<   2010年 02月 ( 26 )   > この月の画像一覧

山本琢磨事件のおさらい

さて 今夜の「龍馬伝」は安政4年(1857)の山本琢磨の事件です
f0122653_15532388.gifちょっと気の弱そうなハンサムボーイ琢磨くんのことは 1/13のブログですでに書いちゃいましたので 詳しくはそちらを読んでみてください
彼は龍馬の父の実家・山本家の出で 八平の兄・代七の子
だから龍馬とは血の繋がったいとこで 年も同じです
武市とは 妻富子の叔母さんの子にあたるので
半平太自身との血縁はありません 妻のいとこですね
この琢磨くんは 江戸で武市と同じ「桃井道場」の師範代をしてました
それが ある日 酒の上で商人といさかいを起こし
落っことしていった包みの中の金時計二個を 質入してしまったのですね
これが藩に知れたら大変と 龍馬と武市がなんとか肩代わりするのですが
二人が逃がした、というより 武市の手紙によると
後始末してる内に 琢磨が行方知れずになった ということのようです
さっさと 自分で逃げ出したんでしょう
f0122653_16191661.jpgこうして 彼は東北から函館へと 流れて行き 
函館では 剣の腕を生かして 道場などもやっていたようです
そして やがて「函館大神宮」 現・山上大神宮の宮司・沢辺悌之助に見込まれ 娘婿となって
「沢辺」姓に変わりました
↓下の地図で見ていただくと 舟見町というところ
ここに今も 残っていまして すぐ北に「旧ロシア領事館」という字も見えますね
この中に当時は ロシアの正教会があったわけですね
函館は 龍馬との関係も深く 幕末の遺跡がたくさん残る町です
次に 里帰りしたら ゆっくり見て回りたいと思いますよ

[PR]

by tukitodoraneko | 2010-02-28 16:43 | 江戸のあれこれ | Comments(0)

幻の「雷門」

病院の売店の雑誌売場には 「旅」に関する本が結構あります
入院している人たちは 退院したらここへ行こう!と ベッドの上で夢見るからでしょうか
f0122653_15172353.jpgこの本も 売店で見つけました
何と表紙の着物美人は わが1級仲間
ホーリーこと堀口茉純ちゃんですよ
ますみちゃんは 先日もニューオータニのガイドさんとして頑張ってくれました
これは「旅行読売」の増刊の「東京散歩」で
浅草の部分をホーリーが案内しています
せっかくなので この表紙の「雷門」のこと
書いてみましょうね
f0122653_16252682.jpg




広重の「名所江戸百景」の中の 雷門を描いたもの→
安政3年(1856) 大地震の後の7月に出ています
当時は 「雷門」とは言わなかったようで
「江戸名所図会」には「風雷神」とだけ書いてあります
たしか江戸検の最初の2級の試験で 出たんでしたっけ?
雷門の正式名称 「風神雷神門」というの
たぶん せっかちな江戸っ子はそんなこと言わなかったように思えますが・・・
大ちょうちんに書かれた字が今は「雷門」ですが
広重の方は「〇橋」となっています
これは「しん橋」と書いてありました
新橋にあった岡場所や船宿から贈られたものなんですね
f0122653_1646761.jpg上の二枚を見ると 江戸から現在まで「雷門」は健在だったように思えますが 実は 幕末の慶応元年(1865)の年末 火事で焼けたきり 昭和35年まで 再建されなかったのです
← これは明治時代の雷門付近です
レンガ造りの仲見世が見え その奥に今の宝蔵門(仁王門)が かすかに見えます
なんとなく しまりがない感じですね
そして五重塔の位置もまだ向かって右にあります
f0122653_1733722.jpg実は 五重塔もレンガの仲見世といっしょに昭和20年の空襲で燃えてしまったのですね
そして昭和48年 向かって左に 鉄筋コンクリートで再建されました
元の場所には今こんな碑が立っていますよ →
f0122653_17164465.jpgそしてよくさがせば境内のどこかに 
← こんな小さな
目印も・・・
これを見つけて願掛けすると 叶うそうですから 機会があったら探してみてくださいね
今日は江戸時代から 昭和の半ばまでは存在しなかった
幻の「雷門」の話でした
[PR]

by tukitodoraneko | 2010-02-26 17:25 | 江戸のあれこれ | Comments(2)

岩ばあちゃんから辰五郎まで

浅草「新奥山」の 石碑群 とにかく数も多く 種々雑多なんで ざっといってみましょう
f0122653_1182557.jpg一番有名なのは なんといっても「喜劇人の碑」と「映画弁士塚」でしょうか
どちらも浅草六区が 都内一の歓楽街だった
ころの名残ですね
たくさんの映画館と寄席が立ち並び ここからは多くの喜劇人が育ちました
エノケン ロッパの時代は さすがに私もわかりません
柳家金語楼 伴淳 三波伸介ならわかりますね
堺駿二さんは 堺正章さんのお父さんです
f0122653_1125241.jpgアズマックスの父上 東八郎さんの名前もありますよ
「弁士塚」の方は さすがに無声映画の時代を知らないので 「徳川夢声」さんの名前しかわかりません
この「徳川」という苗字は芸名なんですが 昔「赤坂葵館」という有名な映画館があって そこの主任弁士になった時 支配人が 葵→徳川という安易な発想から つけたもの
有名になって後 「徳川はどちらの・・・」と度々質問されて困ったそうです
「映画弁士塚」という題字は 鳩山一郎氏です
f0122653_11344530.jpg以上の二つは浅草にゆかりのある有名な碑ですが ここ「新奥山」で目立つのは 
← この正座ばあちゃんの碑
縁側で日向ぼっこしてる祖母を思い出して
心なごみます 膝に猫がいたらもっといいかな
このおばあちゃんは 「瓜生(うりゅう)岩子」さんといって 日本のナイチンゲールといわれる方ですよ
岩子おばあちゃんは 文政12年(1829)会津(今の福島県)生まれ
いろいろな苦労を重ねながら 戊辰戦争の時は 敵・味方なく負傷者を助け 
荒廃した会津藩の子弟教育に力を入れ 2百人を超す孤児を育てたという方です
女性として初めて「藍綬褒章」という勲章をもらったえらいおばあちゃんなんですね
今の日本には 岩子おばあちゃんに助けられた人の子孫がいっぱいいることでしょう
通りかかったら 「ありがとう 岩子おばあちゃん!」って 言いましょうね 
(恥ずかしいから心の中でね)
f0122653_1151073.jpgそして この「力石」 これはいろんな神社にあるので よくご覧になるでしょう
江戸時代 酒屋や米屋の手代などの間で 酒樽・米俵などを
持ち上げる競技が流行ったんですね
やがて 祭りの時などに石を持ち上げる競技に発展しました
この石は 小さいものですが「百貫=375kg」あるんだそうです
表面に「熊遊」と大きく彫ってあり 「熊治郎 持之(これをもつ)」と共に 「新門辰五郎」の名前があります
これは 記念に 新門辰五郎が立てた碑のようです
f0122653_1212927.jpg新門辰五郎は ご存じですよね 幕末と浅草に縁の深い人
もともと 「伝法院」の西に新しくできた門の御番を仰せつかって その横に住んだので「新門」と呼ばれます
江戸を代表する侠客でもあり 最後の将軍・慶喜公にひじょうに
信頼された人です
娘が一人 慶喜公の側室に上がっていますね
浅草神社の右奥に 「被官稲荷」というのが今もありますが
この鳥居も辰五郎が寄進したもので 名前が残っていますよ

今日はこの辺で・・・
[PR]

by tukitodoraneko | 2010-02-25 12:10 | 江戸のあれこれ | Comments(0)

半七塚と蛙の神様

浅草のあまり行かないスポットめぐり 今日は本堂手前左手f0122653_10533932.jpg
昨日の地図だと ⑥⑦⑧の一角 今では「新奥山」と呼ばれている辺りに行って見ましょう
ここまで来ると参道付近の混雑なんてどこのこと?
なーんとなく のんびりした雰囲気が漂ってます
ここには 浅草に関係深い様々な「碑」が集まっていますよ
f0122653_1142979.jpg私がここに来たきっかけは 野村胡堂の「胡堂百話」を読んだため
←胡堂氏は「銭形平次」の生みの親で
「捕物作家クラブ」の会長をしていた方で
このクラブは 「探偵作家クラブ」に木々高太郎の反対で入れなかった面々が 昭和24年に作ったクラブ
f0122653_1112446.jpgその開会式には 浅草花やしきに「半七塚」を立て 除幕式をして 
当時の総理・吉田茂や広川弘禅からも花輪が来たそうです
私は とにかく「岡本綺堂」氏の大ファン →
これを読んでは その「半七塚」とやら 見ずにおくものか!
と、でかけてみたんですが 見つけるまでが大変でした
思ったよりも小さい上に この一角に移っていたとは・・・!
f0122653_11171721.jpg←はいこれです
地味ですが 
半七にはぴったりかな?
裏側には 胡堂氏の筆で
 「半七は生きている  江戸風物詩のなかに 
 われ等 後輩の心の中に」
と書いてあります
そして その下には 江戸川乱歩はじめ 横溝正史 高木彬光 三田村鳶魚 吉川英治 
海音寺潮五郎など そうそうたるメンバーの名前がざっと百人!・・・・・なんですが 
とっても読みにくいったらありゃしない
怪しい女が いつまでも草むらに座り込んでたら どんな誤解を受けるかわからないので
全部読むのは無理でした
f0122653_11341020.jpgこの碑の前には 綺堂氏お気に入りの「青蛙神
(せいあしん)」の可愛いお姿もありますよ
これは中国の 前足二本 後足一本の蛙の姿の神様です
綺堂の怪異譚「青蛙堂奇談」に出てくるものですね
私は これをマネして 三本足じゃないけど蛙の置物を お庭に置いてます
綺堂先生にあやかって 妖しく怖ーいお話が書けるようになったらいいなー
みなさん 浅草・新奥山の半七塚の前で
蛙と一緒にはいつくばっている女がいたら それ 私ですよー いじめないでねー

 
[PR]

by tukitodoraneko | 2010-02-24 11:46 | 東京 | Comments(0)

縁結びは平内さまへ

先週の土曜日 仲間のガイドする谷中・上野ツアーが無事終わりました
女性二人でガイドした「誰も知らない浅草ツアー」も 好評だったようです
どちらも バスツアーではとても行かないレアな場所を巡ったようですよ
一部は ブログでもう紹介しましたが 残りの部分もおいおい紹介してみましょうね
f0122653_17371642.jpg

f0122653_18422949.jpg実をいうと 今浅草寺の本堂は改装中
すっぽりとカバーがかかっていますが お参りはできます
表面の絵は 川端龍堂の「龍の図」を使って 山本寛斉氏がプロデュースしたものです
これもなかなか素敵じゃないですか?
いつもだと 真っ直ぐ本堂に行っちゃいますが こんな時こそ 左右に目を向けてみてください
f0122653_1855649.jpg浅草寺は 雷門と仲見世と本堂以外にも 
みどころがいっぱい!なのです
たとえば 宝蔵門手前右手の② 「久米平内堂」→
ここは 江戸時代は有名な「縁結び」の神様だったのです
江戸名所図会にも載っているくらい有名で
たぶん寛文(1660年代)から あった像なんですが
この久米平内という人 諸説あってよく出自がわからないのですが 「仁王座禅」というのを修行して 自分の旧悪を悔い 自分が死んだらその像を埋めて たくさんの人に踏みつけてもらい 罪障を消滅したい・・・と願ったのですね
一説では 九州の方の浪人とも 角力とりとも 
車引きだったともいいます
夫婦のお墓は ちゃんとあって 「久米」は奥さんの姓
本人は「兵藤平内」というともいいますよ
f0122653_1994374.jpg← これは「江戸名所図会」五巻に載っている絵
踏みつけて欲しいと言ったわりには ちゃんと飾られていますねー
これが 何故「縁結び」の神様になったかというと
「踏みつけて欲しい」がいつか「文(=手紙)つけて欲しい」 つまり ラブレター書くとうまくいくよ!の神様になっちゃったんですね あら 勘違い!
この「平内さま」のこと 私は岡本綺堂の
「半七捕物帳」で読みました
縁結びなら 観音様より平内さまへ・・・と言われたそうですよ
ここも流行れば「清正の井」のように 五時間待ち!になるかもなので 今のうちです
良縁を求める方 どうぞ平内さまへ!
平内は 神と仏のまぎれもの
        平内が へそのあたりに文をつけ
[PR]

by tukitodoraneko | 2010-02-23 19:50 | 江戸のあれこれ | Comments(0)

第8回「龍馬伝」弥太郎の涙

f0122653_119728.jpgさて第8回の「龍馬伝」です
龍馬の父・八平が亡くなったのと同じ頃 
弥太郎の父も ドラマで見たとおり 喧嘩して
大怪我をします
このため弥太郎は 江戸から走って帰って来ましたね 別に走り通しではなく 船も使ってますよ
弥太郎は嘉永7年(1854)の秋 江戸に出て 
この時は 安政2年(1855)の12月ですから
約1年ばかりの江戸遊学だったんですね
f0122653_11215358.jpg
この後 弥太郎は安芸奉行所に何度も抗議に行きますが 聞き届けられず 奉行所の門に
「官は賄賂をもってなり 獄は愛憎をもってなる」と 墨で大書きして 7ヶ月入牢させられます
その上 家名削除 居村追放にもなっています
しかし この間も牢内で会った商人に 算術や商売の心得を教わり 弥太郎は徐々に企業家としてめざめていくのですね
翌安政3年(1856)の夏 出牢した弥太郎は 
年末には赦免され 家名回復するのですが 村には帰らず 
ここで吉田東洋の「少林塾」へ入ります
f0122653_1138342.jpg一方 龍馬は同じ年の8月から 再度の江戸
遊学のため 土佐を発ちました
また 武市半平太も藩の臨時御用を受け 
同じ月に江戸へ発ちます
この「臨時御用」というのは 形式的なもので 事実上は「剣術修行」
武市は 江戸藩邸から近い京橋
蜊(あさり)河岸の桃井道場「士学館」に入門し 
あっという間に塾頭にまでなってしまいます
龍馬・武市が 江戸で揃ったのはこの一年くらいでしょうか
しかし 大河では「平井収二郎」も同行したようになっていましたが それはどうでしょう 
岡田以蔵は連れて行きましたが 平井に関しては「土佐勤王党」以前の
武市とのつながりはよくわかりません
そもそも平井収二郎は 江戸に出ているのですか?
うーん・・・今回の「龍馬伝」 龍馬と弥太郎が東洋に会いに行くのも丸っきりの「創作」ですが 
平井のこともそうなのかしら
「大河」って やっぱりよくわからないなー・・・
[PR]

by tukitodoraneko | 2010-02-22 12:03 | 幕末 | Comments(12)

坂本家の人々

先日の第七回「龍馬伝」は 龍馬の帰宅から父・八平の死まででした
龍馬の帰国は 嘉永7年(1854)夏 八平の死は翌 安政2年の12月ですから
あの45分間で 1年以上たってしまってたんですねー
f0122653_9412991.jpgその間 江戸ではいろいろ事件がありましたが 
大河ドラマは土佐中心
仕方がないですが 「幕末」の勉強にはならなくて困りますね
このついでに龍馬の家族のことを 少し書いて見ましょう
父・八平は 59才で病死
龍馬は 八平が40前にできた末っ子です
母・幸も 37才の出産ですよ
そして この幸さんは 龍馬12才の時 49才で病死しています
この後 八平さんは 北代(きただい)伊予と再婚 
この伊予さんは 前二人の夫と死別していますが美人だったと言うことですよ
大河では松原千恵子さんがやっていますね
f0122653_1052942.jpg
龍馬は 長兄・権平とは21才離れていました→
この当時は40過ぎですから ほとんど父代わりですね
妻は 千代(ちや)といい川原塚家から 嫁に来ました
大河では 島崎和歌子さんが千代役です 
いつもいるかわいい女の子は権平と千代の娘で 
f0122653_10291763.gif龍馬とは10才違いの姪
← 春猪(はるい)ちゃんです
龍馬が残した手紙などから この姪をとっても可愛がっていたのがわかります
この長男と 龍馬の間に 3人の姉がいたんですね
上から 千鶴 栄 乙女で 
長女・千鶴は 天保頃に高松家に嫁に行っています
後 この高松家の長男・次男が 権平と龍馬の家を継ぎます
春猪ちゃん 一度結婚しますが 子供ができないうちに お婿さんが離籍しているんですね
真中の お栄さんに関しては 生年もわからないですが
一度嫁に行ってから 子供ができないために離縁され 自害しているようです
f0122653_10282065.jpgそして 三人目が坂本の「お仁王さま」乙女姉ちゃんです
龍馬の三つ年上ということですが なんと!身長175cm
体重は 132kgあったそうなんですよ ホントかしら?
とにかくスパルタなお姉ちゃんだったようで
泳げない龍馬を ふんどしに長いひもをつけて
鏡川に放り込み 溺れそうになると釣りのように
引き上げたといいます
この姉ちゃんのおかげで龍馬も身長175cm
体重は 乙女にはかなわないけど80kgまで
立派に成長したんですねー
心が大きく すぐに人の心に入り込むことができたという
龍馬の資質は こういう「坂本家」で育まれたもの
だったのでしょう さて ではまた 今夜の大河ドラマ チェックしましょうね
[PR]

by tukitodoraneko | 2010-02-21 10:43 | 幕末 | Comments(0)

今はスパリゾートハワイアンズ

f0122653_16282920.jpgちょっと前に← この映画TVでやってましたが 
ご覧になりましたか?
常磐炭鉱が閉鎖になる直前に 起死回生の策として
作られた「常磐ハワイアンセンター」誕生の物語です
ここ たぶん私すごく小さい頃に行っています
まだ 本当のハワイになんて誰も行ったことのない頃
みんながあこがれた常夏の国ですねー
今では 「ワイハ」は忙しい芸能人が正月に行くところと
なってしまいましたよ
今日は この「常磐炭鉱」自体ができた頃のことを
書いてみましょう
このあたり一帯を「常磐炭田」といいまして
往時には 130あまりの炭鉱がありました
ここに中央の資本が入り 近代化するのは
明治になってからのことですf0122653_16432840.jpg
安政ごろより あちこちに露出していた石炭層を 採掘する者はいたのですが 中でもこの→片寄(かたより)平蔵という人は 商才がありました
もともと材木商だった平蔵は 江戸と行き来するうち ペリー来航で「石炭を燃やし黒煙をあげて走る黒船」の話を聞いて 石炭の将来性をいち早く見抜いたというわけですね
故郷の海岸の砂に 石炭の粉が混じっているのを手がかりに 夏井川・新川・白水川とさかのぼって 当時は陸奥国
湯長谷(ゆながや)藩内の白水村・弥勒沢の崖に 露出した石炭層を見つけたといいます
f0122653_1795744.jpg彼はすぐに湯長谷藩に採掘許可をもらい 採掘に乗り出します
ちなみに 当時の方法は「狸掘り」といい 石炭を掘ってはザルで担ぎ出す・・・その格好が狸が穴から這い出すようだったのでこう言われます 
「狢(むじな)掘り」ともいいますね
ここから平蔵はトントン拍子に 水戸藩の反射炉の燃料や 幕府の御用達などをつとめ 一挙にのし上がっていきますよ
そして笠間藩の御用商人となると 横浜開港後には 野毛山に「石炭屋」という店を出して 石炭以外の物品の輸出も始めました
笠間藩は 彼を「永代郷士」という士分に取り立て 苗字帯刀を許して厚遇しましたので 
平蔵は馬に乗り 江戸では笠間藩の藩邸を常宿とするほどの権勢ぶり
f0122653_1722439.jpgしかし 好事、魔多しといいますが この片寄平蔵
万延元年(1860)の8月 この笠間藩邸内で 急死してしまうのです
平蔵 48才 石炭層を発見してから5年2ヶ月後の
ことでした
急速な出世と 蓄財が藩内でも 憎まれていたと
言われてます
この屋敷は 日本橋・浜町にあり 今でも屋敷神
「笠間稲荷」がある場所です
きっと お稲荷さまは 平蔵の急死の原因をご存じだったでしょうねえ
「出る釘は打たれる」 幕末のちょっと怖いお話でした
[PR]

by tukitodoraneko | 2010-02-20 17:32 | 幕末 | Comments(0)

ハンバーガー屋の祖先?

さて今日は ちょっと寄り道です
みなさんは「ジョン万次郎」はよく知ってますよね
それほどでも・・・って方は 以前の記事 2008年02月 2/4
「ジョン万次郎 漁師から東大教授へ」と言う記事をどうぞ読んでみてください
この万次郎さんは 漂流してアメリカの捕鯨船に助けられますが
これと反対に アメリカの捕鯨船から 「漂流」をよそおって 日本にやって来たアメリカ人がいたのは 知っていますか?
f0122653_9582740.jpg彼の名は ラナルド・マクドナルド 
アメリカ・オレゴン州生まれです
彼は 父親がスコットランド人 
母親は先住民のチヌーク・インディアンでした
若いときから 日本への興味があり 捕鯨船に乗り込むと 機会をうかがって 日本近海に来た時 船長を説得して 
一人はしけに乗って 海岸をめざしたのです
嘉永元年(1848) 6月2日のこと 彼は24才でした
ペリー来航の5年前ですねぇ
上陸したのは 利尻島 今ここに記念碑が建っています
f0122653_10103248.jpg


野塚展望台というところにありますよ →
彼は 松前で取調べを受け 長崎に送られてしまいます
長崎では お寺の「大悲院」という子院に
「幽閉」されたそうですが
彼の言葉によると 「日本人はとても好意的」で 不自由はなかったということです
f0122653_1022645.jpgどうやら このマクドナルドくんは とっても
人なつこくて 誰にも好かれたようなんです
長崎に約半年いる間に 通辞の森山栄之助
はじめ 多くの日本人に 英語を教えました
これが 後のぺリーやプチャーチンとの交渉に とても役立ったんですよ
長崎 大悲院跡にたつ彼の「顕彰碑」です
たった半年しいなかった彼のために 各地に碑がたっているなんて彼の人柄がしのべますね
結局かれは ここでアメリカ船に引き渡され
帰国しました
f0122653_102823100.jpg1894年 70才まで生きた彼は 生涯 日本と日本人が
大好きでした
彼が 最後に口にした言葉は「SAYONARA」
ワシントン州にある彼の墓にも 同じ言葉が彫ってあります
彼のことがもっと知りたい方 吉村昭さんが「海の祝祭」という本で彼のことを書いています
お墓のことでは 絶対勝てない「ハカマオー」さま
ワシントンのお墓には さすがに行ってないだろう・・・と思って書いてみました
もう一つ 海外で「マクドナルド」と言っても 絶対通じません
ここは カタカナで書くと「マッドゥーナウ」と聞こえるように発音してみてください
はい ご一緒に! 「マッドゥーナウ」
これで 異国に行ってもハンバーガーくらいは食べられますよ
[PR]

by tukitodoraneko | 2010-02-19 10:47 | 幕末 | Comments(5)

その頃 弥太郎は・・・

f0122653_1822170.jpgさて 「汚すぎるだろー」とあちこちから不評を買っている岩崎弥太郎
大河では 河田小龍のところで 武市さんと喧嘩し
龍馬と饅頭屋長次郎が 必死で止めてました
こんな大集合は ドラマでも もうないそうですが 実際にも ありえないことですね
龍馬が小龍を訪ねたころ 弥太郎は 念願の江戸にいました
f0122653_18344018.gifこれは 藩の致道館などで教えていた奥宮(おくみや・またはおくのみや)周二郎 
またの名を慥斎(ぞうさい)→の従者として遊学したのです
この資金は 加尾の紹介ではなく 岩崎家が代々持っていた山林を売って作ったそうです(と、三菱関係の本に書いてあります)
たぶん、汚いよ と文句つけてるのも こちらの方かな
奥宮慥斎は 文化8年生まれですから この時はもう40過ぎ
弥太郎の父親に近い年齢ですね
この慥斎のおかげで 弥太郎は 江戸であこがれの安積艮斎(あさかごんさい)の塾
神田駿河台にあった「見山塾」に入ることができました
翌年 安政5年にはあの未曾有の大災害「安政の大地震」が 江戸を襲うのですが このときも弥太郎は 江戸にいたんですねー 
しかしその年の12月には 父・弥二郎が庄屋と酒の席で喧嘩をして 大怪我をし 
遊学を中止して土佐に帰ることになってしまいます
もう この辺は来週の分に入っちゃいますか、じゃ やめといて
奥宮慥斎に関するトリビアを一つ
この方は 維新後は教部省の役人になり 自宅で「万国公法」の勉強会を開き 
ここには中江兆民などが集まっていました
官舎の隣は 井上馨の住居で また陸奥宗光の父・伊達千広と「座禅の会」を開き 
ここには山岡鉄舟も来ていたとか・・・
その他 海舟や 大久保利通とも知り合いであったようです
明治10年 67才まで健在でした
三番目の息子 健之が「大逆事件」で 幸徳秋水と共に処刑され 
以降名前が出てこなくなっていますが お墓は 今も谷中にあるそうですよ
[PR]

by tukitodoraneko | 2010-02-18 09:11 | 幕末 | Comments(2)