かくして
小原鎮実も
吉田の城を開き 田原 御油の敵城も みな攻め落とされ
東三河 岩津 碧海 加茂・・・設楽 渥美の郡はみな御手に帰す
吉田城は
酒井忠次にたまわる
これは当家の御家人に 初めて城主を命じた例である
永禄八年(1565)には 牛窪の牧野 野田の菅沼 西郷 長篠 筑手 田嶺 山家 三方の徒も みな
今川氏真をうとみ 今川方を去って 当家に帰順し 今は三河一国を統治するようになった
そこで
本多重次 高力清長 天野康景の三人に 国務・訴訟裁断の奉行を命じる
高力は 温順 慈愛深く 天野は寛厚 見慮厚し 本多は常に豪放
思いのままに 言いたいことをいうので 思慮があるとも見えないが
国務裁断にのぞめば 万事において果敢明断なので その頃 三河の土俗は
「仏高力 鬼作左(本多作左衛門)とちへんなしの天野三兵」と 歌いはやしたということです
「とちへんなし」というのは どちへんなしとも言い
どっちつかず・・・というほどの意味です
三人三様の力が合わさって 非常にうまく行ったということなんでしょうね
永禄9年(1566)12月29日
家康は三河守となりました
翌 10年 信長の息女が御入輿
信康君との御婚儀が 行われる
11年 正月11日
家康 左京太夫に任じられる
この頃 京都では
三好義継とその陪臣・
松永久秀が 反逆し
足利将軍・義輝卿は亡くなり 都は戦乱の巷となっていました
将軍の弟で 一乗院の門主・覚慶は 織田信長を頼り 信長は京へ討って出ることになりました
このため 当家よりも
松平(藤井)信一を将として 加勢を出しました
この信一は 近江・蓑作の城攻めに 抜群の働きをし 敵味方の耳目を驚かしました
信長も「信一 小男ながら肝に毛の生えたる男かな」と賞され
着ていた道着を脱いで 当座の褒美に与えたということです
さて一方
今川氏真は 日々家人にうとまれ 背く者多く
甲斐の
武田信玄も 甥舅の繋がりにも関わらず 軍を出し
駿河は言うまでもなく 氏真の領する国郡をも奪おうと計りました
氏真は ついに城を捨て 砥城の山家に逃げ 隠れ住んだところ
朝比奈泰能が 自分の遠江・懸川城(現・掛川)に迎え入れ ここで暮らすことになりました →
是より先
信玄は 駿府に攻め入るには 後を心安くしておくべきと考え
まず当家に使いを出し
「大井川を境として 遠州は心のまま 切りおさめ給うべし
そして駿州は わが意にまかさるべし」と 伝えてきたのですね
そういうことなら・・・と
家康も岡崎を出馬

菅沼定盈の計らいで井伊谷の城を攻め取り 同国の士を従えていきました
しかし うまい事言ってきた信玄の家士・
秋山信友も 見付の宿に陣して
当国の者を 武田方に引き入れようと運動していました
これは 約束が違う!と 家康自ら出向くと信友はさっさと信濃の伊那口に 逃げ込んでしまいました
こうして 遠州の士をほとんど取り込み 懸川の城外に向城をつくり
とうとう 氏真を 攻めることとなりました
今日は ここまで!