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カテゴリ:徳川実紀  

  • 東照宮後実紀 長篠の戦
    [ 2012-03-09 14:14 ]
  • 東照宮御実紀 信玄の死と秀康誕生
    [ 2012-03-08 11:42 ]
  • 東照宮御実紀 三方が原の戦
    [ 2012-02-17 12:39 ]
  • 東照宮御実紀 姉川の戦い
    [ 2012-02-15 11:17 ]
  • 東照宮御実紀 朝倉攻め
    [ 2012-02-11 12:35 ]
  • 東照宮御実紀 信玄の悪口
    [ 2012-02-10 11:10 ]
  • 東照宮御実紀 掛川城へ
    [ 2012-02-09 12:03 ]
  • 東照宮御実紀 一宮の後詰
    [ 2012-02-08 13:32 ]
  • 東照宮御実紀 家康となる
    [ 2012-02-03 11:17 ]
  • 東照宮御実紀 岡崎帰還
    [ 2012-02-02 12:21 ]

東照宮後実紀 長篠の戦  

2012年 03月 09日
今日はちょっと長くなりますが 読んでくださいね
武田信玄は亡くなりましたが その子四郎勝頼は 
← 父に勝る血気の勇者
去年 長篠の城を攻め取られたのがくやしく 
高天神の城を攻め立ててきました
君(家康)は これを救わんと 信長に援軍を頼みます
勝頼は 「駿河の鸚鵡栖に一万貫の土地を与える」と
だまして城主小笠原長善(氏信とも)を降参させ
なおも浜松をねらっていました
そして この年9月 2万余の軍勢で 天竜川までやって
きますが こちらも浜松から出陣して 備えたので 
勝頼は何か謀(はかりごと)があるとみて 
引き返していきました

天正3年(1574)2月 鷹狩りの途中 姿形いやしからず 只者ならざる面差しの小童と出会う
父は 遠州・井伊谷の城主(肥後守)直親といい 今川の旗本でしたが 氏真が 奸臣の言を
信じたため 非業の死をとげていました
その子は 三州を漂泊して 松下源太郎の子として育てられていました
君は 直に召して あつく育ませる 
これが後の井伊直政→(矢先神社天井絵)
功臣の第一となりしものなり

そのころ長篠の城は奥平九八郎がたまわり 
守っていました
勝頼は 当家の御家人大賀弥四郎と密かに結び 岡崎をのっとろうと計りますが 
これは発覚して大賀は 誅せられます
これに怒った勝頼は 2万余騎で 長篠城を取り囲みますが
九八郎は よく防ぎ 落とされません
織田・徳川の連合軍7万2千も出陣し 5月18日 君は高松に
信長は 極楽寺山に 着陣しました
20日の夜 酒井忠次が 鳶の巣山の武田軍を襲います
さみだれ強く降り 夜にまぎれ 広瀬川を渡り辺りに火をかけ焼きたてると
長篠からも 兵が出て 武田軍はちりぢりとなりました
信玄の弟信実も討たれ 敵のとりで 祖父山 君が伏床 久間山も 攻め落とされました
織田方は 今日こそ武田を切りきり舞させんと 堀をうがち
塁を築き 橋を二重三重に掛け渡し 老練の輩に 鉄砲数千挺をもたせ備えていました
当家の 大久保忠世・忠佐兄弟は 「これは当家の戦い 駆け遅れては当方の恥辱」
と 柵の外に出て 構えていました
武田方の山県昌景 小幡貞政 小山田信茂 典厨信豊 馬場信房その他 真田 土屋 穴山 一條 らの名のある輩 入れ替わり立ち代り柵を破らんと押し寄せました
しかし織田・徳川ともに 鉄砲を打ちたて 人が塚をなすほどに撃ち殺せば
さしもの甲州勢も 散々に破られ 山県 内藤 土屋 真田 望月 小山田 小幡など
死にもの狂いに戦って 討ち死にしました
馬場は 長篠の橋ぎわに 手勢20騎ばかり集めて 
落ちていく勝頼の 大文字の小旗が見えなくなるまで見送ってから 
取って返して 一足も引かず討ち死にす

この時 高坂弾正昌信(また虎綱)は 海津の城を守っていましたが
勝頼が血気に盛って大敗するのを察し 途中まで手勢を出し
迎え守りて 甲州まで送り返しました
これより 武田の武威は 落ちてゆきます
この日 両家で討ち取った首は 1万3千余級 その内7千は 当家で討ち取る
味方の戦死は 60人
岡崎三郎君(信康)この陣中にいて 父君とともに諸軍を指揮する様を見て
勝頼は大いに驚き 帰国後 家人に「三河には 信康とて小冠者のしゃれもの出来たり
指揮進退の鋭さ 成長の後 思いやられる」と 舌をふるいしとぞ

また奥平九八郎は 六町にも足らぬ掻揚(かきあげ)にこもり
数万の大軍に囲まれながら 一度の不覚もなく 後詰めを待ち得て
勝利したので「古今稀なる大功なり」と信長から一字をもらい
これより信昌とあらためました
家康からは 大般若長光の刀と 三千貫の所領をもらいました
また 信昌の妻は 以前 武田の人質となり 勝頼が磔(はりつけ)にかけていたので
家康の第一の姫君亀姫を 信昌の妻とし 家康の婿となりました
信長は 「これより自分は濃州に残った武田の城を攻め取るので
君は 駿遠を平定するように」と約束を交わし 帰陣しました
家康は 岐阜で 信長の援軍に謝し 信長も様々な饗応をし
また 軍功のあった御家人への慰労も行われました

   これを長篠の戦とて 大戦の三とするなり

by tukitodoraneko | 2012-03-09 14:14 | 徳川実紀 | Trackback | Comments(2)

東照宮御実紀 信玄の死と秀康誕生  

2012年 03月 08日
さて だいぶ間が空いてしまいましたが「徳川実紀」読み進めましょう
三方ヶ原の戦が終わったところまででした
この戦の後 武田方の侍大将・馬場信房は信玄に「今この日の本に 越後の上杉殿と徳川殿
ほどの弓取りはなし この度の戦に討たれた三河武者は最後まで戦わぬものは一人も無し 
敵に向かうはうつぶし 浜松の方に倒れたものは 皆あおむけに倒れて死んでいる
一年前 駿河を襲った時 遠江の国は全て徳川殿に差し上げ
縁を結んでおいて 先駆けにつかったならば 今ごろ中国・九州までも
逆らうものはなく やがて60余州は大方 従えられたものを・・・」
と 言ったと書いてあります
勝ち戦の後 信玄が城を囲もうとしなかったのも こういうわけだと 言いたかったのでしょう

元亀3年(1572)とうとう天正に改元しました
この年正月 信玄は 三河の野田城に押し寄せ ついに菅沼定盈は 生け捕られ 
山家・三方の人質と交換されました
この城攻めの時 信玄は鉄砲傷を受け 
4月12日 信濃 波合で死去
家康はこれを聞いて「今の世に 信玄ほどに弓矢を使うものは無し われ若年より 信玄の如く 
弓矢を取りたしと思う 敵ながら 信玄の死はうれしくもなし 惜しむべきことなり」
と 言いました 
御家人たちも これに習って 
皆で信玄の死を惜しんだということですよ
左は 矢先神社の天井絵です →

この弥生(3月) 信康君 甲冑始めの儀 
松平重吉 これを着せ
初陣の出馬は 田嶺のうち 武節の城を攻め 落城させてご帰還
そして酒井忠次 平岩親吉を大将に 遠江口 矢方 三河 可久輪 
鳳来寺 六笠 一宮 等の城を攻め落とす
信玄亡き後 六ヶ所の城を 一時に攻め抜き 世にも謳歌した・・・
信玄が死ぬと ここぞとばかりに勢力圏を広げていったのですね

天正2年 正月5日 家康 正五位下となる
      2月8日 次郎君 生まれ給う 後の越前中納言秀康卿 
    ← これなり

はい では 今日はここまで 

by tukitodoraneko | 2012-03-08 11:42 | 徳川実紀 | Trackback | Comments(6)

東照宮御実紀 三方が原の戦  

2012年 02月 17日
さて姉川の戦が終わったところまででしたね
この後も 朝倉・浅井に組した佐々木承禎入道が 近江・野州郡に討って出ると聞き
信長からまた援軍を頼まれ 本多康重 松井忠次に二千の兵をつけて出しています
さて この頃 越後の←上杉謙信が頭角を現してきました
軍略・兵法は「孫呉」に似た「きこえ高い古強者」
孫呉というのは「三国志」の呉の孫氏のことですね
はじめは 今川氏真の縁で 音信を通わすようになったのです
当時 街道一の弓取りと名の高き徳川殿と よしみを通じること 謙信が身の喜び これに過ぎるはなけれ
と 左近忠次まで書状を送り 喜んだとか
それ以来ずっと よい関係が続いていたのですね
この年また 長男・三郎君は13才になり元服
織田信長から一字をもらい 二郎三郎信康を名乗ることになりました
あけて元亀2年(1571)金井・大井川の辺りの巡視を行う
時に信玄は 謙信との交流を聞いて これは早めに徳川を叩いておこう
と例の策謀を働かせ 「天竜川を領国の境」と決めていたのを
大井川に出たところ「同盟をやぶるのか」と 因縁をつけてきたのです
家康はこれを聞いて「こちらは大井川をへだて 手を出すつもりはない
信玄こそ 秋山・山県などを使って こちらの領分を侵しながら
今また 難癖つけるとは なんてこったい!」と 怒り これで友好関係は終わり
信玄は いよいよ姦謀をほしいままにして しばしば三河 遠江に軍を出し
城々を 攻め討ちはじめました
そしてついに神無月(10月)山県昌景の5千騎を先手として
入道自ら4万5千の大軍を率いて 遠江に討ち入り
多々良・飯田などの城を落として 浜松めがけて押し寄せてきました
 信玄は 腹黒にて 策謀姦智の振舞い多しといえど 兵衛軍法においては
 よくその節制を得て 謙信と並んで 当時その右に出るもの無し
 当家は 上下こころを一にして力を合わせること 子の父に仕えるごとし
 (中略)されど 衆寡敵せずのならひなれ・・・

↑ この部分は 全部「いいわけ」ですねー
とにかく 12月22日 三方が原の戦いでは
徳川方は 利を失い 名ある者ども 多く討たれる  ことになってしまいました
夏目次郎左衛門吉信は命に代えて 家康を逃がしました
この夏目は 永禄の頃 あの一向門徒に組し 敵となって捕らえられ
松平伊忠の「この者は 必ず後に御用に立つべき者なり」という言葉に
助けられ その後もねんごろに召しつかわれていたので
 この日 御恩に報いんと 君(家康)が敵中に引き返すのを見て
 手に持った槍の柄で 馬の尻を叩きたて 浜松の方へ押し向け
 その身は 敵中に向かい 討ち死にせしとぞ

このおかげで やっと浜松城に逃げ帰った家康は 
城門は閉めず 城の内外に大篝(かがり)を炊かせ
奥に入って 湯漬けを三杯かきこむと 大いびきで寝てしまったそうです
さすがに「実記」ですので ちびりながら逃げたことや
直後に自分の姿を絵師に描かせた→なんて話は 
NGですねー
代わりに 鳥居 植村 天野 渡辺ら御家人が
場外に討ち出し 敵を追い払ったこと
その夜 大久保忠世らが 間道から敵の陣所へ忍び入り
穴山梅雪の陣に鉄砲を打ちかけ その手下の人馬が
犀が磯(犀ヶ崖の下)に落ち 多くが死んだこと
そして 信玄の言葉として 勝っても 恐るべきは浜松の敵なりというのが 載ってます
ま、べろ負けして 逃げ帰ったとは 書けなかったんでしょうね

 これ三方が原の戦とて 大戦の二なり

by tukitodoraneko | 2012-02-17 12:39 | 徳川実紀 | Trackback | Comments(7)

東照宮御実紀 姉川の戦い  

2012年 02月 15日
さて 越前から 逃げ帰った信長は こうなっては後顧の憂いを絶つべしと
まず裏切った妹婿・浅井長政を 討つことにしました
家康も 加勢して自ら三千余騎を率いて 出陣
5月 21日 近江の横山城へ おさえの勢を残し 小谷の城下に放火しました
そして 浅井方の援軍も 朝倉孫三郎景紀を将として 1万5千が着陣

6月 28日 姉川にて戦となりました (↑「姉川合戦図屏風」福井博物館蔵)
はじめ 信長は朝倉と対し 家康軍は 浅井に向かうということになっていましたが
暁にいたり 越前勢の大軍を見ると 信長はあっさり 浅井方に方向転換
家康の家人たちは 「只今にいたり ご陣替えとは・・・」と心配しましたが
家康ただ織田殿の命のまま 大軍にむかわんこそ 勇士の本意なれ
1万5千の越前勢に 立ち向かっていきました
そして 織田軍は 浅井8千の兵と戦闘へ
味方の先鋒 酒井忠次らは「えい声」を上げて 
打ち掛かり 北国に名の高い 真柄十郎左衛門などの勇士も数多 討ち死
← 真柄の大太刀「次郎丸」は 5尺3寸=175cm
あったそうですよ
浅井方は 磯野丹波守秀昌を先手として
織田の先陣 11段まで切り込みました
これもすごいですね
浅井長政も 馬廻りを励ましてかかり
信長軍は 浮き足立ちました
家康は はるかにこの様子を見て取り
 織田殿の旗色 乱れて見ゆるなり 旗本より備えをくずしてかかれ!
と下知 これを聞くと 本多忠勝はじめ ものも言わず 馬上に槍を引っさげて
浅井が大軍の中に おめいてかかる・・・
おお かっこいいですね
さすがの浅井軍も 徳川に横を討たれ 防ぎかねて乱れ始めます
織田方は この間に立て直して 討ち返し 浅井軍は敗走
小谷城に 逃げ入りました
後に「信長の勝利も 徳川殿の武威によるものなり」と
感書(戦での戦功を証明する書状)にそえて 長光の刀はじめ
様々な重器が 家康に贈られました

これ 姉川の戦いとて 御一代 大戦の(第)一なり

by tukitodoraneko | 2012-02-15 11:17 | 徳川実紀 | Trackback | Comments(2)

東照宮御実紀 朝倉攻め  

2012年 02月 11日
家康は 今川の旧好を思い 氏真が愚にして国を失ったのを哀れみ
山県昌景を その守っていた駿府の古城から追い出し
北條と相談して ここに氏真を入れようと 修理を命じていました
しかし それが出来上がらないうちに 信玄がこれを知って 大いに驚き
またもや 駿府城に攻め寄せてきたのです
そして 城番の間部という今川方の士を味方につけ
再び 城を奪い取ってしまったのですね
氏真は 寄る辺なく 小田原の北條で年を送ることになり
北條氏康の死後 氏政の時代になると ここをもさまよい出て
浜松に来て 結局 当家の食客となって終わりました
これより先 遠江の引間の城を 西南の勝地に移し「浜松の城」と名づけました
引間城は 曳馬とも書き 今その跡地には
東照宮が建っています →
浜松市中区にありますね
そして永禄13年(1570) 元亀と改元
正月に 家康は浜松城に移り 岡崎城を長男
信康に譲りました
そしてこの年 弥生(3月)織田信長は 朝倉義景を討つ為 越前に出陣
家康も 援軍として 遠江・三河勢1万余騎を連れ出陣
卯月(4月)25日 敦賀に到着しました
そして織田勢と共に手筒山の城を攻めやぶり 金ヶ崎の城に押し寄せた時でした
信長の妹婿・近江の浅井長政が 朝倉に付き 信長の背後から襲ってくるという注進が届いたのです 
江のパパ・長政出てきましたね
信長は これを聞くと あわてて尾州めざして 逃げ帰ってしまいました
後に残ったのは わずか7百余の勢を連れた木下藤吉郎秀吉のみ
秀吉は 家康の陣に来て 訳を話し 救いを請い
家康はもちろん こころよく引き受けました
打って出て さえぎる敵を所々に打ち破り 道を通し
秀吉が 大勢の敵に囲まれ あわやという時は
制止も聞かず 駆けつけました
 秀吉が頼むと言いしを 捨てて行かんに 我何の面目ありて
 再び 信長と面を合わすべき   進めや 進め!
 
これを聞いては 義をつくす御家人 いかで力を尽くさざらん
とうとう敵を向こうの山際まで追いたて 風のごとく引取り給う
なかなか 講談調ですね
そして 椿峠まで来て しばし人馬も息を休めていると
家康の馬前に 秀吉も駆け来たり 「もし今 合力なければはなはだ危なきところ
おかげにて秀吉 殿(しんがり)をなしえたり」
と 礼を言ったということですよ

by tukitodoraneko | 2012-02-11 12:35 | 徳川実紀 | Trackback | Comments(4)

東照宮御実紀 信玄の悪口  

2012年 02月 10日
←これ 知ってます?愛知・豊川のおきつねバーガー
外はカリッと揚げたあぶらげで トンカツをサンドしてます
昨日のTV「県民ショー」でやっていたんです
わたし あの番組 大好きですねー
こんなせまい島国なのに なんて知らないことばかり!
豊川稲荷門前のこの「おきつねバーガー」も初めて
聞きました
地元でなければ知らないこと たくさんあるんですね
さて 先に進みましょう
懸川城は囲まれたまま年も開け 永禄12年(1569)
しばしば攻められ 力つき とうとう和睦して開城ということになりました
その使いに対し 家康「我 幼より義元に後見され 旧好 いかでか忘るべき それゆえ氏真を助けて 義元の恩に報ぜしめん」と言って 幸いにも小田原の北條氏は 氏真と叔姪の関係なので 松平家忠に ここへ送らせることにしたのです
これには北條・今川両家とも「徳川殿は情ある大将かな」と感じ入ったとか
そして懸川城は 松平家成に守らせることにしました
是より先 三河一国 帰順の後は 国士を二隊に分け
酒井忠次 石川家成 二人を旗頭としました
いかし家成は この度 掛川の留守居になるので 旗頭の任は 甥の数正に譲り 
その身は 大久保 松井らと同じく遊軍に備え 
本多 榊原らは 御旗下を守護することとなりました
大井川を境とし 遠州を領するのが かねてからの信玄との盟約
では 領境を巡視に行こうと5~6百の少勢で 出馬した時のこと
これを聞いて 信玄の家士・山県昌景が 待ち伏せし
行きずりにこちらの供といさかいを起こし じゃましようとしたのですね
少勢でもあるし 引き返そうとすると 勝におごって 追いかけてきます
この時 供の中から 本多平八郎忠勝 一番に飛び出し 引き返して 
追い来る敵を 突き崩しました
これについで榊原康政 大須賀康高が 追いかけると 山県は駿州へ逃げ入ったということです
ここから「実紀」には 悪口がかいてありますよ
 信玄の兵略は 古今にこれなく 世の兵学者の手本とするところといえども
 その実は 父を追い出し 家を奪い 姪を倒し 国をかすめとる・・・
 天倫も絶え 人道を失くした行いだ
 隣国との盟約を破るくらい どうということもないだろう

と書いてあるんですねー
この噂は 近隣に広まり みなが信玄の策謀を批判したので
山県一人のせいにして 蟄居させましたが 噂はやまなかったということです
はい 今日はここまで
  

by tukitodoraneko | 2012-02-10 11:10 | 徳川実紀 | Trackback | Comments(2)

東照宮御実紀 掛川城へ  

2012年 02月 09日
かくして 小原鎮実吉田の城を開き 田原 御油の敵城も みな攻め落とされ
東三河 岩津 碧海 加茂・・・設楽 渥美の郡はみな御手に帰す
吉田城は 酒井忠次にたまわる
これは当家の御家人に 初めて城主を命じた例である
永禄八年(1565)には 牛窪の牧野 野田の菅沼 西郷 長篠 筑手 田嶺 山家 三方の徒も みな今川氏真をうとみ 今川方を去って 当家に帰順し 今は三河一国を統治するようになった
そこで 本多重次 高力清長 天野康景の三人に 国務・訴訟裁断の奉行を命じる
高力は 温順 慈愛深く 天野は寛厚 見慮厚し 本多は常に豪放
思いのままに 言いたいことをいうので 思慮があるとも見えないが
国務裁断にのぞめば 万事において果敢明断なので その頃 三河の土俗は
「仏高力 鬼作左(本多作左衛門)とちへんなしの天野三兵」と 歌いはやしたということです
「とちへんなし」というのは どちへんなしとも言い
どっちつかず・・・というほどの意味です
三人三様の力が合わさって 非常にうまく行ったということなんでしょうね
永禄9年(1566)12月29日 家康は三河守となりました
翌 10年 信長の息女が御入輿 信康君との御婚儀が 行われる
  11年 正月11日 家康 左京太夫に任じられる
この頃 京都では 三好義継とその陪臣・松永久秀が 反逆し
足利将軍・義輝卿は亡くなり 都は戦乱の巷となっていました
将軍の弟で 一乗院の門主・覚慶は 織田信長を頼り 信長は京へ討って出ることになりました
このため 当家よりも松平(藤井)信一を将として 加勢を出しました
この信一は 近江・蓑作の城攻めに 抜群の働きをし 敵味方の耳目を驚かしました
信長も「信一 小男ながら肝に毛の生えたる男かな」と賞され
着ていた道着を脱いで 当座の褒美に与えたということです
さて一方 今川氏真は 日々家人にうとまれ 背く者多く
甲斐の武田信玄も 甥舅の繋がりにも関わらず 軍を出し
駿河は言うまでもなく 氏真の領する国郡をも奪おうと計りました
氏真は ついに城を捨て 砥城の山家に逃げ 隠れ住んだところ
朝比奈泰能が 自分の遠江・懸川城(現・掛川)に迎え入れ ここで暮らすことになりました →
是より先 信玄は 駿府に攻め入るには 後を心安くしておくべきと考え
まず当家に使いを出し「大井川を境として 遠州は心のまま 切りおさめ給うべし
そして駿州は わが意にまかさるべし」
と 伝えてきたのですね
そういうことなら・・・と 家康も岡崎を出馬
菅沼定盈の計らいで井伊谷の城を攻め取り 同国の士を従えていきました
しかし うまい事言ってきた信玄の家士・秋山信友も 見付の宿に陣して
当国の者を 武田方に引き入れようと運動していました
これは 約束が違う!と 家康自ら出向くと信友はさっさと信濃の伊那口に 逃げ込んでしまいました
こうして 遠州の士をほとんど取り込み 懸川の城外に向城をつくり
とうとう 氏真を 攻めることとなりました
今日は ここまで!

 

by tukitodoraneko | 2012-02-09 12:03 | 徳川実紀 | Trackback | Comments(4)

東照宮御実紀 一宮の後詰  

2012年 02月 08日
永禄4年(1561)家康になったところまででしたね
続けますよ 
さて 2年後の永禄6年(1563) 家康はまだ4才の長男・信康
信長の娘を めとることに決めました
この決定に 今川方は怒り 小競り合いが続きました
この頃 家康は 小坂井・牛窪辺に 新しい砦を築いていましたが
ここに兵糧米を 入れるとき 一部の御家人が
佐崎の上宮寺の米を 勝手に持ち込んでしまったのです
これに怒った一向宗の門徒は にわかに蜂起
この門徒の中には 家康の譜代の御家人も 少なからずいたのです
そのため 三河の国全体が騒動となり 家康自らも出陣して
これを治めるという自体になりました
明くる7年にいたり この騒動はやっと衰え 一向宗に組した御家人たちも
罪を悔い 帰順し 家康は以前と同じように これを召抱えました
しかし この騒動を契機に 吉良義昭 荒川頼持の兄弟
また松平一族の 信次 家次 昌久などが 反逆し 自分の城に立てこもりましたが
これは 攻め落とされておしまい
しかし 吉田城には今川氏真が 小原鎮実を入れて 岡崎を狙っていました
← 古い絵葉書に残る旧吉田城跡です 
豊橋名所と
なっていますよ



これにそなえて 家康も新たにいくつもの砦を築き その中の一宮の砦は 本多(百助)信俊が 5百ばかりの兵で守っていました
この一宮の砦跡も ちゃんと残っているんですね→
今川氏真は 吉田の城を守ろうと
二万の兵を率いて 一宮を取り囲みました
家康は これを聞くと 三千の兵と共に
すぐに出陣しようとしました
しかし敵は十倍の数 そのうえ後詰めを防ごうと 武田信虎が備えているという状況
老臣たちは 止めようとするのですが
 家人に敵の番をさせておきながら 敵 寄せ来ると聞きて
 救わんとせんは 信も義もなき というものなり
 万一 後詰めを仕損じ 討死せんも 天命なり

こう言うと 家康は 信虎の八千の兵をけちらし
一宮の砦に 駆け入るが 今川の軍勢は この威に恐れ
道を開いて 手を出すもの無し
ここに一夜を明かし 翌朝 本多信俊を連れ 兵一人として傷つくものなく
敵勢を 追いたて追い立て 岡崎に帰らせ給う・・・・
これが「一宮の後詰」として 天下後世まで 伝わる話です
後年 豊臣太閤の元 多くの古老が集まり この話が出たとき
家康は 「いやいや それも若気のせいなり」と 笑ったということですよ

by tukitodoraneko | 2012-02-08 13:32 | 徳川実紀 | Trackback | Comments(6)

東照宮御実紀 家康となる  

2012年 02月 03日
はい 岡崎城! → いいですね 
城のある町!
元康は 尾張に出陣の合間
3才で別れた母・・・刈屋に帰されたお大の方 この人は その後 尾州 智多郡 阿古屋の久松俊勝に再嫁し 男女の子をなしていました
久松氏は水野の旗下で 織田方だったのですが 御外戚であることから 
阿古屋に立ち寄り 対面されました
三人の男子は 異父兄弟ということになりますが康元 康俊 定勝 これが久松松平の祖ですね
さて 今川義元亡き後 その息子・氏真は 
親の敵・信長に 恨みを晴らすでもなく 寵臣・三浦などの妄言のみ用い 
むなしく日々を送っていました
そんな中 信長は 元康を味方につけようと 水野信元を使って
様々な方法で 連絡してきました
ついに 元康も 氏真は国をほろぼすものと推し量り
ついに 清洲に出向いて 信長と親交を結びます
信長は もし自分が天下を一統したら そこもとはわが旗下に
反対の場合は 自分が元康の旗下に・・・と語りました
これは 永禄4年(1561)のことです
東條の吉良義昭は 今は全く敵となり 小競り合いが絶えませんでしたが
その弟・荒川頼持は 兄と仲が悪く こちらについて
酒井(雅楽守)正親を 西尾の城に引き入れたため 吉良も終には降参
また 味方は 今川方の西郡の城を攻めて 鵜殿長照を生け捕りました
この長照は 氏真の近縁のものなので 石川数正は まだ今川方にいる
長男・信康君との交換を提案し 成功をおさめました
これで 長男も 岡崎へ帰還を果たしたのですね
この年 元康は その名を家康に改めました
(永禄4年 10月の書面では まだ元康 翌年8月21日の書面は家康です)
御歳19才の家康公が ここに誕生したわけですね
 

by tukitodoraneko | 2012-02-03 11:17 | 徳川実紀 | Trackback | Comments(6)

東照宮御実紀 岡崎帰還  

2012年 02月 02日
寄道ばっかりしてましたが「実紀」に戻りましょう
人質生活の中で 長男・信康が生まれたところまででした
当時 尾張の信長は 父・信秀の意思を継ぎ「富国強兵」に励み 鳴海近辺の所々にとりでを築き 兵をこめて置きました
これに対して 今川義元は怒り狂い 
「吾 先に尾州を攻めとらん!」と こちらも新しい砦を築き始めました
その中でも 重要ポイント大高城には 一族の鵜殿長持を入れたのですが この城 あまりにも敵地に近すぎて 兵糧を運び入れることが難しかったのですね
ここで 名を挙げたのが18才の元康(家康ね)
近隣の城に放火し ここを狙った振りをして 他の砦の注意をひきつけ 
その隙に 難なく小荷駄を 大高城内に運び入れたのです
天晴れの兵糧入れかな・・と 敵までが賞賛したと言う
これが 今に伝わる「大高の兵糧入」の話です
この後も 義元の指揮で 元康は 寺尾・梅津・広瀬の城々を攻め 駿府に戻りました
そして 永禄3年(1560)今川義元は 駿・遠・三の軍 4万を率いて 
とうとう尾州表へ出陣しました
元康も その先隊で 丸根の城を落とし 鷲津も駿勢が落としました
義元は 大高が大事の要害であるとして 鵜殿に代え 元康を置きます
そして 桶狭間に着陣し その夜 酒宴を開いていたところ
「信長 暴雨に乗じ 急に今川の陣を 襲いけるにぞ」
ちょうど 鳴海城と善照寺城の間くらいの桶狭間
今川義元は あえなく討たれ 今川軍は狼狽し 度を失って逃げ帰る・・・
という事態になってしまったのです
この時 君(元康)は 少しもあわてず 水野信元から 義元の討たれたことを聞くと
静かに月の出るのを待って 三河の大樹寺を めざしました
岡崎に置かれた城代も この知らせを聞き 取るものもとりあえず逃げ去り
元康は そのまま岡崎城に 帰還します
思えば8才の幼少から 駿府に憂き年月をおくり
この年 5月23日 17才となって帰国
国中の士民 喜ぶこと 限りなし
と 実紀には書いてありますよ

by tukitodoraneko | 2012-02-02 12:21 | 徳川実紀 | Trackback | Comments(1)