!と言われながらも もう次で43回です
あー・・・また一年が終わりかけてるのねー・・・
なーんて ヒタっていないで 大坂の陣のこと書いておきましょう
「瓦版」とよばれる現代の「号外」の初めては
 この「大坂の陣」の時にでました
京都を中心に 随分出たようですよ
いわゆる戦局の早刷りって感じですね
最近でも「プリンセストヨトミ」なんて 映画もあったくらい
大阪の人の太閤好きは 関東人にはうかがい知れないものがあります
そのせいか今回の大河では とにかく家康ひとり大悪人
秀忠が やたら良い子ぶりっ子で うんざりですなー
実際の大阪冬の陣のきっかけもあの「方広寺の鐘銘」問題
これは なんとかケチをつけるきっかけを探していた家康に
以心崇伝=金地院崇伝が 進言したのですね
崇伝は 「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」の草稿を作った人
天海が宗教向きを取り仕切ったのに対し 崇伝は政治・外交を担当して
「黒衣(こくえ)の宰相」と呼ばれました
これ「こくえ」と読みますよ 「紫衣(しえ)事件」と同じです
あとは大河と同じ流れで 開戦へ進みます
しかし この時 大阪方にはせ参じた関が原浪人の面々は
真田幸村以外も いっぱいいて 全部「講談」の主人公になるくらい
個性的で おもしろいんですねー
以降 徳川幕府の元で サラリーマン化していく武士たちとちがい
彼らは「最後の戦国武将」だったのだとおもいます
2007年 12月8日のブログ「最後の戦国武将たち」から 数回
明石全登(てるずみ)・長曾我部盛親・塙(ばん)団右衛門・木村重成
毛利勝永・後藤又兵衛
の大阪入城を書いていますので よかったら読んでね
この方々 全部ご存知の方は かなりの武将好き 講談好きですねー
大河では 幸村しかでてきませんが 実はまだまだ隠れたスターが いたんですよー
続きはまた明日・・・・



 
[PR]

by tukitodoraneko | 2011-10-31 13:37 | 大河ドラマ

第6回江戸文化歴史検定

f0122653_1251437.jpg今日10月30日は 第6回江戸検の日!
もうお帰りの方もいるようです
今年は 合格率高そう・・・という感想もありました
まだ 午後から2級を受ける方もいるので
わかりませんが
確かな手ごたえがあったら どうぞ ご報告くださいねー
お祝いしたいです
体調不備で 苦戦した方々
無事に受験できたらいいなー
結果はどうあれ このブログでは
これから受験する方々を応援していきます
みーんな 受かっちゃったら
することなくなっちゃうんで
新しくチャレンジする人も増えてくださるといいな
とにかく お疲れ様でした
まだ 脱力中でしょうが
落ち着いたら お話 聞かせてね
[PR]

by tukitodoraneko | 2011-10-30 13:01 | 江戸文化歴史検定

ドロなわ その2

四十七士の墓所 泉岳寺も江戸名所のひとつ
寛政8年(1796)には開帳も行われ 赤穂浪士の遺品も陳列
大石内蔵助の呼子 息子・主税(ちから)の頭巾・着衣など
同時に 吉良上野介の墓所 牛込・万昌院にも 参詣した
酒井伴四郎も行っている

シュリーマンが見た将軍は 14代・家茂
目黒不動の 名物は「餅花」と「桐屋」の白玉飴
粟餅(あわもち)と 竹の子飯
「金々先生栄華の夢」は 目黒の粟餅屋で 昼寝していた時 見た夢

「遊歴雑記」より
いつにても 回向院の開帳は 川筋といい 往来の咽首(のどくび)なれば
納涼にさしかかりて 大体はやらざるはなし

鬼子母神のおみやげは かざぐるまと わら製の手遊びなど

大森の梅屋敷は 「和中散」という薬屋の作ったもの
本家は東海道 草津の近くの「梅ノ木村」だったからという

浜離宮は 4代将軍・家綱の弟 綱重がもらった「海手屋敷」
根津に「山手屋敷」も もらっている
その弟 綱吉は 「山手屋敷」=小石川御殿をもらった

芝離宮の最初の持ち主は 老中 大久保忠朝(140年間)
その後 二年ほど堀田家 そして御三卿・清水家を経て
紀州徳川家のものになり 明治維新 有栖川宮家から皇室の所有に

大山詣 相州大山 阿夫利(あぶり)山ともいい 山開きは6月27日から7月17日まで
これを4期にわけ 27日~月末までを「初山」(はつやま)
7月1日~7日を「七日堂」 8日~12日までを「間の山」{あいのやま)
13日~17日までを「盆山」と称した
頂上には 不動明王を本尊とする雨降山大山寺
石尊大権現の社がある 開山 良弁和尚
山のふもとの「良弁の滝」で 水垢離をした

まだまだ ありそうなのですが この辺にしときましょう
かけこみ勉強より 明日に備えて 早くお休みになるのがいいでしょう
たぶん みなさん 一年でたくさんんことを学んでこられたと思います
きっと どろなわしなくても 実力でのぞめば 問題ないと信じています
ただ マークシートのズレにだけ 気をつければ大丈夫!
元気に頑張ってきてくださいね!

月猫 応援団より   
[PR]

by tukitodoraneko | 2011-10-29 17:54 | 江戸文化歴史検定

試験前日 ドロなわ!

ここからは 絵も入れず ずらずら書いていきます
まず大名庭園の拝観記のこと
有名なのは 水戸光圀の後楽園のもの
榎本其角 「後楽園拝観記」 元禄15年(1702)
大田南畝 「三つが一つ」  天明4年 (1784)
有名なのはこの二人のもの
他にも 太田元貞 高行 志賀忍 坂昌成 なども書いています
六義園は 十方庵が書いた「遊歴雑記」の中に「松平甲斐守林泉の逍遥」という題で
書いてあります
「庭園」=林泉と書いたものも多いので 覚えていてね
太田南畝は 戸山荘(尾張徳川家下屋敷)にも行き「半日閑話」に
「尾州戸山屋敷一見のこと」という一文を書いています
寺尾正靖の「嘉陵紀行」も名園見聞記です

今まで書いた以外にも有名な大名庭園はいくつもありました
青山にあった藩主毛利家の「清水園
そして 三大名園の一つといわれた「溜池の黒田」庭園は
切絵図で 溜池の南にある「松平美濃守中屋敷」にありました
湿地を利用して 鴨猟ができたそうです
御三卿・清水家の下屋敷は「甘泉園」 今も新宿区に同じ名の公園が残っています
武州一の大滝があったのな 肥前島原藩の目黒下屋敷
これは千代ヶ崎の瀧といわれ「江戸百景」にも書かれています
目白台にある 江戸川公園は 江戸時代 熊本藩細川家の下屋敷
今 学校や公園になっているところは ほとんど江戸の庭園跡みたいですね

享保年間 吉宗は飛鳥山に吹上のお庭の桜を植樹
御殿山の桜は 寛文のころから 吉野山の桜が植えられていたが
吉宗は ここに紀州産の黄櫨(はぜのき)を植えさせ 紅葉も楽しめるようにした
元文2年(1737) 吉宗が酒宴をしたのは飛鳥山
墨堤の桜は 墨田村の名主・坂田次右衛門が 管理を任され 年額4両で請け負っていた
長命寺の桜餅は 滝沢馬琴が「兎園小説」で 計算したところ
一年に 38万7500個 作られていたとか 
中野桃園の植樹は 享保20年 綱吉の犬小屋跡

江戸のホテル街は 馬喰町か小伝馬町ここらの宿は ガイドブックなども出していたし 
専属の案内人もいた
案内料は 日中は250文 夜は130文が相場
f0122653_14313720.jpg江戸の見世物 
← これは安永6年(1777)浅草寺の開帳の時
両国広小路の盛り場で 大評判となった見世物「とんだ霊宝」 
ありがたい仏様は するめやトビウオなど
生臭ものでできています 
後光は干し鱈 台座は吸い物椀
これが大当たりして 滝沢馬琴が書きとめたものです
この他 文政2年(1819)には 駕籠細工の巨大な「関羽像」が 評判を呼びました
高さが 6~7mあったそうですよ
この時の 見世物の入場料は 32文 
これが最高クラスです
興行期間は 50から60日が一般的
宮地芝居は 晴天100日限定でした
ここで 一度 しめますねー つづく・・・
[PR]

by tukitodoraneko | 2011-10-29 14:44 | 江戸文化歴史検定

前日 つめこみ江戸名所

もう明日なんで 力の続く限り 書いていきますから
テキストの勉強の合間に 読んでねー!
f0122653_9314724.jpg← 「江戸名所百景」のここ わかりますか?
千駄木団子坂花屋敷と書いてあります
この花屋敷 あまり文献に出てきませんが
嘉永5年(1852)に団子坂下に住む植木屋・楠田宇平次が「庭開き」を行った新名所です
今の千駄木2丁目辺りで 広さは三千坪!
大変な評判で 「江戸名所図会」を書いた斉藤月芩も 歩いて半日かかるのに ちゃんと見に来ていますよ
坂の上の建物は「紫泉亭」当時珍しい三階建てで 渡り廊下があったそうです
今はあとかたもないですが 大きな池もあり 四季の花で評判でした
明治になってから この中腹に森鴎外が住み「観潮楼」と名前をつけています
当時も ここからは海も見え 絶景だったんでしょうね
f0122653_9473478.jpg次は 本所五つ目(現・江東区大島)にあった五百羅漢
さざゐ堂
本当の名は 黄檗宗・羅漢寺です
「三匝堂(さんそうどう)」とも行ったのは 内部構造が三層で 回り回廊で上っていくようになっていたからです
さざえの貝殻のようなものですね
江戸っ子は さざえを「さざい」となまっていいます
開山は鉄眼という僧で 自ら江戸の町を勧化して歩き
蔵前の商人や あの桂昌院(綱吉の母)からも援助を受けました
「普茶料理」という中国式精進料理で もてなしをしたので やがてこれが名物となり 参詣者も増えたそうです
名所図会 六巻に全体の絵と 羅漢の名が全部書いてありますよ
f0122653_10304770.jpg
← もう一つ 気になっているのがここ
砂村 元八幡です
江東区に 北砂 東砂という地名が今も残っています
これは この辺りの干潟を開拓した砂村新左衛門の名を とったのですね
万治2年(1659)のことです
ここに元からあった八幡さまが「元八幡」ですね
永代島に「富賀岡八幡宮」(=深川の八幡)が新設されてから こちらは「元八幡」と呼ばれるようになりました
なぜ ここを出したかというと あの斉藤月芩が「花見」に何度も訪れているからなんです
神田からわざわざ 二度も来ているので ここは通な人の通う「穴場」だったのかしら?と 思ったのですね
名所百景でも 手前に桜の木が描かれています
それとも この近くにあった料亭で 遊ぶのが目的だったのでしょうか?
なんとなく気になる砂村元八幡 名前だけでも 覚えといてくださいね
一度 ここでアップします ・・・・つづく
[PR]

by tukitodoraneko | 2011-10-29 11:07 | 江戸文化歴史検定

江戸名所 日暮らしの里

でかけていたので 遅くなってしまいました
気になっていたここだけ 書いてしまいましょう
f0122653_17175128.jpg日暮里=日暮らしの里のことですよ
「名所図会」によりますと 昔は「新堀」と書いたそうですが 享保ごろから遊行地として名高くなり 
寛延(1748~)から「日暮里」と字を当てるようになったそうです
「日暮の里 惣図」というのが 七枚続きで載っているので 見ておいてください
ここは 感応寺(天王寺)の裏門の辺りから 西北の道灌山までの広い地域を言います
名所図会の絵は 南から北に向かって描かれているので まず本行寺がでてきます
「月見寺」といわれたお寺ですね
この庭の中には 道灌「斥候(ものみ)塚」という跡があり
儒者の石島筑波の書いた「道灌丘碑文」というのが立っていました
f0122653_1742252.jpgそして北に行くと浄光寺「雪見寺」がありました
諏訪の台という高台にあり 諏訪明神社 人丸堂などがありました
そして次に青雲寺「花見寺」です
ここには 「舟繋ぎの松」と呼ばれる大松がありました
その昔は 二本あったそうですが 一本は安永元年(1772)の秋 大風で倒れてしまったそうです
この松は 昔 豊島川から続く入り江に入る船が 
「目当て」としたためにこう呼ばれています
覚えておいてね
そして 道灌山 一名「城山」ともいいました
大田道灌の出城跡とも 関道観坊(せきのどうかんぼう)という人の住まいだったとも 言われています
この地は 薬草が多く それを採りに来る人が多かったとか
そして もう一つが「虫聴き」ですねー
f0122653_17563892.jpg文月(七月)の末を盛りとして この辺りにあった「虫塚」の辺に 人々は虫の鳴き声を聴きに集まりました
鐘児=まつむし
金琵琶=すずむし
が人気でしたが
莎鶏=はたおり
紡織娘=キリギリス も「あはれなる」声で よかったと書いてありますよ
この字 かけなくてもいいと思いますが どれがどの虫か
覚えておいた方が いいような気がします 「女の勘」?
ではまた 明日!
[PR]

by tukitodoraneko | 2011-10-28 18:06 | 江戸文化歴史検定

江戸名所 その他いろいろ

寒いですね コタツ出しちゃいましたよ 電気は入れてませんが・・・
ふとんかけただけで 結構あったかく感じます 猫が入ってるからかな
さて 江戸には約600の大名屋敷があったとされていますが
その内庭園の遺構が残るのは現在 区内に40ヶ所ほど
単なる痕跡や 邸内社を含めると計70ヶ所が都内で確認されています
それに比べ 建造物はグッと少なく 移設されたものも含め藩邸の遺構は30件程
なかでも江戸初期のものは 宮城県・瑞厳寺周辺の仙台藩邸2件
神奈川県・三渓園に移された淀藩邸の3件のみです
f0122653_11114344.jpg都内に残る「御殿建築」は世田谷の
豪徳寺書院のみです
これはもと佐倉藩の江戸屋敷の一部で 
寺伝によると 明治7,8年頃 移設されたということです
豪徳寺は井伊家のお寺でしたので ここには「赤門」それも藩邸の門に使った「高麗門」があるのですが どのような経緯で移築されたのかは不明です
f0122653_11274228.jpg
「高麗門」というのは2本の本柱を 控柱で支え その上に切妻屋根をつけて 扉を開いた時にも濡れないようにする形式のもので 主に城郭の門に使われたそうです
それがなぜ 井伊家藩邸門に使われたのかは謎だということですよ

f0122653_120387.jpg← こちらは有名な東大赤門正しくは「御守殿門」
加賀前田の殿さま・13代斉泰に 11代将軍・家斉の33子 溶姫が嫁いだ時に造られたものです
溶姫のお母さんは あの「お美代の方」ですね
鼠山感応寺を建てちゃった人です
文政10年(1827)にできたもので 国の重要文化財になっていますよ

f0122653_12105592.jpgこちらもよくご存知でしょう
上野の国立博物館の横に移設されています
元は(因幡)鳥取藩池田家の鍛冶橋上屋敷の表門です
この長屋門は 現存するものの中では 
最も格式の高いもので 両脇にある番所が
唐破風屋根になっています
これも 国指定の重要文化財ですよ
江戸の町には こんなすごい御門が
建ち並んでいたんでしょうねー
f0122653_12315524.jpg次は 今も残る邸内社
赤坂豊川稲荷は 大岡家(西大平藩)そう、 あの大岡越前の赤坂下屋敷にあった邸内社です
元は 赤坂一ツ木にあったもので 明治20年に現在地に移っています
江戸時代には 水天宮・金刀比羅同様
庶民に開放し 参詣を許しました
福徳の神として 人気があったようですよ
f0122653_12495442.jpg
邸内社といったら これも書かないとダメかなー
吉原の南にあった柳川藩立花家の浅草下屋敷にあった太郎稲荷
で囲んだ「立花左近将監」と書いてあるところです 
今は 入谷二丁目に「光月町太郎稲荷」として残っています
ここは 「流行神」として 三回くらいピークがありました
最初は 享和3年(1803)江戸で麻疹が大流行したことがきっかけでした
立花家の若さまもこの麻疹にかかり 重態となるのですが 邸内の太郎稲荷に願掛けしたところ 無事平癒しました
この噂が広まって 太郎稲荷はにわかに大流行
「文恭院殿(家斉)御実記」にも この繁盛ぶりが書かれているくらい
この繁盛は 文化元年にピークを迎えますが
一時収束し 次は天保年間に再燃
そして幕末の慶応3年(1867)政情不安の影響か
また一時 流行っています
こういう邸内社の賽銭や お札の売り上げは
当時 懐具合の悪かった各藩の大きな収入源となりました
ですから どの藩でもこぞって領地からいろんな神さまを勧請したのですね
現在も残る邸内社 あげておきましょう

佐竹稲荷      久保田藩佐竹家 抱屋敷内   現 足立区 梅田
向陵稲荷        〃 新堀村 〃        荒川区 日暮里
佐竹秋葉社       〃    下谷上屋敷     台東区 台東
朝日弁才天     旧下館藩水谷家下谷上屋敷     台東区 竜泉
宗吾堂       宮川藩堀田家浅草諏訪町中屋敷   台東区 寿
竹町金刀比羅宮   旧高松藩生駒家           〃  台東
八幡神社      大洲藩加藤家下谷御徒町下屋敷    〃  〃
銀杏岡八幡     福井藩松平家            〃  浅草橋
津軽稲荷      弘前藩津軽家北本所下屋敷     墨田区 錦糸
大塚住好社     桑名藩(久松)松平家大塚下屋敷  文京区 大塚
水道橋金刀比羅   高松藩松平家小石川下屋敷     文京区 本郷
五十稲荷社     足利藩戸田家小川町上屋敷     千代田区 神田小川町
佐竹稲荷社     久保田藩佐竹家神田上屋敷      〃  内神田
有楽稲荷社     高槻藩永井家数寄屋橋上屋敷     〃  有楽町
秋葉神社      小浜藩酒井家牛込下屋敷      新宿区 矢来町
金丸稲荷      高須藩松平家四谷上屋敷       〃  荒木町
田安鎮護稲荷    田安家・柳生家四谷大木戸下屋敷   〃  四谷
多武峰内藤神社   高遠藩内藤家四谷下屋敷       〃  内藤町
塩竃神社      仙台藩伊達家愛宕下中屋敷     港区  新橋
京極稲荷社     丸亀藩京極家戸越村抱屋敷     品川区 小山

こんなところでしょうか
参考にしてくださいね
[PR]

by tukitodoraneko | 2011-10-27 13:46 | 江戸文化歴史検定

江戸名所 大名屋敷

もう 日にちが迫ってきた!時間がない!
今日からは めちゃくちゃにアップしていきますから 
読んで 調べて なんとか役に立ててください
大名屋敷の細かいところ 一気に行きます
f0122653_1324446.jpg地名にも残る
板橋区加賀
ここは22万坪もあった加賀前田家の下屋敷
石神井川の横にある丘が 
かつての築山です
今は加賀公園になっています
石碑が建っているので
わかりやすいでしょう
f0122653_13112140.jpg新宿御苑は 高遠藩内藤家下屋敷玉川上水を引き入れていたそうで 瀧の石組 石橋などの遺構も残っています
暗渠になっていた水路も 復元されています
高遠藩は あの江島が流されたところですね
f0122653_13164218.jpgこちらは 隅田川対岸
小梅にあった水戸藩小梅下屋敷
維新以降も 水戸徳川邸として使われました
現・墨田公園です
三囲神社の南の所ですね
吾妻橋を渡って すぐの位置でした
藤田東湖が幽閉されたのもここ
最後の藩主 徳川昭武もここで亡くなっています
f0122653_13233487.jpg
こちらは下総・関宿藩久世家の下屋敷
というより それ以前はあの紀文
紀伊国屋文左衛門の「千山亭」跡
維新後は 岩崎財閥が整備
富豪から 富豪の手へと移った庭園なんですねー
でも池・泉水は 江戸時代のものを踏襲しているそうです
現 清澄庭園ですね
巨石・名石があることでも有名ですよ
「都指定名勝」になっています
f0122653_13372768.jpg盛岡藩南部家麻布一本松下・下屋敷は
ご存知有栖川宮の邸宅となり
今は記念公園ですね
谷地であったところに地形を生かし
渓谷風にした庭園でした
やはり有栖川宮時代に作庭されましたが
池泉は旧藩邸時代のものです
麻布の一等地ですから 周りを大使館に
囲まれ ここでお散歩するワンコたちは 
家の子供たちより育ちがよさそうですよ

f0122653_1352210.jpgはい、こちらも一等地 渋谷区松涛です→
和歌山藩徳川家渋谷村下屋敷でした
現在 鍋島松涛公園という名がついていますが
鍋島家がここを買って茶園にしたのは明治以降
「松涛(しょうとう)」は茶釜の沸騰する音にちなんだ地名です
今でも高級住宅街の一角に 池泉が残っていますが それ以前の庭園の存在は 不明だそうです
f0122653_1412308.jpg←ここはごぞんじですね
六本木ヒルズ毛利庭園 長府藩毛利家
麻布日ヶ窪上屋敷跡です
お食事の後で お散歩なさった方も多い
でしょう
庭園は新たに整えられたものですが
赤穂浪士切腹の地として有名です
乃木将軍の生誕地でもあるので
ちょっと覚えといてくださいね
f0122653_1419255.jpg浪士つながりでもう一つ
熊本藩細川家麻布白金村・中屋敷
ここには大石内蔵助切腹地が「都旧跡」として保存されています(現・港区高輪)→
庭園にあったとされる庭石 石垣
細川邸時代からある巨木の「椎の木」が近くに残っています
この巨木は都の「天然記念物」ですよ

まだまだありますが 一回とじましょう
続きも 読んでくださいね
[PR]

by tukitodoraneko | 2011-10-26 14:29 | 江戸文化歴史検定

江戸名所 六地蔵

六阿弥陀の次は 六地蔵 いってみましょう
f0122653_1052332.jpg「名所図会」
品川寺
(ほんせんじ)です
で囲んだのがお地蔵様
大きいですねー
銅製で六尺ある坐像です
2m近いですね
享保のはじめ
深川の「正元」という僧が 
造立しました

これにもちゃんと縁起がありますので 書いときましょう
  正元は12才で故郷を出 師について 16才で得度する
  しかるに24才で 大病をわずらい 生死をさまよう
  父母は深く悲しみ 地蔵尊に祈りければ その夜
  不思議の霊夢有り たちまちに快癒する
  このため 正元 勧化に歩き 天下安全のために
  六地蔵をつくり 街道の入口にこれを置く


一番 品川寺(品川) 東海道口
二番 太宗寺(四谷) 甲州街道口
三番 真性寺(巣鴨) 中仙道口
四番 東禅寺(山谷) 奥州街道口
五番 霊厳寺(深川) 水戸街道口
六番 永代寺(同)

六番は 江戸での居住地だったからですね
これだけは 明治の廃仏毀釈で 壊されてしまいました
お地蔵さまをこわすなんて 野蛮な「文明」ですねー
f0122653_104094.jpgざっとした地図ですが
江戸を取り囲むように
立っていたのがわかりますね
往来の人々の旅の安全も守ってくださっていたんですねー
「江戸砂子」には 
この正元の正体は 
俗名・吉三郎
あの「八百屋お七」の
ために出家した、と書いていますが
「東都歳時記」では 「この説 嘘なり」と一言で却下してます
f0122653_10564864.jpg

残りの5体は 今でも見れます
品川寺のものは いつの時代か「傘」がこわれてしまいました
太宗寺のは この向かいに幼時の漱石が住んでいて
このお地蔵さまに 登って遊んだそうです
では 今日はこの辺で
[PR]

by tukitodoraneko | 2011-10-25 11:00 | 江戸文化歴史検定

江戸名所 六阿弥陀

正月の七福神詣の次は 彼岸の六阿弥陀です
この六阿弥陀詣は 阿弥陀如来がある六つの寺を
太陽の運行どおり 東→南→西へと 一日の間に回るものです
こちらは 後生を願うものなので 年寄りが多かったといいます
f0122653_19414565.jpgこれは「江戸名所図会」
亀戸・常光寺
六番目の寺ですね
ここにも「春秋二度の彼岸中 老若参詣群集せり」と 書いてありますね
そしてこの「六阿弥陀」の由来なのですが 「東都歳時記」には 「当時常識であった」と書いてあります
しかし 江戸の常識は 平成の非常識
とっくに忘れられていますので 書いておきましょう
 四十五代 聖武帝のころ・・といいますから 西暦700年代
 当地に足立郡の名の起こりとなった「足立宰相藤原の正成」という人がいました
 この人が 子がないのを嘆き 熊野権現に祈願して 娘を授かります
 この子が「足立姫」 成長して美しい姫となります
 ここに又 豊島郡の名の起こり「豊島左衛門尉清光」というものがあり
 この姫を所望したのです しかし両親も本人も嫁にやるのを拒み
 あわや戦になりそうなので 姫は泣く泣く嫁ぎました
 しかし 姑にいじめられ 里帰りの日に船の上から 荒川に身を投げてしまいます
 おつきの侍女12人も入水し 十二天社として祀られました
 姫の亡骸だけが不明なので 悲しんだ正成は諸国行脚の旅に出
 熊野で霊夢を得ます「この山に一株の霊樹あり これを汝に授ける
 やがて行基という僧が来たれば 六体の阿弥陀を彫らすべし」
 お告げどおりに光り輝く光明木を得て これに名前を刻み
 海に流すと この霊木は 足立の国に流れ着きました
 やがて 行基がこの地にやってきて仔細を聞き 六阿弥陀を刻み
 六字の名号を一つずつに刻み ご詠歌を添えて 安置しました

この六体のうち 最初に刻んだものを「元木」といい
残った木で 造った七体目は「木あまりの弥陀」といいます
寺と ご詠歌を書いておきましょう
 五番 常楽院 下谷広小路(現在は調布市深大寺)
    陀(た)くさんに 唱えし口の此のしたや 五(いつ)ともなしに開く蓮台
 四番 与楽寺 田畑(田端)
    弥(み)なが今 世で種をまけ田畑四(し)かも 仏の花にみのるうれしさ
 三番 無量寺 西ヶ原
    阿(あ)りがたや あみだの浄土西ヶ原 三界衆生残る者なし
 一番 西福寺 上豊島村 元木
    南の家から 廻り始めのその元木 一世のうちの縁となるらん
 二番 延命寺 下沼田
    無かうへば 御法の舟で越す沼田 二たび元の道に迷わじ
 六番 常光寺 亀戸
    仏体を めぐりしまいし亀井戸や 六しん南無やあみだ仏国

    性翁寺 北宮城村 木あまりの弥陀

巡礼の男女は このご詠歌を節をつけて歌いながら回ったそうですよ
しかしこの一日コース 全部で30kmくらいあるんです
昔の人の健脚ぶり かないませんねー

  六つに出て 六つに帰る六阿弥陀
[PR]

by tukitodoraneko | 2011-10-24 17:08 | 祭と歳事