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江戸城に登城してみよう!

もう一つ 大事なお知らせがあります
江戸検1級会の中でも別格! 
第1期で2名しか合格者がいなかった時の その一人
私たちは「村上御大」と呼んで 尊敬している村上瑛二郎氏が
文京学院大学生涯学習センターで 秋の講座を受け持つこととなりました
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場所は上の通り 南北線「東大前」2番出口からだと 目の前です
本郷にあるんですね  さて 講座の内容は・・・
「江戸を学ぶ・大名ってなんだろう」というもの

落語や時代劇でもお馴染みの大名
しかし、その身分、公務、資産など意外に知られていません
殿様稼業も楽じゃない実態を探って見ませんか
そして2回目は大名になったつもりで江戸登城ツアーを楽しみましょう

●知れば小説やドラマが面白くなる大名の実態
●意外に厳しい大名の格式を知る
●体験、大名は江戸城にどう登城し勤務したか

 10月26日(水) 13:00~14:30   センターにて「大名の話」

 11月 9日(水) 13:00~14:30  大手門集合 「登城してみよう」
                         (雨天の場合は11月16日)

2回で 受講料 5,000円

「文京学院大学」で検索し 「生涯学習センター」の項目です
ネットからも 応募でき 今日から一般受付です
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村上さんは 長年 TBSのディレクターとして 時代劇に関わってきた方
お仕事だっただけに 知識量も膨大ですが 何よりお話がおもしろいです
ガイド経験も豊富で 話し上手な所は プロの噺家なみ
今回の講座も 「高座」でいいんじゃないか・・・と思っています
大名の裏話と 登城ツアー よろしければ ご一緒しませんか?
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by tukitodoraneko | 2011-08-31 12:50 | 江戸のあれこれ

「TOKUGAWA15」出ちゃうぞっ!

今日は とってもうれしいお知らせがあります
江戸検1級会のメンバーが 初出版です!
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著者の堀口茉純(ますみ)さんは 最年少で1級に合格した才女
そのうえ 朝の情報番組で老舗の紹介をしたり
「江戸歩き」のコラムを持ったり 浅草のアミューズ・ミュージアムでは
浮世絵の絵解きや 朗読も聞かせてくれるマルチっぷり
今回は 著書のすべての挿絵も自分で書いています
すごいですねー 第二の杉浦日向子さんになって欲しい!
彼女ならできる!と 信じて応援しています
この本は 9月26日 草思社から出版される「TOKUGAWA15(フィフティーン)」
徳川15代将軍の裏話を イラスト入りで細かに解説
江戸検のみならず 時代劇・時代小説好きの皆さまにも役に立つ本になっています
出版記念のイベントは 9月19日(月・祝日)18:00より
浅草アミューズ・ミュージアム(二天門横)で 完全予約制で行います
どーしても 生ホーリーを見て握手したい方 コメント欄に連絡ください
まだ お席があるかどうか聞いてみます
私たち1級会も 着物やコスプレで駆けつけます
本屋の店頭に並んだら ぜひぜひ お買い上げお願いしますね
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by tukitodoraneko | 2011-08-30 12:26 | 江戸文化歴史検定

五十にて四谷を見たり花の春

大河から 家光の出生問題にはまって だいぶ寄り道しているうちに もうすぐ9月です
あと2ヶ月で 今年の「江戸検定」が行われるのですね
ついこの間 4期の方と会ったばかりなのに もう5期の方ができるのですねー
楽しみなことです ブログ読んでくださっている方の中から
新しい1級仲間ができれば いいなーと思っていますよ
そろそろ ブログも「江戸検」に向けて 名所めぐりにもどらないといけませんね
f0122653_14164248.jpgま、特に名所のことではありませんが 今日は←この人
服部嵐雪のことでも書きましょう
名前は知らなくとも 梅一輪 一輪ごとの暖かさという句は 梅の季節になると必ずといっていいほど聞くでしょう
雪中庵ともいい 蕉門十哲の一人です
この人のお父さんは 淡路の方で武士でしたが
大坂城の落城後 浪人して 江戸・湯島に流れてきます
嵐雪は ここで生まれ「天神の氏子」となりました
若い時は 武士で笠間藩・井上正利に仕えました
この正利 先日の「東照権現祝詞」にでてきた
春日局が すごく悪く言ってたあの井上正就の息子です
実は この息子・正利の結婚をめぐって 豊島氏と春日局が対立し 
顔をつぶされた豊島が正就を殺したんですねー
これも変な事件です
豊島氏が勧めたのは 大坂町奉行・島田氏の娘
春日局は これに対し鳥居成次の娘を勧めて 前の縁談を破談にさせます
このため 豊島氏の刃傷沙汰が起こり 二人とも即死
止めに入った青木忠精まで 豊島の自害の巻き添えで死亡
その上 大坂町奉行・島田氏も責任を感じて切腹・・・
じゃあ鳥居氏は無事だったのかというと この人は忠長の付け家老となって
忠長の赦免に奔走した末 亡くなります
何やら 八方ふさがりの事件ですねー
あ、また寄り道しちゃった
で その息子に仕えた嵐雪なんですが 19才から蕉門に入り
つまり 芭蕉の俳諧の弟子となり 31才で致仕・・・武士勤めはやめ
俳諧の宗匠になります
この人は 一時 日本橋の照り降り町で 宝井其角 小川破笠と三人
一つの布団に足を入れ寝起きしたこともある人で
貧乏でも 酒だけは毎日飲んでいたそうですよ
そんな人が 詠んだのがタイトルの句
下町で生まれ 武士勤めしていた嵐雪は 四谷を見たのも50才過ぎ!
師匠の芭蕉とは えらい違いです
しかし 当時ってそんなものみたいですよ
「江戸っ子の江戸知らず」といわれることもありますが
昔は 万事 町内で用が済んだというのもあります
特に 江戸時代・・・どころか 私のひいおばあちゃん・おばあちゃんなど
明治生まれの女の人のほとんども 町内を出ずに一生終わることもあったんですね
今よりもっと 格差のあった時代 下町の人間は下町で一生を終え
山の手は また下町を知らないまま 一生を終えます
実は わたし自身も下町はさすがに知ってますが
隅田川の向こうに初めて 橋を渡っていったのは つい最近です
浅草までは まだ幼い頃から行きましたが「川向こう」は なかったですねー
たぶん 房総などの海に行く時 通過してはいるんですが
渡った先が目的で 行ったことはありません
私のおばあちゃんたちも おそらく母も同じでしょう
今 新しい娯楽施設ができると わーっとやってくるのは
ほとんどが 地方の方々です
江戸時代も 江戸の観光をするのは やはり同じだったのではないでしょうか
家のおばあちゃんは 東京タワーも「おっかない」と言って 上ってないし・・・
(物干しから見えるから いい!・・・とも)
そんな私が 江戸名所を案内するのもどうかと思いますが
嵐雪の例もありますので ま、ぼちぼち 行って見ましょうね
深川はまだ行ってないですよ 誰か案内してねー
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by tukitodoraneko | 2011-08-29 15:13 | 江戸のあれこれ

東照権現祝詞

「東照権現祝詞」という文書を ご存知でしょうか
日光東照宮の大猷院御霊室の宝庫に伝わり 春日局が書いたものとされ
国の重要文化財に指定されています
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↑ このようなものです
過去 何度か展示されたこともありますので お読みになった方もおられるのでは・・・
この内容を ざっと書いてみましょう
とにかく 神格化した家康の「威徳」に対する感謝の言葉が一杯
権現さまの徳により 江戸城の普請もうまくいき 家光の病気も治り
天下泰平・・・と これは普通でしょうが
家康 生前のことに対しても こんな風にかいています
f0122653_1441581.jpg江さまは 家光さまをお憎みになり 秀忠さまもそれに傾き
お二親に憎まれては 跡目も危うい時 駿府にてこれを
お聞きになり それなら 家光をわが養子として 将軍職を
継がせると仰せられ 江戸よりお呼び寄せになられ 
家光さまもまさに 発たんとする時 崩御なされた 
しかしそのご遺言は 土井利勝に伝えられ
家光さまが 跡目をつがれることになった

また これだけでなく 
家光さまの幼い時には 手ずからお薬を下され
病を癒してくださった
権現さまになられてからも 病の時には家光さまの
夢枕に立たれ 快癒へと導いてくださった

その霊夢は 何度もあったらしく 家光はその度に
絵師を呼んで そのお姿をかかせたようです
← これもその一つで 霊夢の家康像です
これも 東照宮にありますよ
しかし これからが 怖いんですよ
家光さまを悪く言いなす者は 駿河大納言(忠長)さまも
あのようになられ 中の丸(家光・正室)さまも お気の病と
なられ 井上正就は西の丸で豊島信満に殺された
これもすべて 権現様の報い

うわー 何でも権現さまのせいにされちゃ 大変ですねー
この祝詞は 寛永17年8月 社参した春日局が
神前で読んだものと言われています
時に 局は62才
秀忠も忠長も とっくに死に もう何を言っても良かったの?
この2年後には 局自身も亡くなります
この祝詞が本当に 春日局の書いたものなら
江は やはり家光がきらいだったんでしょうね
この「祝詞」 PCで検索すれば 読めますので
興味のある方は 読んでみてくださいね
それともう一つ 家光・春日局と家康の子説の根拠とされた
紅葉山文庫にあったという「松の栄え」という本
これは 今は読めないのでしょうか
センセーショナルなわりに 今までこれを見たと言ってるのは
故 八切止夫氏だけなんで いまいち まゆつば感が・・・・
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by tukitodoraneko | 2011-08-27 14:43 | 江戸のあれこれ

扇一本で買われた子供

f0122653_14415277.jpgコメント欄で「家光は誰の子?」問題が巻き起こっています
今日は 家光と春日局のこと 書いてみましょう
右→は 麟祥院(文京区湯島)にある 春日局坐像です
お墓もここにありますから ご覧になった方も
いらっしゃるでしょう
では これはどうでしょう ↓
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小諸藩牧野家に伝わる「喜内さま・
阿福さま」実は 家光と春日局の木像です
ふだんは 門外不出だそうですよ
この木像は家光が左甚五郎につくらせ
愛妾・お玉・・・後に 5代将軍綱吉を産んだ桂昌院に渡り
そこからまた お玉の異父弟の家系・本庄家の康重に渡ります
この康重が 牧野家に養子に行く時 持ってきて
今に伝わる家宝となっているものです
誰が作らせたにしろ こういうものが伝わっているというのもおもしろいですね
さて もう一つ 今度は「徳川実記」から 家光誕生直後の挿話を・・・
 家光さまが産まれた当時のこと
 秀忠さまには 以前 長男がいらしたが 幼逝なされた
 それで今度の若様こそと 皆が思っている時 だれやらが
 道端に立ち 三番目に通る人に 買い取るまねをさせ
 この人を仮親として育てると 丈夫に育つという俗信を持ち出した

そして本当に 女房5,6人で 生まれて一月足らずの家光を抱き
今の常磐橋のあたりまで 出て行ったというのです
そこで待っていると 三人目に供を連れた武士が通りかかりました
女房は するすると近づいて 「この子 売り申さん」と 言いますと
武士は断りもせず 腰の扇を抜いて 「この扇にて買い申そう」と答えました
子を抱き取ろうとする武士に「おめでたきこと これは若君さまにおはします」
と 話すと 武士は腰の大小を取り 平伏してから わこ様を抱き取りました
この武士は 松平忠輝(家康・六男)の家士・山田長門守正世
それより 城内に導かれ 奥にも通り 様々の賜りものをいただき
一日にして富貴の身分になったと 人々がうらやんだといいます
そりゃあそうですね 後の三代将軍の仮親です
しかし もし家光が 秀忠・江夫婦の実子ではないとしたら
「仮親の仮親」ということになりますねー
私は この話を読んでから 常磐橋を通る度
 へー ここに家光を抱いた女房たちが・・・
と 思い出して 一人 江戸の思い出にひたってしまいます
いろいろ考えると ますますおもしろくなっていく「家光の出生」問題
しばらく はまってしまいそうですよ 
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by tukitodoraneko | 2011-08-26 16:03 | 江戸のあれこれ

お腹の子は誰!?

f0122653_13564944.jpg1級仲間の評判はとっても悪いんですが
今日は 「江の実子」についてちょっと書いてみます
二代将軍秀忠の子供は 2才で死んだ
長男・長丸
お静が1611年に産み 後 保科正之となる幸松
それ以外の2男5女は すべて江の子・・・というのが定説になってきました
しかし近年の研究では 様々な資料から
実際に産んだのは 千・初・忠長の3人だけだろうという説も有力です
まず長女・は 伏見で産まれていますし 当時の記録から見ても確実でしょう
しかし 大河で江戸に下ったとたんに妊娠発覚した第二子
これは子々(ねね)と言って 2年後には加賀前田家に嫁に出される珠姫です
この子は 慶長4年(1599)6月11日に生まれたのですが そうすると日付があわないのです
大河では 江と秀忠は一緒に江戸に下ったことになっていますが
実際は 秀吉の死の翌日 8月19日には 秀忠は逃げるように江戸に出立
江は その年12月まで伏見にいたことが分かっています
どう考えても 離れていた間に妊娠したことになってしまいますね
おそらく この二女は 江以外の女性から産まれたんでしょうね
翌年 慶長5年(1600)5月12日には 三女・ 誕生
この子は 後 結城秀康の長男・忠直に11才で嫁ぎます
そして 同じ年 秀忠の長男・翌年には亡くなる長丸が生まれた計算です
ここまででも 江以外に 秀忠に側室がいたのは確か
年上女房が怖くて・・・という説は くつがえりますねー
そして次に生まれた子は 慶長8年(1603)7月9日 4女・
この年 長女・千の婚儀のため 江は身重の身体で上京し
伏見で 初を産み そのまま姉の初にこの子を託します
「次にそなたの産んだ女の子は私に」と 初が大河で言っていましたが
あれに根拠があるのなら 江の産んだ二番目の実子は
この「初」だったのかもしれません
そして 産後の江はこのまま10月まで京に滞在します
ここで大問題 翌年 慶長9年(1609)7月17日には江戸で家光誕生です
産後三ヶ月で江戸に帰って すぐ妊娠・・・というシチュエーションですねー
無理ではありませんが だとしたらなぜ 家光の誕生日は
江の死後1年間 秘密にされていたんでしょう?
この2年後 忠長が生まれ 翌年は天皇の母となる和子が産まれます
この和子にも 異母説があるのは ご存知でしょう
結局 確かなことは 江の実子と思われる子は すべて江の親戚筋と縁組しているということです
千は 姉の子・秀頼と 初は 二番目の姉のところへ そして忠長の正室は 織田家の娘です
25から35才までに 2男5女の7人の子を 全て一人で産んだと考えるよりは
よっぽど 無理のない考えかもしれません
しかし 男の人は この点 あまり重要視しないんですねー
基本 男性は自分の子なら 誰が産んでも違いがないってことでしょうか
女性にとっては 随分な重要問題なんですがねー
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by tukitodoraneko | 2011-08-23 15:21 | 大河ドラマ

1級合コン!

f0122653_1231737.jpg浅草 弁天山の向かい「吉幸(きっこう)」さんで 土曜日 江戸検定協会の顔合わせがありました
と、いってもそんな堅苦しいものではなく ただ昨年合格した4期の方と 一緒に飲みたいなーというコンセプトのもと 検定協会の方々 ニューオータニのツアー担当の方なども出席してくださり 楽しい会になりました
私は 4期の方に会うの初めてでした
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会場の「吉幸」は 津軽三味線の生演奏も聴けるお店
大正からの民家を改造した 雰囲気のいいお店です
仲見世通りの一本右を真っ直ぐ行けば すぐわかりますよ
さて 初対面の4期の方ですが 合格者15名となっていましたが うち3名は 毎年チャレンジしてる方
本当の意味で 初合格は12名だそうです
しかし さびしいことに その中に女性は一人だけ・・・
1級会は だんだん男性率高くなっていってます
来たれ!酒に強い女性陣!
話し相手が いなくてさびしいぞっ!
(と、いいながら しゃべりっぱなしですが)
私たち2期の代は 合格者41名と 最も豊作の年でしたが
毎回 顔を合わせるのは20名弱
居住地が東京以外など 様々な立場の方がいますので
毎回集まれる方は だんだん少なくなってしまうんですね
3期の方は 独自に月1回 勉強会を開いていますが
4期の方は 出られる方が少ないようですので
これからは 私たち2期と一緒に活動したいという方もいらっしゃいました
うれしいことです^^
それぞれに得意分野はちがうので 楽しいですね
帰りの都営浅草線の中で もう一ついいことがありましたよ
たまたま向かいの席にすわった三人連れの男女の方
なんと四国の四万十川から 鮎を持ってイベントに出ていらしたとのこと
話がたまたま「江戸検定」に及ぶと お友達が昨年1級にチャレンジしたそうです
残念ながら 受からなかったのですが 今までの合格者の中には
80代の女性もいます
70代なんて まだまだ若いので どうぞ何度でもアタックしてくださいね
そして 若い女性の方 (心は若い女性の方も)どちらも大歓迎いたします
昨日だって 20名の内 女性は二人だけ!
今なら 受かったとたんに「姫」になれますよー
みなさんが 大事にしてくれて へべれけ姫でも 途中で捨てられることはありません
来たれ! 新時代の姫たちよ
このままでは 合コンにならないぞー!
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by tukitodoraneko | 2011-08-22 12:39 | 江戸文化歴史検定

第32回「江戸の鬼」

昨日は 浅草で江戸検の集まりがありました
明日 くわしく ご報告しますね
その席で 当ブログ 過分に褒めていただき 調子に乗りましたが
「大河ドラマの江はもうやめたらー?」と 耳に痛いご意見も・・・
なんと言っても 江戸検仲間は 女性率 低いからなー
男性陣 今回の大河 お好みに合わないようです
f0122653_1615561.jpgしかし!今回からは 江も江戸に下るんです!
慶長の頃の江戸の町 どんな風に出てくるか 楽しみじゃないですかー?
それとともに ← こんな人も出てきますよ
大姥局(大母局・岡部局とも)です
ご存知 秀忠の乳母で 当時の江戸城の奥を取り仕切っていた人です
この人は 大御所・家康よりも18才も年上
父・岡部貞綱は 今川氏の家臣 夫・川村重忠は
元・穴山梅雪の臣で 後 今川にも仕えた人
今川氏の人質時代の家康は だからこの大姥局の人柄をよく知っていたのですね
それで 浜松城で秀忠が生まれた時 未亡人になっていた
彼女を 乳母として雇うことになったようです
しかし秀忠が生まれたのは 天正7年(1579)
すでにこの時 局は54才!
「台徳院御実記」などでは 「我が乳にてお育てし・・・」と書いてありますが
50過ぎで お乳が出るのでしょうか? 本当ならすごいですねー
秀忠の実母・西郷局は 秀忠が10才の時に亡くなっていますので
どちらかというと 乳母というより 母代わりの教育係では・・・と 思ってしまいます
この人 唯一の道楽は 月に一度 大量の飯・肴を用意して
六尺・中間・小人などの使用人にふるまうこと
この時には 自ら厨房に入り 飯をお椀に盛ってふるまったとか
ある時 本多正信がこれを見て 「侍女もたくさんいるのだから おまかせになれば」
というと 「この頃 そなたには驕慢の噂があるが 今の言葉はその証し
その方 弥三郎とて 鷹匠たりし時を忘れたるか
大切の大殿の補佐として 天下のご政道にあずかるは 心もとなし!」
と 叱りつけられ 正信は赤面して 逃げ出したということです
しかし 何が原因だったのか この正信の次男・政重
慶長2年(1597) 局の息子・岡部壮八を 切り殺して出奔しています
まさか 父親がののしられた腹いせではないでしょうが
この政重 出奔した後の波乱の人生 今の大河より ずっとドラマチック
大姥局とは 関係ないので 詳しくは書きませんが
あの直江兼続に望まれ 養子となり 末は加賀前田家の家老になるのですねー
この人の生涯書いた小説 ありますかね?
なかったら 誰か書いてくださいねー 読みたいです
さて 局に話を戻しますが この人 死ぬ寸前まで 気丈な人で
病床で 秀忠に 望みを聞かれ 「罪を犯し 流された息子を決して許してくれるな」
と 言うのです 「年老いた姥の情に流され 大法を破ったなどと言われるは
黄泉路のさまたげ」 随分 気の張ったおばあちゃんだったのですね
保科正之を産んだお静は この人の侍女
知り合いの見性院(梅雪の正室)に預けて 育てたのもこの人のおかげです
この方 慶長18年(1613) 88才まで長生しました
法華信者だったようで 池上本門寺の五重塔は この人が慶長13年に寄進したものです
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by tukitodoraneko | 2011-08-21 17:04 | 大河ドラマ

江戸の空にスカイツリー

今日は 雷雨ですが 涼しくてホッとしますねー
昨日 三つ又の浮世絵をさがしているうちに例のアレも見つけました
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f0122653_1321783.jpg歌川国芳の「東都三つ股の図」 
2月ころ 東京新聞に載り TVでも話題になりましたね
対岸は深川方面なんですが 火野見櫓の後ろの
← これは何? という疑問
今建設中の「スカイツリー」にそっくりなこの塔は
一体 何なのでしょうねー
専門家は 「井戸掘りのための櫓だろう」と言っています
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これは北斎の「富嶽三十六景」の浅草ですが 凧の左にあるのが井戸掘りの櫓です
どうでしょう? 似てますけど
同じ物なんでしょうか
三つ又辺りの絵は 昨日も出した通り 結構たくさんあるんですが
この火の見櫓は描いてあっても 後ろのスカイツリーが描かれたものは ありません
f0122653_13191336.jpg唯一 あやしいのが司馬江漢の
「中洲夕涼」の
で囲んだ部分です
これは夜景なので
見にくいですが
なんとなく 後ろにもやもやしたものが 立っていませんか?


f0122653_1331209.jpgアップにしても見にくいですが
何かがあるのはわかります
もっとも 国芳の絵は天保2年(1831)の作
こちらは 天明ですから 時代はちがいます
40年の開きがありますので 何ともいえませんが
何かが「そこにあった」のでしょうねぇ
これで 井戸の跡が特定されたりすれば
やはり 井戸掘り櫓かと 思えますが
深川辺りで 井戸ってあまり聞きませんね
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これは 国芳自身が書いた 井戸掘りの櫓の絵 →
「子供遊 金生水之掘抜」というタイトルです
交差したり 四角に組んだり・・・の形状は
なんとなく 上のスカイツリーに似てますね
国芳は こういう木組みの絵を描くのが好きだったのでしょうか
もしそうなら 三つ又の遠景に 井戸掘りの櫓があったなら
ついつい 張り切って描きこんだのかな・・・と思えます
どちらにしても まさか130年後になって
「江戸の浮世絵にスカイツリー!?」と 騒がれることになるとは
まさか 国芳も 夢にも思わなかったことでしょう
たまたま川崎の収集家の方が 国芳の展示をしようとして
ひさしぶりに箱から出した時に 気がついたといいますが
あまりにタイムリーな 偶然の一致
国芳は もしかしたら 空の上で笑っているかもしれませんね
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by tukitodoraneko | 2011-08-19 14:15 | 江戸のあれこれ

三つ又 中洲の竜宮城

明日から涼しくなるという予報を信じ 35℃の部屋でブログ打ってますよ
せめて 涼しげな話題にしたいので 今日は三つ又 中洲の話にしましょう
f0122653_13102991.jpg切絵図だと新大橋の南
箱崎川(今は埋め立てでなし)の河口付近にあったただの中洲です
この中州によって 水の流れが三つに分かれるので 三ツ俣 三洲などと呼ばれる月の名所でした
「江戸名所記」によると 八月十五日の夜は 大小の舟がここに集い 三味や太鼓で大騒ぎ
この日だけは許される花火まで打ち上げ 「三又の花火」といいました
f0122653_1324932.jpg「名所図会」は新大橋の
上流から見た図
左上の橋は永代橋 
右は箱崎川の流れです
潮が引くと 人の背より高い葦がしげっていたといいます
ここが月の名所だったのは 天和から元禄のころまで
享保からは 花火のせいもあって 両国橋に人気を奪われてしまいます
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上の絵は 明和ごろの歌川豊春の絵 手前が浜町です
右手に見える立派なお屋敷は 御三卿・田安家の下屋敷
舟をつけて 芸者さんが立ってる所が中洲です
しじみ採りを見物しているようですね
しかし この中洲 ほんの一時期ですが 大きく様変わりします
馬込勘解由らが願い出て 明和頃(1771)から埋め立てが始まり
安永元年(1773)には中洲新地ができ 4年には町屋となって富永町と名がつきます
山東京山によると 「名主二名 湯屋も二軒 通りも大小三、四路もある
水茶屋 軒を並べ 四季庵という大廈玉楼の料理屋あり 
夏には 店々の提灯の灯が 水面に映り 竜宮城が浮かび出たかと思う」
f0122653_1484069.jpgそしてこれが「四季庵 酒宴の図」
窪俊満 画 
天明の頃です
鯛のお造りに 芸者と若旦那
まさに陸の竜宮城ですねー
しかし この新地は 
川幅を狭め 上流で洪水があいついだこと
そして寛政の改革で 目をつけられ 元のごとく 土を運び出し ただの中洲に戻ってしまう
f0122653_14171349.jpgのです
栄えたのは ほんの十数年・・・
広重の「名所百景」では また静かな中洲へと
もどっています →
「みつまた わかれの淵」ですね
吉原の火事で 一時 仮り宅がここにあったこともあり 天明を中心に 芝居小屋・見世物も立ち並んだという中洲新地は 
一夜の夢のように消えてしまいました 
明治になってから再埋め立てが始まり 今ではすっかり陸続き
日本橋 中洲町となってしまいました
江戸時代の一時期 ここに潮のあぶくのように
浮かび上がり消えていった竜宮城があったこと
お近くに行った節は 思い出してみてくださいね
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by tukitodoraneko | 2011-08-18 14:30 | 江戸のあれこれ