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大河ドラマ江~姫たちの戦国 第29回「最悪の夫」

f0122653_1528253.jpgさて!ようやく江が 徳川の嫁になります
← 向井くん 小憎らしい17才を好演中
これでやっと慶長の江戸の様子もでてくるかな
楽しみだなー・・・と思ってます
二人の結婚は 秀勝の死から三年の後
文禄4年(1595)9月のこと
現代の感覚からすると 江の6才年上
バツ2の経歴が 有名になっちゃって
秀忠=恐妻家 江=嫉妬深い年上妻 と思われがち
しかし 江のために少し言い訳しときましょう
秀忠だって 実はバツ1です
これは 幕府関係の記録には 出てきませんが
当時 政治の中心だった京の記録には ちゃんと載っています
「多聞院日記」などの寺社の日記 公家の日記などですね
時は 天正18年 秀忠12才で初上洛をした時のこと
秀吉の小田原攻めの直前のことですね
大河にも出てきましたが 秀忠が公然と江に対して「人質です」と答えたあの時です
人質といいながら 秀忠は10日あまりで 浜松に帰ります
なぜかというと この時 秀忠は 秀吉の養女・小姫(織田信雄の娘)と
婚礼を行い その妻となった小姫を人質として 京に残したからですね
相手の小姫は この時わずか6才 
聚楽第で 豪華な祝言を挙げたのですが 
翌年 7月には亡くなってしまいました
このすぐ後には 聚楽第から移ったばかりの鶴松も死に
当時 ここにいたねねも体調を崩したという記録がありますので
この頃 聚楽第では 何らかの伝染性の病気が流行ったのではないか
という見方をする先生がたもいます
とにかく 政略結婚で 同居もせず 幼くして亡くなった為
この小姫のことは 幕府の記録にはほとんど出てきません
それでも 結婚は結婚なので 江ばかりがバツ有りじゃないんですね
そのうえ 江の初婚・佐治一成との結婚は 実際に江が嫁いだか
つまり同居したかどうかは はっきりとした資料がなく
これも 秀忠と小姫みたいに 実体のない結婚だった可能性もあるんですね
まー とは言っても 6才年上・子持ちと 17才の今なら高校生のぼくとの結婚
実際は どうだったのでしょうか?
これからの大河が 楽しみですね
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by tukitodoraneko | 2011-07-31 16:44 | 大河ドラマ | Comments(0)

江戸っ子集まれ 神田明神!

f0122653_1132322.jpgでは江戸っ子の神様
神田明神に行ってみましょうか
江戸時代に比べたら せまくなりましたが それでも境内図を見ると 立派なもんです
中には 資料館もあり 土日祭日は4時まで 開いていて祭の資料などが見られます 
ジオラマもありますよ
今年の祭は 中止になってしまいましたが 江戸時代には
f0122653_1193444.jpg9月15日が 祭礼日
江戸初期には「舟入り」だったそうですよ
← ここ資料館です 大人300円ね
f0122653_11124185.jpg名所百景では 
元旦の絵ですが
今も 眺めがよく 明神下が見渡せます
f0122653_11145554.jpgちゃんと平次親分の碑もたっています
野村胡堂の「銭形平次」は
明神下の親分ですものね
ここには他にもいろんな小社が集まっています
一つずつ見回ると なかなかおもしろいですよ
小舟町の八雲神社 魚河岸の水神社など
魚河岸とのつながりも深い所です
f0122653_12312199.jpg中に籠祖神社というのもありまして
先日の地震で ちょっとダメージがありましたが この裏手を ちょっとのぞいてみてください
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なんと「元万世橋」の遺構がここに!→
これは筋違見附の解体のときの石材でできていて
当初「眼鏡橋」と呼ばれたものですね
明治に解体された後 こんな所にあったなんて!
同行の仲間 落合さんに教えてもらわなければわかりませんでしたよ
ここ わざわざ のぞきに行かなければ どこからも見えません
一緒に立っている巨大な石碑は 乃木将軍の筆だそうです
神田明神に行ったら ぜひ この裏側をのぞいてみてくださいね
しかしなんでまた こんな奥にかくれているのやら・・・
不思議で おもしろい神田明神でした
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by tukitodoraneko | 2011-07-29 12:49 | 江戸あるき | Comments(13)

儒教の教え!

f0122653_19195892.jpg湯島聖堂です
昌平坂学問所とおなじ所にありました
学問好きの将軍5代・綱吉が建てたものです
江戸時代には
今「医科歯科大」になっている所が 学舎でした もっとうーんと広かったのですね
f0122653_19263594.jpg昌平郷というのは孔子の生まれ故郷です
ご存知 儒教の総本山なんですが
日本の寺社に慣れた目には 
なんとも 清々しい感じがしますね
さすが江戸の最高学府!
お近くにいらしたらぜひお立ち寄りください
内部に入るには300円とられますが・・・
正面の「入徳門」は 宝永元年(1704)の
ものが現存しています
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屋根の上には 水を噴き上げる鯱のような魚が・・・
この建物の中には 「宥座の器」というのがありまして
小さなツボが 水盤の上に吊ってあるだけのものですが
孔子が 魯の桓公の廟を訪れた時に 見たのだそうです
この器は 程よく水をいれた時だけ 平衡になるのですね
つまり 何事もあせらず 中庸がよい 謙虚であれ
ということを 教えているのだそうです
私は ザーッと水を入れては ひっくり返すタイプ
のんびりとか 中庸とは程遠い人間です
「こういう人生観 持ってないからなー」
と つぶやいてたら え?じゃどんな人生観なの?
f0122653_19555285.jpgと 仲間の一歩さんに 聞かれました
「無理を通せば 道理が引っ込む?」
周りにいた見ず知らずの方も含め 失笑を買いましたよ
もっとちゃんとした座右の銘 考えとこう・・・
ここにある孔子像は 昭和50年 台北から贈られたもの
高さ4,57m 重さ1,5t で孔子像としては世界最大です
江戸検 受ける方 一度 拝みに来たらいかがでしょう
湯島天神と セットにしたら ご利益倍増まちがいなしです
その時は 「宥座の器」に 水を注いで「中庸の精神」も
養ってくださいね
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by tukitodoraneko | 2011-07-28 20:05 | 江戸あるき | Comments(2)

婦系図と湯島の白梅

6月に1級メンバーで回った「文京区ツアー」
まだ主要な所が何ヶ所も残っていますので アップしときましょう
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f0122653_1615199.jpg湯島天神ですねー
上は 江戸名所図会 左は広重の名所江戸百景です
こんな風に セットで覚えちゃうといいかもですね
江戸時代はとても広くて 高台なので眺望バツグン
眼下に見えるのは 上野・不忍池です
この構図も 多いですね
さえぎるものもなく よく見えたんでしょう
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位置的には
こんな感じ→
が湯島天神
北に不忍池
です



f0122653_17513956.jpg今も大きな鳥居が残っています
「天満宮」の額 見えますね
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湯島天神は 泉鏡花の小説でも有名
「♪ 湯島通れば思い出す お蔦ちからの・・・」という流行歌も生まれました
この湯島天神の境内で お蔦さんが 恋人の
小説家のたまごの主税(ちから)に
「別れろ 切れろは芸者の時に言う言葉 
いっそ死ねと言ってくださいまし」
という 名台詞を言うのですね
この大ヒットで ここには 泉鏡花の「筆塚」が残っています
f0122653_181993.jpg← こんなものもありましたよ
灯篭かと思ったら 鍛冶橋のギボシの部分ですね
ちゃんと橋の名もついています
こんなとこにあったのねー
今はてっぺんが日時計になってます
f0122653_18111643.jpgこれは月下氷人石
むずかしい名前ついてますが まいご石ですね
一石橋や 浅草寺にあったのと同じで 
これに迷子の名前を貼って 尋ね人の
伝言板にしたものです
湯島は 江戸時代から繁華の地
江戸の三富とよばれる富くじが売り出されましたし
毎月25日には 植木市が立って たいそうな人出でした
江戸名所図会には 矢場や芝居小屋なども書いてあります
江戸の頃の随筆を読むと ここにはまた「声色(こわいろ)」の芸人が集まったと言います
いまの形態模写・・・モノマネ芸人ですね
当時はもちろん 歌舞伎役者のマネがほとんどですが
素人の物好きから いいとこの若旦那が 芸人に身を落とすこともあったそうです
今では 合格祈願(菅原道真ですからね)と 縁結びの神になっていますが
江戸時代は 回りに合った遊所の芸者さんたちも訪れた なかなか粋な天満宮でした
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by tukitodoraneko | 2011-07-27 18:28 | 江戸あるき | Comments(2)

殿さまと芸者とシンデレラ

さて 大河には追いついたことだし 休んでいた半月の間に書くはずだったこと
こちらにも 追いつかないとね  頑張ってアップしていきますので 読んでくださいね
f0122653_12144317.jpgさて赤坂の料亭「浅田」さんです
加賀料理のお店です
病気になる直前 こちらで
「氷室祝儀」の会がありまして
1級仲間・・・というより 別格の
お師匠さま・忍び駒さまに
ご招待いただき 参加できました
赤坂の料亭なんて初めてですよ 
f0122653_121955.jpg卓の上には 巨大な氷と ほどよく凍って
みぞれ状態の日本酒がいっぱい・・・
う~ん・・・よきかな!
集まったのは70名ほど
私以外は 皆さま 由緒ありげな方々ばかりで 久々に「平民」意識に悩まされちゃいましたね
話しかけられると「へ、へーっ!」と 平伏したくなるくらい・・・
なんと言っても 江戸から続く前田家の
「氷室お祝い」なんですからねー
f0122653_12295980.jpg左が 前田家18代当主前田利祐さまです
うわー 加賀のお殿さまですねー
世が世なら そばにも寄れないお方ですね
右は 加賀から氷室の氷を献上した方で
日本酒の蔵元の方です
明治の頃には途絶えていたこの「氷室献上」
ここ赤坂の料亭でまた続いていたわけですね
江戸検 受けてよかった!
こんな場違いな所にも ご招待いただけるなんて!
f0122653_12373638.jpgお殿さまも 今ではとても庶民的
こんな下賎なわたくしとも ちゃんとお話して
くださいます
ほーら見て 左は私 顔出しはNGですが・・・→
いやー ご先祖さまが見てたら 喜んだろうなー
加賀百万石のお殿さまと お話できるなんて
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そのうえ この日は 赤坂芸者の方々も
いらして 踊りも見せてくれました
これが 殿方のお好きな芸者遊び!?
芸者さんたちの色っぽいこと あでやかなこと
女でも はまっちゃいますねー
ということで 実に楽しい「氷室祝い」
江戸は やっぱり楽しいですね
一夜 華やかな宴に呼んでいただいて シンデレラ気分の月猫でした
忍び駒さま ご招待 ありがとうございました

(翌日から 風邪で倒れましたが・・・知恵熱でしょうか?)
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by tukitodoraneko | 2011-07-25 12:53 | 東京 | Comments(0)

秀忠との結婚前後

病院通いの合間 江関係の本を 読んでみました
新書で出ている福田千鶴さんの「江の生涯」というものです
江に関しては 資料が少ないと思っていたのですが
同時代のいわゆる「一次資料」というものが ホントにほとんどないと
いうことが わかって とてもためになりました
福田さんは 近世政治史や人文専攻の大学教授
丹念に当時の資料を 渉猟して書かれているので
なかなかおもしろかったですよ
現在 江のイメージというと 秀忠に側室も持たさなかった年上のかかあ天下で 
気の強いイメージですが(実は 私もそう思っていたのですが)
残る資料を分析すると そうでもない・・・というか 秀忠を尻に敷いたということだけは
違うんじゃないかな・・・と 感じました
さて では秀勝の亡くなった後の江の居場所のことから始めましょう
f0122653_1515341.jpg秀次を自刃に追い込んだ後 秀吉は伏見指月に普請中の伏見城を 聚楽第の遺構を使って改築しました
← の位置ですね
これができあがると 茶々と秀頼を大坂城からここへ移しています
これが 文禄3年(1594) 11月のこと
江もたぶん この伏見へ移っていたかと思います
というのも二人が結婚した文禄4年(1595) 9月には
秀忠は 伏見の徳川屋敷に滞在していたからですね 
そして 大規模な婚礼の目撃情報がないことから
江は 大阪からではなく 同じ伏見から 嫁いだと考えられます
この時 江は23才 秀忠は17才f0122653_15431332.jpg
伏見(指月)城の復元図です →
徳川屋敷の位置を見てください
この距離なら資料に残らなかったのもうなづけます
江は 秀勝との間に生まれた完子を 茶々の元に残したまま 嫁ぎました
秀吉にしてみれば 完子は数少ない豊臣の血を引く娘・・・この娘は 慶長9年(1604) 12才で
公家の九条家へ嫁ぎます
ちょっと前までは この娘の婚礼と混同され 
江自身が九条家へ嫁入りした・・・と書いてある
資料もたくさんあります
幕末に編纂された「徳川幕府家譜」にも そう書いているので 割と最近まで この説は堂々と本に載っていました
それぐらい 江に関する資料や興味が低く 
間違いが多かったのでしょう
結婚後も 江は慶長4年(1599)まで 江戸に下ることはなく 秀忠は 江戸と京とを行ったり来たり
いわゆる通い婚や 単身赴任のように 二人は
それほど同居していたわけではありません
長女・千姫が ここ伏見で生まれたのも そういうわけだったからです
当時の結婚って みんなそんなもんだったんですねー
すくなくとも 秀忠との結婚から数年の間は
江は 茶々や完子とは それほど遠くない所で 暮らしていたわけですね
では また 明日
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by tukitodoraneko | 2011-07-24 15:54 | 大河ドラマ | Comments(2)

第28回江~姫たちの戦国「秀忠に嫁げ」

やっと追いついたぞ 大河ドラマ!
明日はもう お気の毒な秀次が切腹のようですね
f0122653_14484375.jpg最初の子・鶴丸の死後 秀吉は 秀次(秀勝の兄で ともの子)に関白職も聚楽第も譲り 内政をまかせました
領地は 近江八幡ですね
そして 家臣の中には あの山内一豊もいました
しかし 思いがけずできたお拾(秀頼)のため 
秀次は 風前の灯となってしまいます
初めは わずか生後2ヶ月のお拾を 秀次の娘と婚約させるなど 穏やかな手段を使っていたのですが
お拾の生まれた2年後の文禄4年(1595)
7月8日 秀次は謀反の罪で高野山に追放され
15日には 自害に追い込まれてしまいました
かわいそうだったのは 秀次の妻子たち
彼らも 亀山城に幽閉され ついには全員
三条河原で 処刑されてしまうのです
実の妹の子供だったのに 随分 残酷な仕打ちです
歳をとったばか者ほど おろかなものはない・・・
というのは 英語圏のことわざですが
秀吉も 晩年に子供に恵まれたため 結局は
その愛に溺れて 一代にして天下を失うことになりました
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↑ これは刑場にひかれていく秀次の家族の様子
「秀次公縁起」といって 京都の瑞泉寺に残っています
8月2日 女中も含め30余名が 三条河原で哀れにも処刑されました
f0122653_1515786.jpg← 最も不運だったのがこの人
最上義光の三女で 山形城で生まれた駒姫(於伊万の前とも)でした
きっと美少女だったのでしょう
11才の時 24才の秀次に見初められ
15才になって お目見えの為 聚楽第に上がった直後に
この事件が起こってしまうのです
実際には 秀次に会う前だったのに この姫君も
処刑されてしまうのですね 
いくら戦国時代とはいえ 自分の甥一家皆殺しとは・・・!
本当に 歳をとったばか者は 手に負えない
その代表のような 秀吉の蛮行でした
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by tukitodoraneko | 2011-07-23 15:29 | 大河ドラマ | Comments(0)

秀勝の死

f0122653_157242.jpg今日でやっと 秀勝の死のあたりまで
追いつくかな?
さて 大河ドラマでは 小和田さん監修なので その説の通り 二人はわずか数ヶ月の結婚生活ということになっていますが もう1説では 
秀勝がおじ・秀吉の養子になった後ほどなくに
結婚・・・となっています
これですと 二人は二年ほどの新婚生活を
おくっていたのかもしれませんね
どちらにしても 鶴丸の死んだ翌年 天正20年(=文禄元年・1592)には 
朝鮮征討にともない 第9陣として 壱岐・対馬に布陣していた秀勝は 
巨済島で 病没してしまいます
この巨済島(コジュド)韓流好きの奥様なら ご存知ですね
「冬のソナタ」にも出てきた風光明媚の地です
秀勝は享年24才でした 未亡人となった江は20才
命日は 9月9日ですが 月末までその訃報は 日本に届いていなかったようです
この知らせと 完子と生まれたのとどちらが先か 資料ではわからないのですが 
秀勝は生前から江の妊娠は手紙で知っていましたので さぞかし心残りだったことでしょう
遺体は 日本に帰り 秀勝の母・ともが嵯峨・亀山に葬り 善正寺を立てました
後に 京都市街・岡崎に移転しますが 墓は今もこの寺にあるそうですよ
秀勝の遺領・遺臣(岐阜集)は 織田秀信(三法師)が受け継ぎ
江は 聚楽第の秀勝の屋敷から 大坂城に戻ったようです
ここに 名護屋でめでたく妊娠した姉の淀が戻ってくるのですね
ちなみに 鶴丸の死後 淀城は「「縁起が悪い」と破却されていましたので
これ以降 茶々は「淀殿」ではなく 大坂城二の丸に住んだことから
「二の丸殿」 「大坂の御方」と 資料には出てきます
そして翌年の夏 8月3日に 茶々はお拾(後の秀頼)を産みます
これから 三年後 江が秀忠と三度目の結婚をするまで
姉妹は 大坂城で 一つ違いの子供を育てながら また一緒に暮らすことになるのですね

よしよし やっとここまで 追いついたぞ
明日は まさかの世継ぎ誕生で あわや・・・の立場に立った秀次と
次の結婚相手 あの小憎らしい秀忠のことでも 書いてみましょう
では また
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by tukitodoraneko | 2011-07-22 16:06 | 大河ドラマ | Comments(0)

朝鮮征討前後

大河ドラマのおっかけ 今日は26回「母になる時」(これも変なタイトル・・・)
主に 鶴丸の死と その直後の朝鮮征討のことが メインです
天正19年(1591) 利休切腹と同じ年の8月 鶴丸はまた病に臥し
とうとう8月5日に 亡くなってしまうのです
当時 秀吉はすでに 朝鮮遠征の準備中
愛児の死を聞くと 6日には もとどりを切って 喪に服しました
しかし わずか20日たらずの8月24日には「唐入り」・・・対明出兵を発表します
このため 甥の秀次に関白職を譲って内政をまかせ 自ら肥前名護屋に向かいます
f0122653_12154362.jpg

↑ 現在の 佐賀県 唐津市にできた名護屋城です
この遠征のために 多くの武将たちにより あっというまに城下町ができたといいますよ
すごいですね もっと簡単な陣屋のようなものと思っていましたが
秀吉の朝鮮征討にかける情熱のほどがわかります
さてこの計画に関しては 4,5年前から すでの秀吉の胸中にあったらしく
対馬領主の宗親子に 出兵の際には 道案内するように命じていました
しかし 長きに渡って 朝鮮と友好的関係を保ってきた宗氏としては迷惑な話
天正15年に 宗氏は家臣を送って 朝鮮に通信使の派遣を要請しますが
これはうやむやのまま 時が経ってしまいます
翌16年 業を煮やして 加藤清正・小西行長を送ろうとした秀吉を
また 宗氏がなだめて 18年 今度は自ら朝鮮に渡って 説得
当時の朝鮮は 明の強い影響下にありましたが 度重なる秀吉の要請で
「ま、とりあえず様子を見てくればいいんじゃないの?」
というスタンスで その年(1590)7月 50人の一行が来日しました
当時 奥州征討中の秀吉は 11月になって聚楽第で面会
この使節団は 普通の外交儀礼の範疇であったのですが
秀吉サイドでは これを「臣従」の使者のように受け止め
対明出兵に際しては 道案内してくれると 考えていました
f0122653_1246758.jpg愛児の死の悲しみを振り切るかのように 出兵宣言した秀吉  翌 文禄元年(1592)4月1日には先陣が 名護屋を出港
小西行長加藤清正の先陣争いは有名ですね
地図の「漢城」と書いてある所が今のソウルです
ここまで 20日足らずで進軍し 6月15日には 平壌(ピョンヤン)も制圧
しかし この辺りから朝鮮の反撃が始まり
朝鮮水軍の猛攻に 補給路を断たれた日本軍は 苦戦するようになります
また 水や気候のちがいから冬に入ると 病人も増え
お江の夫・秀勝も 戦場において不名誉な病死となってしまうのですね
続きはまた 明日・・・・




 
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by tukitodoraneko | 2011-07-21 13:15 | 大河ドラマ | Comments(2)

利休切腹 前後

病気で寝ている間に 大河ドラマの方は 利休が死に 鶴松(お捨)は死に
朝鮮の役が始まり 江は再婚したと思ったら 未亡人で
完(さだ)子が生まれて 子持ちになっておりました
まあ たった三週で なんという展開・・・!
だいぶ元気で 退屈していますので ここらで「追っかけ」 始めましょう
まず 第25回の「愛の嵐」です すごいタイトルですなあ・・・
この回は メインが 利休の死なのに なんで このタイトルなのかしら?
f0122653_13191672.jpg独自の茶道を集大成した人として
利休は 多くの文学の主人公となり
茶道に全く関係ない人にもあまねく知られた人物です
その人がなぜこんなに急に 秀吉の不興を買い 切腹にまで 追い込まれたのか・・・様々な説が かねてから言われていますが これという決定打はないのが不思議です
f0122653_13262494.jpgこの辺の所「絵本太閤記」や「豊鑑」「多聞院日記」などから引いて 書いてみましょう
まず 大徳寺の木像事件がありました →
淀の産んだ鶴松は 生まれつき病気がちだったようですが
天正19年 閏正月三日 淀城で発病します
秀吉は 愛児のために 神社仏閣へ病気平癒の祈祷を行わせ
自らも二月 紫野大徳寺へ 参詣しました
この時 山門の上に鎮座する利休の木像を見て 激怒するのですね
「下郎の身で 高位・高官の者を見下すとは 不遜の極み!」
f0122653_13414983.jpgあやうく 大徳寺も破却の運命でしたが これは前田利家のとりなしで 助かりました
しかし利休の木像は 一条戻り橋のたもとで磔となり 利休は堺の旧宅で謹慎します
そして2月26日 京へ護送され 28日 聚楽屋敷で切腹
享年70才 首は木像と共に一条戻り橋に晒されました
「豊鑑」では 「茶器などの値段は 彼の思いのまま金儲けの強い手段となる おごれる者は今も昔も同じ運命をたどる」と 利休の「驕り」が 秀吉の勘気を買ったと書いています
そしてもう一つ 利休の娘・お吟(ぎん)の問題がありました
彼女は 京の万代屋(もずや)宗安に嫁いでいましたが
未亡人となっていて 小田原征討から帰った秀吉が 宮仕えに出すようにと利休に手紙を出したのですが 利休は「娘の心は 尼同然でございます」と これを断っていました
お吟の場合は 北政所と淀殿との勢力争いの板ばさみともなっていたので 
複雑な事情もあったのでしょう
f0122653_14205299.jpg利休切腹の要因としては主にこの3つが取り沙汰されています
「絵本太閤記」では 後日談として 利休の幽霊の話が載っています
利休の死の数日後 聚楽第で秀吉が 茶を立てようとしていると
一陣の風が吹き込み 灯火がゆらぎ 白衣の上に黒の法衣を着て 黒頭巾をかぶった幻のような男の姿が現れ 目はぎらぎらと輝き 荒い息づかいで 炭火をのぞきこんだというのですね
侍女たちは 驚き怖れ 打ち倒れました
秀吉が 炭をつぎ終わり「頭巾のまま わが炭つぎを見ること無礼なり」と叱ると この妖しい男は 下座へ下がった・・・と
書かれています  ↑ 利休の幽霊だったんですねー
大河では またでしゃばりお江が 秀勝としゃしゃり出たようですが
実際は この時はもう二人は 結婚し岐阜城に住んでいたころです
では 今日はこの辺で・・・・・
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by tukitodoraneko | 2011-07-20 14:33 | 大河ドラマ | Comments(5)