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by tukitodoraneko
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カテゴリ:祭と歳事( 80 )

小伝馬町→小舟町天王

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さて 南伝馬町 大伝馬町ときて 残る小伝馬町天王のことなんですが
この祭礼に関しては「不詳」であると「東都歳事記」に書いてあります
「守貞漫稿」によると 正徳(1711~)頃 疫病除けで 小舟町に遷座して
そのままになったんだよ・・・と 書いてあります
でも それ以前の祭の記録はないようなので そもそも 小伝馬町では
祭 やってなかったんじゃないでしょうか?
南伝馬町は 慶長18年(1613) 大伝馬町は元和(1615~)頃
結構早いうちに 祭の記録があります
それに対して「小伝馬町から小舟町に移ったのは寛文6年(1666)」と
いう記事も見つけましたが 最初の祭りに関しては 何もなし
不思議ですよねー 小伝馬町って 神田・山王どちらの氏子でもないんですね 
氏子になってるのは 天王だけです
こういうのもあったんだー と 不思議な感じ
かたや両方に参加し またどちらにも参加しないのは 何故?
そして初めて気付いたのですが どちらの氏子でもない町って結構あります
そのうち○○同朋町とか ○○屋敷が 氏子でないのはわかります
どちらも拝領地に住んでる人で 町人ではないからね
その他の 現人形町の一部とか 紺屋町が入っていないのも
歌舞伎役者や藍染め職人が 被差別民だった時からの慣習なんでしょう
じゃあ小伝馬町は? 「囚獄」ができたからなのかしら?
ああ 気になってたまらない! この辺のこと書いてあるものをさがさないと・・・

あら まあ とんだ寄り道・・・!
とりあえず小舟町天王の祭礼については たくさんあります
「この祭礼で 有名なるは二王尊の像を染めだした大幟
「天王おまつり・・・と仮名文字で書きたる幟は 蜀山人の考案
「日本橋魚河岸へ渡御すれば 魚問屋は数千本の団扇をまき散らす
 一名 うちわ天王」 (「絵本江戸風俗往来」より)
「十日未明に明神を出て 氏子百八十ヶ町を巡り巡って 帰るのが十三日か十四日
 その間の里程が丁度十三里あるというので 一に十三里天王」(「東京年中行事」より)

まあとにかく 派手なお祭りだったようです
天保の改革以後は 少し抑え気味
そして明治になると ほとんどの祭りは消えていきます
さしもの小舟町天王も 明治後期には「もう十二年も絶えている」(「東京年中行事」)
と いった状況でした
今は 4年に一回くらい 復活してるのかな?
あ、あともう一つ「こぶねちょう」といいぐせがついてる人もいますので
小舟町=こぶなちょう です
早めに直しましょう ではまた!
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by tukitodoraneko | 2015-07-10 17:35 | 祭と歳事

大伝馬町 南伝馬町

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さて 大伝馬町天王に進みましょう
ご存知の通り 南伝馬町・大伝馬町は 神田・山王両方の祭の氏子でしたね
これも 大事な伝馬役を仰せつかった町の特権でもあり 義務でした
そのうえ 自分たちの天王祭もあり 山王の祭の年の 6月は大変!
まず 天王祭の時は 自分たちの町に仮屋=御旅所を造って
神田明神から 神輿を担ぎ出し ここに遷座します
還御が終わってほっとしたのも束の間 6月15日の山王祭には
↑ 大伝馬町は 上の諫呼鶏の山車 南伝馬町は猿の山車を出します
神田祭の年には 9月に山車を出すので 常に年二回の祭に参加してるんですね
当時の天王祭の様子は「絵本江戸風俗往来」(東洋文庫)に詳しいです
大伝馬町天王祭は「江戸砂子」によると 元和ころに始まったそうです 
亀田鵬斎の筆による「大幟」が有名でした
ここは 場所柄 太物問屋の組合持ちの祭りとなったので
豪華な祭であったようです
しかし だいぶ前から絶えてしまったようです
関東大震災で燃えてから 明神内の八雲神社は再建されましたが
神輿は造られなかったみたいですね
南伝馬町の方は 現在5月の神田祭に千貫神輿を出していますが
あれは 昭和30年代にこしらえた神輿です
明治末には どの天王祭も 絶えたと等しい状態になっていましたから
伝馬役が仰せつかった地主神の祭としては 存続してないってことでしょうか
南伝馬町天王の江戸神社は 明治初期 社名も「須賀神社」に変えています
当時の世相としては 前政権を思わせる「江戸」は 使いづらかったのでしょうね
江戸時代には 唐風の大幟(紅や黄の中国風かな?)や
四方行燈という道幅いっぱいの大きさの武者絵を描いた行燈を
辻の四方に下げ これが「江戸に無類の造り物」と 評判だったとか・・・
大伝馬町と小伝馬・小舟町は 日本橋の北東で 近いですが
南伝馬町は 京橋の北に当たる地域です
「東都歳事記」には 京橋の上で 神輿にお神酒を捧げた とあります
「中橋の天王」と呼ばれるのは すぐ隣に「中橋広小路」があったからでしょう

次回は 小伝馬町(小舟町)天王です

 
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by tukitodoraneko | 2015-07-09 14:37 | 祭と歳事

三伝馬町と祇園三社

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コメント欄で 寺社先生から「目の付けどころがよい よし、よし」と
ちょっとほめられたので 調子にのって書きます
神田明神の摂社 三天王のことですよ
現在は 江戸神社・八雲神社(二社)で 
どれも祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)です
スサノオの表記は 何種類もありますが 素戔嗚尊が日本書紀系
須佐之男命が古事記系の表記となっています
建も速も 神名などにつく強調で 強い 力のある といった感じ

さてこの三社 江戸時代はどうだったのかな?

ご存知のように 江戸時代の史料は中期以降のものが多く
最初の頃の町場の様子は 何とも測りがたいのですね
その中で 江戸神社=一の宮(南伝馬町)に関しては
「南伝馬町名主高野家日記言上之控」という文書があります
(公文書館にあるものですが ネットでも検索すれば一部読めます)
これによりますと 家康が江戸入りした時 後にお城になる辺りには
千代田村 宝田村 祝田村などのいくつかの村落がありました
そのうち宝田村に住んでいた北条氏の家臣・高野新右衛門に
伝馬役が仰せつけられ 彼は南伝馬町の名主も兼ねる事となります
また城内となる土地には 多くの寺社がありましたが
これも城外に移転させられ その内の一社・江戸神社は
神田明神と共に 駿河台から今の地へ移り 摂社となります
この時期に 大伝馬・小伝馬・南伝馬という重要な役を受けた町ができ
少なくとも南伝馬町は 古くからの地主神・江戸神社の氏子となったのでしょう
もちろんそれ以前から高野氏が祀っていたのかもしれません
最初の祭は 慶長18年(1613)6月7日です
10人ほどで神輿をかつぎ 10人は幟りを持ち 獅子頭も出
二代目新右衛門が馬に乗って随身して「登城」
この時 「登城した」とあるのですが この頃の江戸城の外郭が
どの程度 できあがっていたのかわかりませんが
実際は 大手の橋の上まで 総勢30人くらいで行ったようです
この先例があったので 南伝馬町の神輿は その後も
お城の大手門の橋上で 奉幣した・・・と「東都歳事記」にあります

上の絵は 江戸後期のものですから 神輿だけでも大変な人数です
でも 開府直後の江戸の祭って 30人くらいで粛々と催行したんでしょう
う~ん・・・しみじみするなっ!

長くなってしまったので あとの二天王は この次に・・・
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by tukitodoraneko | 2015-07-08 17:26 | 祭と歳事

祇園三社 神田明神内

f0122653_1529338.jpg← 戦国時代の祇園会を見物したのは彼 
ルイス・フロイス
長崎に銅像が立つ宣教師です
彼は 細微に渡る冗漫な「日本史」を書き残した人
もううんざりするほど 細かい記述ですが 信長や秀吉も
実際にその目で見た人の正直な描写は おもしろいです
たいていの図書館にありますから おヒマな時にどうぞ
「秀吉は 六本指だった」という衝撃の事実も書いています
彼によると 戦国期の京都・祇園会も たいそうな人出
当時の三基の神輿は 最初のが「祇園(の神)」
二番目のは 「その神の妾」で 三番目が「正妻」だそうです
どういう聞き方したのか もしくは勝手な推察なのか
確かめるすべはないようなので わかりませんが
彼の目には そう映ったんでしょうね 
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さて 祇園社の三基の神輿といえば お江戸にもありますね
↑ 「江戸名所図会」の「神田明神社」の挿絵 
赤く囲んだ所に「牛頭天王三社」とあります
これ今も 大体同じ場所 本堂に向かって左手に三社 並んでいますね
現「江戸神社」と 二つの「八雲神社」がそれに当たります
江戸時代には 「祇園三社」とも呼ばれていました

一の宮・・・祭神 スサノオノミコト 南伝馬町の天王・中橋の天王 大政所(おおまんどころ)
二の宮・・・   五男三女=八王子 大伝馬町の天王 
三の宮・・・   奇稲田姫     小舟町の天王        本御前(もとごぜん)

本文から まとめると こんな感じです
それぞれに氏子もちがい 旧暦六月中に 別々の日に 神輿が出ました

当時の様子は また次に・・・
 
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by tukitodoraneko | 2015-07-07 16:51 | 祭と歳事

祇園祭 江戸時代

f0122653_16231778.jpg「京都祇園祭礼」 二代広重です
この他にも「祇園祭礼図屏風」という
ものが 京都国立博物館や 
出光コレクションに残っています
出光のものは 慶長ごろのもので 
一番古いかも・・・ということですよ
山鉾や 神輿も詳細に書かれていますので ぜひ検索して見ておいてください 雰囲気がつかめます
この時代は「八坂神社」ではなく 
「感神院 祇園社」の祭礼です
神仏いっしょくたなんでね
別当寺が「感神院」ということです
そして祇園祭は 神輿よりも山鉾の方が メインみたいになっていますが 江戸時代にもちゃんと三基のお神輿 出ているんですよ
現在は 中の座が 素戔嗚尊(すさのをのみこと)西の座が 櫛稲田姫命
(くしいなだひめのみこと)
東の座が八柱御子神(やはしらの
みこがみ)・・・スサノオとクシイナダ
ヒメの間に生まれた八人の子 というわけですね
神仏分離以前は 中の座が 牛頭天王
西の座が その妻・頗梨采女(はりさいにょ)
東の座は 牛頭天王の八王子=八将神 だったということです
近世の国学の隆盛は やがて尊王攘夷ともなり
維新以降は 神仏分離→ 廃仏毀釈と 極端に進みます
この過程で 異国の仏教がらみの牛頭天王は 排斥される傾向があったのでしょう
八人の子供も 元は牛頭天王の子だったのを 主祭神を スサノオに変えたので
それに合わせて「スサノオの子」としたので 神社によっては
その八人の御子神の名前が 違ってたりするのも そのせいかと思います
小柄原(=小塚原)牛頭天王→スサノオ神社
浅草・蔵前牛頭天王→須賀神社 のように 社名からして変わったのもたくさんあります
江戸時代までの社名を ちょっと調べておくのがいいかもしれません

もう一つ 戦国時代 この祇園会を見て その群集の多さに驚き
「この祭りは 祇園という偶像を拝するもの」と書き残した人
誰だかわかりますか? 外国人ですよ

調べたらすぐわかりますが 答えはまた今度
 





 
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by tukitodoraneko | 2015-07-05 19:10 | 祭と歳事

祇園会 天王祭 御霊会

f0122653_15502032.jpgさて 7月に入った!
祇園会の時期ですねー
すでに京都・八坂神社では「吉符入(きっぷいり)」と呼ばれる準備が 一日から始まっています
山鉾の順番を決めるくじで その名などを書いた紙を「切符」と呼び 切→吉と書き換えたものなんでしょうね
こうして 様々な手順を踏んで 前祭宵山から山鉾巡行 神輿巡行 後祭宵山 後祭山鉾 神輿還行と進み 31日の疫神社の夏越祭まで延々一月 いろんな催しが続きます
ご存知の通り 陰暦では6月の祭
高温多湿の日本の夏 どうぞ疫病が流行りませんように・・・と 行われた祭りです
前にも書きましたが 八坂神社は 祇園社・・・牛頭天王を祀った社です
神仏習合でスサノオといっしょになり 明治の神仏分離で 
牛頭天王 フェイドアウトしちゃいましたね
でも元々は「祇園精舎の守護者・牛頭天王」がメインだったのです
今も 各地で行われている「天王祭」
わざわざ「牛頭」をつけないだけで これも同じ趣旨の祭りです
どちらも 平安初期に大流行した「御霊会(ごりょうえ)」の流れをくみますよ
「御霊」というのは イコール怨霊です
貴族文化花開いた平安朝は 怨霊の世紀でもありましたね
皇統を争ったり また藤原氏の邪魔になる皇子やその母を除外するため
冤罪で流刑にしたり 殺したり・・・
この辺りは 血塗られた歴史でもあります
無残にも殺されたこの人たちの怨霊が 災害や疫病を起こすのだ
という考えが 身に覚えがある人々の心に浮かんだんでしょう
有名な「貞観の御霊会」これは 御所の庭・神泉苑で
863年 朝廷が主催して行った祭で 祟道天皇など六座の御霊を 慰めるため
読経だけでなく 歌舞音曲 相撲 騎射 様々な遊技を行い
一般に 公開されました
もちろん おびただしい群衆が集まりましたとも!
「三代実録」によると このような祭りは 畿内から始まり
全国へ 伝播していったもので 毎年5月から8月の夏の間
特に疫病が流行った年には 盛んに行われていて
民間主催のものは 年々派手になっていったようです
貞観の御霊会の2年後には「御霊会にかこつけ 群集して走馬・騎射してはいけない」
という禁令まで出ていますから たぶん大流行したんだと思います

今に続く 祇園会 天王祭については また明日

 
  
 
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by tukitodoraneko | 2015-07-03 17:21 | 祭と歳事

禁門の変と大船鉾

f0122653_130578.jpgあ~ら きれい! もう祇園祭?
と お思いでしょうか 六本木ヒルズなんですね
そして なんと大船鉾(おおふねほこ)!
昨年 150年ぶりに復活したこの鉾が
京都のきれいどころといっしょに
ヒルズでお目見えです
ああ ありがたや ありがたや・・・
そもそも祇園さんの山鉾が出張するのは
大阪万博以来なんだとか・・・
そのうえ この「大船鉾」は あの禁門の変
別名 蛤御門の変で 燃えてしまって
去年やっと 150年ぶりに復活しました
久坂玄瑞が自刃したあの戦争ですね
この時京都はほとんど火の海だったそうです
ちょうど今 大河でやってるところですね

こんな立派な山鉾も 燃えてしまったのですねぇ・・・
これ 全長7.4m 高さは6.35m 重さは12tもあるんだそうです
小さな建売住宅くらいある?
一日がかりで これを組み立て 芸者・舞妓さんたちは
新幹線の貸し切り車両で ヒルズに出張してくれました
そして ♪ 月もおぼろに東山 「祇園小唄」を踊ってくれました
いやあ 眼福 眼福 ^^p
きっと久坂さんも 島原にいた彼女・お辰さんを思い出して
空の上から 見物しているかしら?

祇園祭 来月が本番です 
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by tukitodoraneko | 2015-06-23 13:36 | 祭と歳事

紫陽花と六月病

f0122653_13235123.jpgお久しぶりですぅ・・・う、う、う・・・
たぶん「六月病」な 月猫です
きれーなアジサイ・・・めそめそめそ
ネコ同様 天気で気分が左右されるのは 
本能なんでしょう
梅雨の季節は 日照時間が短く あまつさえ朝日を浴びるのはとても無理
しかし体内時計を整え 一日のリセットをするためには 朝日を浴びるのが一番なんですね
それができない梅雨時には ウツ病の方が どっと増えるんだとか
そうでなくとも 何となくやる気出ない・・・
ぐだぐだしてしまう・・・と お悩みのあなた!
情けない 歳かしら と嘆かなくとも大丈夫
それ「六月病」ですから^^v!

ちょっと待て! 専業主婦のくせに先月も
「五月病」とかぬかして グダグダしておらなんだか!?
と つっこむ家族ふくめ関係者の方々
そういうことは TVでステキな言い訳を教えてくれたエライお医者さんに言ってね
梅雨明けしたら 完治するから それまでは 古い映画見たり 漫画読んだり 
その合間にネコ(と家族)のトイレそうじしたり ネコ(と家族)にえさやったり
最低限のことは するわ!
あとは 私の好きにさせていただく!

ことさら宣言しなくても いつもキミは好きなように生きてるじゃないか
と 指摘する夫含め 関係者の方々 梅雨明けまで 文句は受け付けないから

と いうわけで ↑ 高幡不動尊で ぐだぐだアジサイ見てきました
家からは電車で行ったら15分くらいですね
京王線「高幡不動」は 正しくは 高幡山明王院金剛寺といい 
真言宗 智山派の別格本山です
「別格本山」というのは 本山と同等の扱いを受ける特別な寺格であるよ という意味
古来関東三大不動の一つに挙げられ 江戸時代も信仰あつい所でした
その草創は古文書によれば 大宝年間(701)以前とも 
また奈良時代 行基菩薩の開基とも伝えられますが 
平安時代初期に 慈覚大師円仁が 清和天皇の勅願によって
当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し 不動明王を安置したというのが
確かなところのようです
のち建武2年(1335)8月4日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊したので
時の住僧儀海上人が康永元年(1342)麓に移し建てたのが 現在の不動堂で
関東稀に見る古文化財! と HPにありました
続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されているそうです

ここは 郊外のお寺さんで 高低差がありますのでね
斜面一面に紫陽花が 薄紅から紫 青の濃淡で けぶるように彩られ
とても とてもきれいでした
あじさい祭りは 7月初めまでです
あじさいが 終わるころには私の「六月病」も 終わるかしら?

そのわがままな性格は 一生治らないと思うよ

と 再度指摘する夫 はじめ関係者の方々
そろそろ 「あきらめる」ということを 覚えてみて 

 
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by tukitodoraneko | 2015-06-14 14:23 | 祭と歳事

葵祭り 京都

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三社祭とちょうど同じ時期 京都では 初夏を告げる葵祭が始まります
この祭は 上賀茂神社と下鴨神社の祭礼で 元々は「宮中の儀」「社頭の儀」と「路頭の儀」
の三つで構成されていました
今は 「宮中の儀」はなく 残りの二つだけ
ほとんどの方は「路頭の儀」いわゆる斉王代行列のみ 見物しますね
しかし本来は 神前で祭文を読み上げ 供物や舞を奉納する「社頭の儀」が中心でした
欽明天皇(540~571年)の時代に 疫病が流行り 凶作も重なりました
この災いは 賀茂の神々の祟りであるとの宣託が下り 天皇が勅使を遣わし
祭礼を行ったのが葵祭の起源とされています
古いお祭りですね
「源氏物語」の「車あらそい」覚えてますか?
あれは葵祭りの見物の時の できごとでしたね

葵祭の名の由来は 祭りの当日に 御所内裏の御簾をはじめ 牛車・勅使 
行列の人々の冠や装束 牛馬など全てを 葵の葉で飾ったことによります
これは 上賀茂神社の祭神「別雷神(わけいかずちのかみ)」が生まれた御形山(みあれやま)に
双葉の葵が生じた話からきているといわれています

ちなみに 葵の正式名はフタバアオイといい 水のきれいな所にだけ自生します
山葵(ワサビ)と同じですね
摘み置きができないので 葵祭の4~5日前に 約1万本を一気に摘んで 使用するそうですよ

そして葵といえば 徳川家の家紋「三ツ葉葵ですね」
これは 上賀茂神社の神紋と大変よく似ていたので
家康は 上賀茂神社を 大いに崇敬したそうです

ところで 斎王のことですが 元々は天皇家の内親王などがつとめたものですが 
今は京都ゆかりのお嬢様が 斎王代理として行列します
これに娘を出すには ン千万の費用がかかるらしいですよ~
さすが京都!
歴史と共に 美と財力を兼ね備えた姫たちが まだまだいてはるのね~ 
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by tukitodoraneko | 2015-05-16 18:48 | 祭と歳事

氏子の資格

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神田と並ぶ江戸の祭り 三社祭ですが ここしばらく困ったことになっていました
神田とはちがって 氏子や一般人が 楽しめるものじゃないのですね
試しに 「やくざ祭り」で 検索してみてください 現状がわかります
そもそも 神様がのるから「神輿」(みこし)なんで
見るからに前科のありそうな方々に 乗っていただくものじゃないです
神輿と山車の区別もつかないのでしょうか
あれを見て喜ぶのは 外国人観光客だけ
あんなのを見て「江戸っ子」と思われたら 国辱ですな

こんな現状に対し 2008年には宮出しを中止
暴力団の運営を閉めだそうと頑張ってきましたが
先日 TVのニュースで 「三社祭 宮出し 氏子の手で!」というのご覧になりましたか?
半世紀ぶりに 三基の神輿が 氏子のみで「宮出し」されるそうです
もちろん「入れ墨禁止」です
江戸時代「彫り物」といわれた文化に対しては 偏見も異議もありません
しかし 神の乗り物に 尻向けて乗ったら その時点で 全てにおいてアウトでしょ

生まれ育った土地の神に 感謝をこめて これを祀るのが「祭」です
三社祭が 本来の祭の姿を取り戻す事を祈ってますよ

まあ 宮出しが終わって 町内巡行になったとたんに
やくざ祭に戻る懸念は残りますが 久々に行ってみようかと思っています

一つ提案なのですが 「氏子」というからには 神社のいわれ
ご祭神について 最低限の事を知っているかという事前調査したらいいのに・・・
三社祭なら 三人の名前書けるとか 何年に何した人だとか
わかったら どうぞ神輿かつげるよ・・・というシステムはどう?

あ、そうしたら 江戸検持ってる人ばっかりになっちゃうか
それはそれで 体力的に問題が・・・・
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by tukitodoraneko | 2015-05-15 14:33 | 祭と歳事