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by tukitodoraneko
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カテゴリ:祭と歳事( 80 )

左義長のこと 

f0122653_1325305.jpg← はい こういうの何て言います?
地方によって 呼び方いろいろあるようですが
左義長か どんど焼きが 一般的かしら
基本は お正月の松飾りなどを 小正月(十五日
前後の三日間)に焼く行事であり 火祭の性格を
持ち 大磯の「さいのかみさん」のように道祖神=
塞の神の祭 
また歳神を送る「送り火」という性格もあるようです
小正月に行う火祭=左義長 という広い意味なんですね
江戸では ご存知の通り 火事が多かったので 
初期の内に禁止され 都内で続く所は 少ない行事でもあります
地方のものも 陰暦から 太陽暦に変わったため 
また成人式とぶつからないようにずらしたりしたところもありますので 近年では必ずしも小正月だけとはかぎりません
近江八幡の信長も躍ったという左義長まつりは 三月に行われますね
さて「左義長」の意味ですが これは江戸からの当て字でして
元は 宮中の行事「打毬」(だきゅう・うちまり)に使うバット=毬杖(ぎじょう)を 
三本焼いた事から 「三毬杖」→「さぎちょう」となったそうです
この「打毬」は ヨーロッパで「ポロ」となったのと同根の 馬に乗ってボールを打ち 
門をくぐらすという正月の競技
それで こわれた毬杖を 清涼殿の東庭で 青竹を組んで焼いたのだそうですよ
陰陽師の仕切りで 舞い踊ったというなかなか優雅な祭り

f0122653_13593178.jpg重要無形文化財の 神奈川県大磯の左義長は 保存会のおかげで 何とか続いています
近江八幡の方は 毎年 干支にちなんだ山車 それも農産物・食物だけで作ったものを
町ごとに出し 競い合うというもの →
昔は 信長に因んで 女装した若衆が 山車を引いたそうですよ
今はどうなのかなー?
ちょっと見てみたいですよねー
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by tukitodoraneko | 2015-01-20 14:03 | 祭と歳事

正月の祭のこと

今年の江戸検・お題は「祭りだ わっしょい!」ですから
当然 このブログも そっちよりになります
お題に合わせて 私個人も お勉強進めて行くというスタンスなんで
苦手な 寺社・宗教関係 なんとか克服していきたいですねー
一級仲間の方々は 当然!と言っていいくらい 皆さん お詳しいので
いろいろ助けて頂きたい!と 思って期待しておりますよ よろしく~^^/
f0122653_17133854.jpg

さて 第一回は やっぱり ↑ これでしょー 「十日戎(えびす)」
毎年 TVのニュースで 爆走する男たち 見ますよねー 
参道を駆け抜けて 一番最初に待ち構える神人に受け止められると 
その年の福男となります
えびすは 恵比須 恵比寿 夷 胡 蛭子 とも表記されます
祭神は 大きく分けて二つ 蛭子(ヒルコ)と 事代主(コトシロヌシ)大神
神戸の西宮神社が ヒルコ系の本社
大阪の今宮神社が コトシロヌシ系の本社です
こんなところから 調べて行くと おもしろいですよ
古事記に出てくるイザナギ・イザナミの最初の子「ヒルコ」は
完全な子ではなく 海に流されてしまいますね
流されたものは いずれどこかに流れ着く・・というのが島国の考え方
これが西宮に流れ着いて 蛭子(えびす)さまと なるわけですねー
流れ寄る神 漂着神 来訪神 「寄り神」とも言われます
海の彼方=とつくに から訪れる神 
昔は 鯨もえびすとよばれ 水死体もえびすと呼ばれました
どちらも 大漁をもたらす吉兆だったのですね
日本書紀では 三番目の子がヒルコで これがえびす三郎殿と呼ばれる元であるとか
調べてみるといろいろ おもしろいので ググってみてね
f0122653_17341589.jpg

もう一つ ↑ 今日TVでやっていた野沢の道祖神祭り
こちらは 松明を持って たたき合うという かなりワイルド系
厄年を迎える男たちが 攻めよせるその他大勢と戦う形で行われるとか
こちらも江戸時代から続く 小正月に行われてきた奇祭です

興味を持って 見てみると たくさんあるんですね
地方の方々 ウチの方ではこんなのあるよ!という情報も お待ちしています
手を取り合って 今年も江戸検に向けて ぼちぼちやっていきましょーねー^^/
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by tukitodoraneko | 2015-01-19 17:44 | 祭と歳事

江戸名所 六阿弥陀

正月の七福神詣の次は 彼岸の六阿弥陀です
この六阿弥陀詣は 阿弥陀如来がある六つの寺を
太陽の運行どおり 東→南→西へと 一日の間に回るものです
こちらは 後生を願うものなので 年寄りが多かったといいます
f0122653_19414565.jpgこれは「江戸名所図会」
亀戸・常光寺
六番目の寺ですね
ここにも「春秋二度の彼岸中 老若参詣群集せり」と 書いてありますね
そしてこの「六阿弥陀」の由来なのですが 「東都歳時記」には 「当時常識であった」と書いてあります
しかし 江戸の常識は 平成の非常識
とっくに忘れられていますので 書いておきましょう
 四十五代 聖武帝のころ・・といいますから 西暦700年代
 当地に足立郡の名の起こりとなった「足立宰相藤原の正成」という人がいました
 この人が 子がないのを嘆き 熊野権現に祈願して 娘を授かります
 この子が「足立姫」 成長して美しい姫となります
 ここに又 豊島郡の名の起こり「豊島左衛門尉清光」というものがあり
 この姫を所望したのです しかし両親も本人も嫁にやるのを拒み
 あわや戦になりそうなので 姫は泣く泣く嫁ぎました
 しかし 姑にいじめられ 里帰りの日に船の上から 荒川に身を投げてしまいます
 おつきの侍女12人も入水し 十二天社として祀られました
 姫の亡骸だけが不明なので 悲しんだ正成は諸国行脚の旅に出
 熊野で霊夢を得ます「この山に一株の霊樹あり これを汝に授ける
 やがて行基という僧が来たれば 六体の阿弥陀を彫らすべし」
 お告げどおりに光り輝く光明木を得て これに名前を刻み
 海に流すと この霊木は 足立の国に流れ着きました
 やがて 行基がこの地にやってきて仔細を聞き 六阿弥陀を刻み
 六字の名号を一つずつに刻み ご詠歌を添えて 安置しました

この六体のうち 最初に刻んだものを「元木」といい
残った木で 造った七体目は「木あまりの弥陀」といいます
寺と ご詠歌を書いておきましょう
 五番 常楽院 下谷広小路(現在は調布市深大寺)
    陀(た)くさんに 唱えし口の此のしたや 五(いつ)ともなしに開く蓮台
 四番 与楽寺 田畑(田端)
    弥(み)なが今 世で種をまけ田畑四(し)かも 仏の花にみのるうれしさ
 三番 無量寺 西ヶ原
    阿(あ)りがたや あみだの浄土西ヶ原 三界衆生残る者なし
 一番 西福寺 上豊島村 元木
    南の家から 廻り始めのその元木 一世のうちの縁となるらん
 二番 延命寺 下沼田
    無かうへば 御法の舟で越す沼田 二たび元の道に迷わじ
 六番 常光寺 亀戸
    仏体を めぐりしまいし亀井戸や 六しん南無やあみだ仏国

    性翁寺 北宮城村 木あまりの弥陀

巡礼の男女は このご詠歌を節をつけて歌いながら回ったそうですよ
しかしこの一日コース 全部で30kmくらいあるんです
昔の人の健脚ぶり かないませんねー

  六つに出て 六つに帰る六阿弥陀
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by tukitodoraneko | 2011-10-24 17:08 | 祭と歳事

狐落としの殿様

さて 前から一度書こうと思っていた「狐憑き」の話 読んでみてください
f0122653_1226259.jpg美人に化けたり 妖怪変化となって人をだましたり
するいたずら者・・・という以外に 「人に憑く」という
悪さをするという狐
狐に憑かれた人は 普段は字が書けなくとも書けるようになったり なんだかえらそうに喋ったりと 
今で言う「多重人格」の態をあらわします
これは 江戸時代にも 儒者から言わせれば「癇症の者の気の病」 ということで片付けられました
しかし 上田秋成はこれに反発 狐憑きはいくらでもある、観念に凝り固まって 事実を認めないのは
認識不足だ!と 怒っています
f0122653_12381978.jpgさて どちらだったんでしょうねー
江戸時代の随筆の中には 狐に憑かれた話が たくさん出てきます
特に有名なのは 江戸以前になりますが 豊臣秀吉の養女で 宇喜多秀家に嫁いだ「豪姫」に狐が取り付いた話 この時 太閤秀吉は 「伏見稲荷」に狐落としの祈祷を命じ もしも落ちない時には 伏見社は破却、日本国中の狐を狩って 一匹たりとも残さない!と豪語したんですね
また 八代将軍吉宗公も お側衆・小笠原石見守の家来に狐が憑いて困っていた時に 
「我が申し付けであるから早々に立ち退け」と 伝えさせると 
たちどころに狐が落ちたという話も残っています
f0122653_12571100.jpgこれは 太閤や将軍の威徳の前には 本物であろうが、なかろうが 
狐は落ちずにいられないって話ですね
また 弘化元年(1844)のことですが 町奉行に裁かれた「狐憑き」というのもあったのです
内藤新宿は 太宗寺門前の商人の妻 38才になる「とり」が 産後の「血の道の病」になったところから 当時のこと いろいろな祈祷や神だのみをしている内に 狐がとりついて わけのわからないことを言い散らすまでになりました
これに 狐使いの行者もからみ 大騒ぎになって 結局はお白洲にまで呼ばれることになりました
裁いたのは 跡部能登守良弼(よしすけ) この人は旗本・跡部家に養子に行きましたが 
老中・水野忠邦の実弟です
これも当時 飛ぶ鳥落とす勢いですから 「畜生 立ち退け!」と大音声で一喝すると 
とりは気絶 どうやら 狐も奉行の一声で 逃げ出したようです
町人も狐も 奉行には勝てないようですね
f0122653_13123427.jpgさて ここにもう一つ おもしろい話が残っています
これは 明治になってから72才の老人が語った 嘉永ごろの話です
当時 「狐憑き」というものが流行り 神田の妻恋稲荷では神主が 狐落としの祈祷に歩いたそうですが 同じ神田の和泉町に「能勢熊之助」という四千八石の旗本があり この家からも「狐落とし」の御札=「能勢の黒札」というのを出していて この御札で撫でると 狐はスッと落ちるといわれたそうなんですよ
f0122653_13201961.jpg← 当時の切絵図にも「藤堂和泉守」の隣にちゃんと載っています
ここの殿様が 狐落としの名人で とにかくここへ担ぎ込めばたいていは治るといわれたそうです
この話の主人公は 若気のあやまちで 家の金を持ち出して吉原にはまり とうとう帰るに帰られず 思いついて「狐憑き」のふりをしたのです
親は心配して飛んでくる 手厚く看護され 加持祈祷もおもしろく ぼやぼやしている内に 
とうとう放蕩息子は 最後の手段「能勢様」に担ぎ込まれてしまったのです
お堂の中で 一つ二つ殴られ ああ、やめときゃよかった・・・と思っていると 立派な侍が出てきて 一目見るや「このご仁は 狐憑きでも 発狂でもない」と 一言で断定!
「それそれ 当人も赤面しておる 神を騙ると罰が当たるぞ けしからん!」と しかられて 
ほうほうの態で逃げ出すはめになりました
こんな風に 「にせ狐憑き」っていうのも 結構いたのかもしれませんねー
たまに 仕事にうんざりしたら 私もこの手を使ってみようかな

  「正一位 稲荷大明神にあるぞ! 酒と稲荷寿司を所望!」

どうかしら?
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by tukitodoraneko | 2010-02-05 13:43 | 祭と歳事

稲荷だらけの江戸の町

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「初午」の話 続きます
上は 豊国の「王子稲荷初午祭りノ図」
京は伏見でしょうが 江戸ではやはり「関八州の稲荷の総元締」 王子稲荷が格別の賑わいです
今でもいくらか残っていますが 王子稲荷の初午は「凧市」が立つので有名でした
この他には 湯島の「妻恋稲荷」も有名 
ここはいまも「神田明神」の裏手に残っていますね
「切絵図」と 同じ位置にちゃんと載っています
ここからは「狐憑き」を避ける守り札を出していました
そして「日比谷稲荷」 これは芝口三丁目にあったもので 今は「日比谷神社」として
新橋三丁目にあるものです
当時は この辺りを俗に日陰町といい 歯痛のものは鯖(さば)を断つと治るという信仰があって
治るとお礼に「鯖」を奉納したので 「日陰町の鯖稲荷」とも呼ばれました
ここの燈篭の細工が有名で 紙一枚で酒樽・水瓶(みずがめ)などを釣って見せ
どういうしかけか わからないようにうまくできていたそうですよ
今では 新橋の飲み屋街の片隅にある「烏森稲荷」も 当時は盛んなもの
切絵図では 幸橋御門の外にあり この門外に仮屋を作って 獅子頭などを渡しました
この三社が 特に祭りが大きかったものですが
この他にも 土地ごとに稲荷は犬の糞ほどありました
上野の「忍岡稲荷」は 別名「穴稲荷」 五條神社の横にありますね
日本橋堀留町にあったのは「杉の森稲荷
小網町には「稲荷堀」とかいて「とうかんぼり稲荷
日本橋室町の「浮世小路」には「福徳稲荷」 同じところに今もあります
武家の信仰が多かったといいますよ
太田南畝が晩年に住んだ神田 聖堂向かいの「太田姫稲荷
南畝が書き残しているものによると 元は山城国一口(いもあらい)村にあったものを
太田道灌が 城内に勧請したものだとか
f0122653_1274315.jpgこの他にも 吉原の中にあった「九郎助稲荷
笠森お仙が出た谷中の 「笠森(瘡守)稲荷」など
数え上げれば きりがありません
この頃までは 狐狸の類が 日常生活の一部のようなものだったでしょう お城の庭にも狸がすんでいましたし 広い武家屋敷の庭も彼らの遊び場
落語「王子の狐」ではないけれど ちょっと郊外に出れば
玉子焼きを盗まれることもあったのでしょう
なんだか 別世界のような おとぎばなしのような 懐かしい
感じがしますねえ・・・
明日は「狐つき」の話です
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by tukitodoraneko | 2010-02-04 12:11 | 祭と歳事

初午と つんぼ稲荷

大河ドラマの方は また週末に始めることにして「江戸歳時記」にもどります
本当は 「節分」がオンタイムなんですが 当ブログでは 江戸時代の年越しにあわせて
12月中に 「節分」の説明は終わってしまいましたので 
実際の江戸時代の二月の行事として 最も盛んだった「初午」のことを書きましょう
f0122653_12265897.jpg二月の最初の午の日はお稲荷さまのお祭でした
もともとは 京都・伏見稲荷にご神体が下りた日 
ということでしたが とにかくこの日は「子供たち」の祭りでした
一月の25日あたりから まず「太鼓売り」がやって
きます
当日は この太鼓をたたき 幟(のぼり)や絵馬を
持って練り歩き
「稲荷講 万年講 十二銅おあげ」などと叫んで 
お金や菓子などをもらい歩くのです
「伊勢屋 稲荷に犬のくそ」というくらい どんな
小さい路地にも稲荷の一つくらいあったものなので 
とにかくこの日は 一日太鼓の音が絶えず 
大変な賑やかさだったとか
そして 武家屋敷 旗本屋敷にもたいてい稲荷の祠があったもので 初午の日には 門を開け放ち 
近所の子供らを入れ 神楽をあげ 甘酒 鮨 団子などで接待します
f0122653_12491035.jpgまた 「初午まつり」といえば 「地口行灯」がつきもの →
「地口」というのは だじゃれ 親父ギャグ的なものですね
「ふとんがふっとんだ」という類の たわいないもの
これを 絵とともに行灯に書いて 吊るすんですね
そして 赤飯や菜めし 焼き豆腐・芋・蒟蒻の田楽
煮しめ 小松菜の辛子あえに新たくわんを添え
メシの上には 梅の花を一、二輪 添えて出すのが
決まりだったそうです
まあ なんと風雅な 季節感のある もてなしでしょう
そして もう一つ この日は「このしろ」という 「こはだ」が大きくなった魚を一対 懸魚として供えることになっていました
f0122653_13184570.jpg普段は「この城」を食うのは縁起が悪いといわれ 
武家は決して 口にしない魚でした
この日ばかりは「子の代」・・・子供が元気に育つ代わりに と お供えするんですね
これもちょっと 親父ギャグ風?

 このしろは 初午きりの台にのり

そして 前の晩から 囃子屋台の上では 住吉踊りや 
道化踊りをして楽しませ 手伝いの者も余興に交じったり 
若殿や姫ばかりか 殿や奥女中の「透見」(すきみ=覗き見)もあったりして 随分大がかりにやったようです
しかし これと反対に 質素なお家柄や 先祖からの「家令」(家の決まりごと)で 全く祭りをしない家もあったそうで 
これを「つんぼ稲荷」といって 奉公人からもひどく嫌われたということですよ
明日も この続きです


 
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by tukitodoraneko | 2010-02-03 13:31 | 祭と歳事

別れのキスは ネギの味

三月の行事 もう一つ書きますよ
上巳(じょうし)=雛祭り 潮干狩り 阿蘭陀人の参府
それと奉公人の「出替わり」というのもこの季節でした
一年奉公の場合 3月4日までが年季のうちで
5日からは 次のところに移るのですね
もちろん「延年」といって もう一年同じところで勤める場合もありましたが
主人の方は 給料を上げたくないし 奉公人はもう少し待遇のいいところを
探したいなどの思惑もあり 一年で出替わることが多かったといいます
旧暦だと3月初めですが 今なら4月に当たります
入学・入社など 新しい生活に入る時期は江戸時代から同じだったのですね
f0122653_16213768.jpgそして 最後の3月4日に必ず食べるものがありました
 ←浅葱(あさつき)生酢といいます
これは お雛様をかたづける前にお供えするもので
どの家でも 決まって作りました
アサリのむき身などと一緒に 味噌だれであえます
わけぎと赤貝のぬた とか今でもたべますよね?
あんなものと思ってください
これを食べると その次の日には その家ともお別れです
これを 「浅葱生酢で たたき出す」なんて言いました
旦那さんや 若旦那に色目をつかったりすると
こういうことになっちゃうんですねー
また使用人同士で 恋をしていても この日でお別れになってしまいます
使われている同士で 所帯を持つというのは
この時代 金銭的に無理だったんですね
こんな 川柳も残っていますよ
 
  涙雨 あさつき臭い口を吸い

せめて お別れのキスくらい 食べる前にしとけばよかったのにね・・・・
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by tukitodoraneko | 2008-03-08 18:29 | 祭と歳事
f0122653_1375396.jpgこの季節の「行事」ではありませんが
「定例」として 阿蘭陀人の江戸参府というのがありました
鎖国体制の中 唯一存在を許されていたオランダ人は 毎年 正月過ぎに長崎のオランダ商館を発ち 雛祭り前後に 江戸の定宿「長崎屋」に着きます
  阿蘭陀も 花に来にけり 馬に鞍   (芭蕉)
ってわけですね
そして独占的に貿易をさせてもらっていることを
将軍に謁見し 貢物と共に御礼申し上げるのです
この御礼参府は慶長19年(1614)から始まったと言われています
本当だとしたら 「大阪の陣」の年 2代秀忠の治世です
そして寛政年間(1789~1801)まで 毎年のことでした
寛政以降は 4年にいっぺんになりますが
それでも 通算166回!オランダ人たちは長崎~江戸間を
往復し続けたわけです
朝鮮通信使の12回 琉球使節の18回に比べても段違いの回数です
江戸の春の光景に 「オランダ人」はもう付き物だったわけですね
そして 本石町三丁目にあった「長崎屋」の前には
上の絵のように 物見高い江戸っ子が 「紅毛人」を一目見ようと 群集しました
オランダ人たちは 京・大阪にも立ち寄り
京からは 東海道を通って 江戸へ参府していましたが
どこでも 黒山の人だかりで ある商館長(カピタン)は
 「まるで私は 珍獣のようだ!」と 嘆いています
幕末以前にも 関東より西の人々は外国人を見慣れていたんですねぇ
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by tukitodoraneko | 2008-03-07 14:21 | 祭と歳事
お雛様の頃 江戸ではもう一つ 流行りの行事がありました
f0122653_10552741.jpg「潮干狩り」ですね
旧暦の3月3日は 大潮に当たり 深川や品川沖には
人々が大挙して押しかけ「潮干狩り」を楽しみました
今の暦だと 4月初めですね
卯の刻といいますから 早朝6時ころ
船に乗って はるか沖までこぎ出して行き
潮が引くと 船から下りて 貝だの小魚だのを取って
大はしゃぎ!
今と違って 人が来る前に撒いておくアサリとはちがい
正真正銘の「天然物」でしたよ
でも どちらかというと女・子供の行楽でした
なにしろ 品川といったら「妓楼」が多い
宿場の飯盛女という名目でしたが 実際は
吉原の「北」に対して 「南」と呼ばれたほど 
有名な遊郭の立ち並ぶ町でした
   品川の客 にんべんのあるとなし
という 有名な川柳 ご存知ですか?
イ(にんべん)のない方は「寺」 お寺さんで
近くの増上寺の坊さんたちが お得意でした
そして「にんべん」のある方は「侍」さむらいで
こちらも 近くの「薩摩屋敷」の勤番侍などが 上得意だったんですね
こんなところでは 貝なんかほじくっているより
浜辺の方が 気になって仕方がない男たち
奥さんや 親へのいいわけに あさりを一握りほど取って
さっさと 浜辺の三階建てに しけこんでしまいます
品川の「妓楼」は 東海道の道側から見ると「二階建て」ですが
海側から見ると 一段低く もう1階分あったので「三階」でした
今でも傾斜地などに見られる造りですね
   三階に 居る「潮干狩り」 母案じ
大潮には 潮が引くのも早いのですが 満ちてくるのもあっという間で
よく 潮干狩りに夢中になっている間に 舟に乗りはぐれる
なんて 事故もあったのです
母親は 貝や平目と遊んでるとばっかり思っていますが
本人は とっくに「三階」で乙姫様と遊んでいる というわけです
親の心 子知らず は 江戸時代からなんですねぇ
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by tukitodoraneko | 2008-03-05 11:46 | 祭と歳事

今日は不気味な雛祭り

今日は 年頃の娘さんのいるお宅では 必死でお雛様しまっていることでしょう
いき遅れちゃいますもんねー 
家もです・・・・・・・(涙)
ま、気を取り直して 雛祭りの話でもしましょうね
もともとは「上巳」といって 3月の初めの巳の日
川で身を清め 厄を落とす風習が中国から伝わった事に始まります
やがて それを「形代(かたしろ)」という人型で済ますようになりました
「流し雛」などのルーツも同じですね
この風習が 江戸に入ると3月3日に固定され
女の子の祭りとして 広まりました
f0122653_1483288.jpgしかし「身代わり」としての「形代」は 
「天児(あまがつ)」「御伽這子(おとぎぼうこ)」などと
呼ばれ 続いていきます
江戸時代の雛祭りを書いた絵を見ると
この気持ち悪い人形も一緒に飾ってあって
初めて見た時は ギョっとしました
もともとは 「呪術的意味合い」があったものだから
ちょっと 気味悪いですよねー
「這子」の方は 這い這いする赤ん坊をかたどったものですが
f0122653_14153061.jpgこれも 結構キモいです
今でも 飛騨高山の民芸品として人気がある「さるぼぼ」の
ルーツはこれだそうですよ
昔は お嫁に行く時 行列の先頭にこの「御伽這子」を飾る
習慣がありました
花嫁の「身代わり」として 厄を祓うためだったんですね
「篤姫」の嫁入り道具の中にも この「御伽這子」は
はっきりと書かれていますよ
f0122653_14223110.jpg幕末までも続いていたんですねー
← これは江戸時代の本に載ってた「御伽這子」の絵
こんなの飾ったら 子供が夢に見て 夜泣きしそうです
現代まで 伝わらなかったわけがわかりますね
メインの内裏雛の方は 最初は「紙雛」や
素朴な「立ち雛」でしたが 年を追うごとにはでになり
大きさも 七、八寸(20センチ代)だったものが
最盛期の享保年間(1700年代=江戸中期)には
一尺五寸(50センチ!)のものまで作られ
幕府が 禁止令を出しています
それはそれで ちょっと怖いですね
今のように「雛壇」に飾るようになったのは
もっと時代が下がってから 庶民の間で狭い座敷に
人形をいっぱい 飾るために工夫されました
大奥では 広さなんてかまったことじゃないので
座敷いっぱいに 飾っていたそうですよ
お雛様も だんだん団地サイズになってきたんですねー
 
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by tukitodoraneko | 2008-03-04 14:37 | 祭と歳事