ANA国内線【PR】

カテゴリ:幕末  

  • 近藤勇生家と 龍源寺
    [ 2012-05-01 14:56 ]
  • 藤田東湖と「陽だまりの樹」
    [ 2012-04-12 13:51 ]
  • その後の海援隊
    [ 2010-12-01 11:06 ]
  • 龍の死んだ夜
    [ 2010-11-30 15:10 ]
  • 最終回 龍馬伝「龍の魂」
    [ 2010-11-28 15:53 ]
  • 龍馬を斬った刀
    [ 2010-11-27 14:19 ]
  • 龍馬を斬った男
    [ 2010-11-26 22:11 ]
  • その時 弥太郎は・・・?
    [ 2010-11-25 11:27 ]
  • 龍馬暗殺までの一月
    [ 2010-11-22 13:51 ]
  • 第45回龍馬伝「龍馬の休日」
    [ 2010-11-06 15:09 ]

近藤勇生家と 龍源寺  

2012年 05月 01日
連休の中休みですね 
特に遊びに行ってはいませんが
← この人の生家とお墓に行っちゃいました
だって すごく近いのに まだ行ってなかったから・・・
江戸検1級会の影響で お墓マイラーになっちゃったけど さすがに一人で行くのは変な感じ
でも ま、ご近所のよしみってことで
ご紹介します 近藤勇さんです

生家跡といっても 今は「産湯の井戸」の跡があるくらい
でも同じ敷地内に 「近藤神社」もありますよ
家からは 自転車でも15分から20分
「野川公園」の前です
お寺も 同じ通り沿いのちょっと先
ここは 板橋で処刑された後に
ご家族が 身体を引き取って埋葬した所です
(首は どうなったんでしょうねー)
 龍源寺 
この門前に
銅像・石碑が
ありますよ


お墓もほら
お花がいっぱい!
辞世の句を彫った碑もあります
孤軍援絶作囚俘 
顧念君恩涙更流 
一片丹衷能殉節
雎陽千古是吾儔
靡他今日復何言 
取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣 
只将一死報君恩

法名は 「貫天院殿純義誠忠大居士」
勇の長兄・音五郎の次男で勇の娘と結婚し
養子として近藤家を継いだ 天然理心流5代目・近藤勇五郎が開いた「撥雲館(はつうんかん)」も残っていますが こちらは非公開
道場の名前は山岡鉄舟が命名したと言われ 暗雲を取り除くという意味があります
三鷹市剣道連盟が立てたこんな碑もあり →
 この地に生まれた近藤勇は、鹿島神道流を修業した  近藤内蔵助長裕が創始した“天然理心流”四代目を
 継いだ剣豪です

三鷹市剣道連盟では今も年一回 「近藤勇先生慰霊
剣道大会」を開催しているそうですよ

次回の二期会江戸歩きは 「日野と土方歳三」関係
一足先に 近所の史跡めぐりをしてみました
いかがかな?
初心者墓マイラーのデビューですよ
暖かく 見守ってね!


by tukitodoraneko | 2012-05-01 14:56 | 幕末 | Trackback | Comments(8)

藤田東湖と「陽だまりの樹」  

2012年 04月 12日
ブログタイトルから ロンドンはとっくに そして最近は「江戸」さえ消えかかってます 
こいつはあぶない!と 今日は「幕末」にもどってみようかな

↑ 手塚治虫の「陽だまりの樹」 主人公・万二郎と山岡鉄舟が
小石川の水戸屋敷に 藤田東湖を訪ねる場面です
← 東湖は 江戸初期からある桜の古木・・・
すでに虫食いで 倒れかかったこの樹を
「三百年の太平に慣れ 倒れそうな幕府の世」に例えます
作品のタイトルともなった重要な場面ですね
藤田東湖は 幕末の烈公・水戸斉昭とともに
「尊皇攘夷」を唱えた人ですが これからという時に
安政の大地震にあい この場所で亡くなっています
ニューオータニのツアーでは ここも行きますよ
このガイドのために 今 月猫は 猛勉強中!
本棚から この本を見つけ出して読み返しました→
この本は 社会運動家・女性解放運動家として
大正・昭和にかけて活動した山川菊栄さんの著書
水戸藩の家臣だった祖父・青山延寿とその妻・きく
の話が主で 幕末期の水戸藩内部の事情がわかる
貴重な話が つまっています
維新前の水戸では 「烈公・藤田東湖」といえば
ほとんどの人から目の敵とされていた、なんて話
おもしろくありませんか?
攘夷派からは 神さまのようにあがめられた東湖が
水戸では「成り上がり者」「古着屋」とさげすまぬ者はなかったと言うのです
それをあまり皆が言うので ある日 娘の千世は
父・延寿に聞いてみたのです
「藤田さんは 古着屋ですか?」
烈公から恩を受けていた延寿は こう答えています
「もとは古着屋だったが お父さんがずぬけていたから侍になった
血筋や家柄の厳しい世の中に 古着屋からあれだけの身分になれるというのは 
よほど とびぬけていなければできないことだ」
・・・古着屋じゃなかったとは 一言も言ってませんね
でも 確かに仰るとおりです
この当時は こんな風に誰もが 知っていた事実だったんですね
私は この事実 この本で読んで初めて知りましたよ
こういう事実は 隠すべきじゃなく 伝えるべきですよね
「古着屋」ってバカにしてるけど 今の世 裏原宿あたりに 行ってみてよ
よれよれの誰が着てたかわかんないTシャツ 2万円で売ってるのを見ると
いっそ「古着屋」になりたいと 思えるから!



by tukitodoraneko | 2012-04-12 13:51 | 幕末 | Trackback | Comments(10)

その後の海援隊  

2010年 12月 01日
龍馬暗殺の報を聞いた岩倉具視
「実に遺憾切歯の至り」と大久保利通に書き送りました
大久保はこれに「新撰組に相違ないと聞いています 近藤勇の仕業らしい 自滅の表れかと思う」と 返信しました
これに対し 海援隊では いろは丸の賠償問題で煮え湯を飲まされた紀州藩が裏で糸を引いたのだろう・・・と考え 当時京都で公用人という家老職ほどの重席にいた
三浦休太郎を疑います
そして 三浦の当時の宿舎天満屋を襲いますが
三浦も警戒して 新撰組が警備についていて
軽症ですんでいます
この時 襲撃に参加した十津川藩士・中井庄五郎が死亡
海援隊にも負傷者が出ました
三浦は 維新後は政府に出仕 貴族院議員などを歴任しています→ 
当時の海援隊は 長崎と大坂とに別れていましたので
長崎組は 土佐の大監察になっていた佐々木高行の指揮下に入り
慶応4年 戊辰戦争が始まると 長崎奉行所の接収などに加わります
しかしこの時 沢村惣之丞があやまって薩摩藩士を切ってしまい
切腹となりました これは薩摩藩側でも留める者もあったということですよ
大坂の隊士たちは 龍馬の右腕だった長岡謙吉が隊長となり
一月には 讃岐方面へ出陣し 暴動の鎮圧などに尽力します
しかし 土佐藩の一部隊であった海援隊は 同じ年の閏4月には
解散命令が出され とうとう龍馬の夢世界の海援隊は 消え去ってしまったのですね
しかし 同士たちはそれぞれに 外務大臣にまでなった陸奥陽之助(宗光)をはじめ
千屋寅之助(菅野覚兵衛)は 海軍退役後は東北で開拓に従事
新宮馬之助も海軍大尉となり 長岡謙吉は行政職に転じ 三河県の判事となる
白峰駿馬は渡米して造船を学び 帰国後 白峰造船所を経営
など それぞれの新天地へ羽ばたいていきました
龍馬の甥・高松太郎は 龍馬の名跡を継ぎ坂本直(直寛)と称し
明治30年から北見市に入植
龍馬の果たせなかった夢 蝦夷地の開拓に一身を捧げました
その墓は 札幌市円山にあり そこには龍馬の名も刻まれているということですよ

慶応3年1月撮影と推測 左から長岡謙吉・溝渕広之丞・龍馬・山本洪堂・千屋寅之助・白峰駿馬
と 言われている写真です

by tukitodoraneko | 2010-12-01 11:06 | 幕末 | Trackback | Comments(2)

龍の死んだ夜  

2010年 11月 30日
維新の門にある龍馬像です→
最近の東京も こんな青空が続いています
この龍馬のお顔 ステキですね
わたしは 他のどこのものよりこの龍馬像の顔が好き
青雲の志を抱いた 強い意志を感じます
「龍馬伝」は終わってしまいましたが
もう少し当時のことをお話しましょう
10月始めごろ
←こういう本が出ています
著者の磯田さんは 大学で近世史を教える先生
「武士の家計簿」という著作が 今度 映画化されるようです
オビに「龍馬暗殺の最終結論」と書かれてしまい
う~ん、そういうつもりで書いたんじゃないんだが・・・と
読売新聞の書評で 語っておられました
確かに そういう意味では 特に目新しくはないんですが
この本の特徴は 当時の京の様子が刻銘に書き残されている
中根雪江の「丁卯(ていぼう)日記」の内容が紹介されているのです
中根雪江は福井藩の政治工作担当で 春嶽公のふところ刀と呼ばれた人→
当時 京にいて 多くの人たちと面会・会談し
それを 刻銘に日記につけていました
磯田先生によれば「龍馬殺害時の政治状況を日本一雄弁に物語る資料」だそうです
この日記の中には 永井玄蕃(尚志なおゆき)の名前がよく←出てきます
大河でも 龍馬が駕籠の前に飛び出して 面会を求めていましたね
実際にも 龍馬はこの時期 何度も幕府の高官・永井と会って話しています
「龍馬の説は高大でおもしろい」と 永井は雪江に語ったそうです
暗殺の前日にも 龍馬と永井は会っていますし
周囲には「おれは永井玄蕃と会津肥後守(松平容保)と会った
だから(殺される)心配はない」と 語っていたそうですよ
この当時は 前月14日になされた「大政奉還」への賛否が 政局の焦点でした
慶喜側近の老中・板倉勝静(かつきよ)は もちろん反対派
11月10日 雪江に対して「何分口惜しいこととなった 
余りに惜しいので永井といろいろ相談したが良策もない 
何とか致し方はないか」と 相談を持ちかけています
これに対し 雪江は「それは死したる子の齢を数えるようなもの
慶喜公の徳を傷つけるから決して左様の儀は口外めさるな」といさめました
そして翌11日 中根雪江は もっと過激な佐幕派の意見を耳にします
幕府奥祐筆の渋沢成一郎が「徳川御三家と親藩の兵力さえあれば
政権の取り戻し方もある!」と主張し 尾張家などに出兵要請したというのです
薩摩藩もこれを知り 二千の軍勢を京に入れ始めました
雪江はあわてて 14日 薩摩藩の吉井幸輔と面会
この人は 龍馬のところを 度々訪れている人です
この時 吉井は「慶喜公の御腹心にて実に政権に執着これなきは永井ばかり
老中板倉以下には 必ず復古の臆念がある そうなったら戦乱だ
早く(新政府)の大綱領を定め それに背く者は討って取る外ない
明日15日には 薩摩の小松帯刀が土佐の後藤象二郎と同伴して こちらに着くはず」
と 答えています
ちょうどこの時 龍馬はその「大綱領」を書いていました
薩土の動きを封じるため 幕府復権派は 龍馬を早めに殺す必要があったのですね
そして 運命の日 15日当日
この日も 中根は永井邸にいて ここで会津の小野権之丞と居合わせ
その発言から 会津藩の復権論の激しさを痛感
二人で「昔から(佐幕の)藩風だからむずかしい」・・・と 語り合ったまさにその夜
龍馬は 近江屋で暗殺されました
大河とはちがい この日は 冷たい風が吹いてはいましたが
15夜の月が 煌々と輝く 明るい夜
街灯のない当時は 暗殺といえば 満月の夜が選ばれました
そして その日はたまたま 龍馬の生まれた日でもあったのですね


 

by tukitodoraneko | 2010-11-30 15:10 | 幕末 | Trackback | Comments(0)

最終回 龍馬伝「龍の魂」  

2010年 11月 28日
とうとう最終回ですね
見終わってから このブログに飛んできてくださる方も多いでしょう
では この龍馬33回目の誕生日慶応3年(1867)11月15日のことを 
振り返ってみましょう
この数日前 新撰組から分かれた伊東甲子太郎がやってきて「近江屋は危ない 土佐藩邸に入るがよかろう 新撰組が狙っている」と 告げに来たという話が残っています
当の甲子太郎も 龍馬暗殺の3日後 
新撰組に斬られていますので 龍馬が
近江屋にいることをどうして知ったのか 
そのルートはわからないままです
当日は 六つ(午後六時)ころ 中岡慎太郎がやってきます
二階の奥座敷で話し込んでいると
半刻(約一時間)ほどして 中岡の使いで菊屋(本屋)の息子・峰吉(17才)がやってきます
そして 少しして土佐藩下横目・岡本健三郎もやってきます
しばらく話している内 龍馬が腹がすいたといい
軍鶏を買ってくるように峰吉に頼み この機に 岡本健三郎も席を立ちました
ここで 近江屋の二階座敷には 龍馬と中岡 二人きりになったのですね
そして そして四半時・・今にすれば30分ほど鳥屋で待たされた末
峰吉が 戻ってきたとき すでに土佐藩邸から駆けつけた者が表にいて
事件が起こったことを 知るのです
土佐藩邸には 近江屋の主人・新助が急を知らせたのでした
この後 峰吉は 白川の陸援隊の宿舎に走り 今事件が起こったと
陸援隊幹部・田中光顕(25)に知らせます
田中光顕は 後に警視総監・宮内大臣となり 昭和まで長生きした人です
彼は 晩年「維新風雲回顧録」という当時の回顧談を残していますので
ここからは その話から引用してみましょう
 龍馬と中岡が「たった今やられました」と峰吉が駆け込んできたのは
 その夜 11時頃
 (行って見ると)坂本の下男・藤吉が二階上がり口の間に 横ざまに倒れている
 奥の間には 坂本と中岡とが血に染まって倒れている
 坂本は眉間を二太刀、深くやられて 脳漿が露出し 残念な事にはすでにこと切れていた
 中岡は重症だが 気は確かだった
 後から頭へかけて斬り付けられ 右の手と足とをひどくやられていた
   「突然 二人の男が二階へ駆け上がってきて 斬りかかったため
    思わぬ不覚をとった
    坂本は左の手で 刀を鞘のまま取って受けたが とうとう頭をやられた
    坂本は 僕に向かって、もう頭をやられたからいかんと言った
    僕もしょせん助かるまい・・・」
 (中岡は)あえぎながら 言った
  「そんなことはない 長州の井上聞多は あれほど斬られたがまだ生きている
   気を確かに持ってください」
   中岡を励ましたが とうとう翌々朝 絶命してしまった

以上の文の中には 中岡の言葉として「二人の男」とありますね
少なくとも 中岡は襲撃者として二人の男を認めていたのです
自分が 名を知らない男たちを・・・
しかし 実はこの場に もう一人「書生」もしくは「給仕」と思しき人間がいた
という証言があるのです
これは 見廻組の今井が そして大正になってから同じ見廻組の生き残り
渡辺篤が語っているのですが 二人とも「見逃してやった」と語っています
嘘としては 何の意味もないので 私はこの場にやはりもう一人
誰かがいたと 思っています
襲撃者に会い そして見逃してもらった年若い人物
書生か給仕のように見えたその人物とは すでに使いから帰ってきていた←菊屋の峰吉ではなかったでしょうか
鳥屋で待たされたという理由で戻ってきたのは 二度目だったのでは・・・と思えるのですが いかがでしょう
当時は ほとんどの者が 襲撃者を新撰組と思い込んでいましたが 峰吉が もしこの時 二階にいて襲撃者を見ていたのなら もっと早く その正体はわかっていたかもしれません
この峰吉のその後ですが 西南戦争のとき 谷干城の下について従軍
その後 女義太夫の興行で成功 しかし後に詐欺罪で懲役刑を受けて 収監され 大正7年 66才で没したと言います
後に 龍馬のこと この運命の日のことを
誰かに語ることは なかったのでしょうか
17日の夜 龍馬・中岡そして藤吉の遺体は 霊山の中腹に葬られました
龍馬には 全身34ヶ所 中岡は28ヶ所 
藤吉にも7ヶ所の傷があったと記録にあります

お誕生日おめでとう
そして さようなら 龍馬


そして一年間読んでくださった方々
ありがとうございました
私にとってもいい勉強になりました
つたない文章ではありますが また明日からもしばらく
龍馬の周囲のこと 弥太郎のその後のことなど 書いていくつもりです
よろしければ もう少し お付き合いください


by tukitodoraneko | 2010-11-28 15:53 | 幕末 | Trackback | Comments(12)

龍馬を斬った刀  

2010年 11月 27日
さて 龍馬殺害(見廻組にすれば「暗殺」ではないので)の実行犯について
昨日のブログから続きます
今 京都の霊山歴史館には
竜馬を切った刀というものが展示されています
これは今から4年前 京都の桂家から 家に伝わるものとして寄贈されました
桂・・・といえば 見廻組の
桂早太郎
この名前は 今井信郎は直接語ってはいませんが
「近畿評論」版では 近江屋に同道した中に 名前が挙がっています
この桂家には 見廻組の与頭(くみがしら)だった佐々木只三郎の掛け軸も伝わっているそうです
内容は 龍馬は暗殺したわけではなく 手配犯だったから討ちとった・・・という意味の事が書いてあるそうです
確かに 龍馬は寺田屋事件の時 幕府の捕り方を二名射殺しています
見廻組にしてみれば 討ちとって当たり前という状況だったのでしょう
しかし実際に斬った人間さえ 諸説あり 特定できない・・というのも不思議ですね
これからわかるのは 襲撃犯が「顔見知り」ではなかったということぐらいでしょうか
龍馬はともかく 中岡慎太郎は意識もあり 二日目の朝までは生きていたのですから
知っている人間なら 必ず相手のことを告げたはずです
そして ここで手がかりとなるのは 見廻組を呼び集めた佐々木只三郎のこと
今井は 自分も他の者も 佐々木に「捕り物があるから」という手紙で呼ばれ
その先で 初めて 相手が「近江屋にいる坂本龍馬」だということを知った、と話しています
ではこの←佐々木只三郎に 「龍馬が近江屋にいる」ことを教えたのは誰でしょう?
しかし これは残念ながら 二月もたたないうちに 佐々木さんが鳥羽・伏見の戦いで戦死してしまっているので どうにもわかりようがありません
この佐々木さんは 会津藩士の家に生まれ 同族の旗本・佐々木家へ養子にいった人
浪士組と共に上京しますが ここから清河八郎が離反すると これを暗殺した人ですね
「戊辰物語」という岩波文庫から出ている本に この人の
最後の様子が載っていますので 書いてみましょう
 
 なにしろ 洋服鉄砲の兵隊へ 鎧兜に陣羽織の幕軍が槍を持って向かったのだからいけない
 ことに(幕軍は)一人ひとり名乗りを上げる、敵を切ると一々首を取って腰に下げる
 その首をいくつもぶら下げた勇士が たった一発で胸板をつらぬかれて死んでいるという有様で
 ・・・(中略)京都見廻組頭の剣客・佐々木只三郎も はじめ鎧に陣羽織で働いたが 
 鎧などは何の役にもたたぬのを知って 真っ裸になって進んで すぐやられた

もし この人が生きていたら 誰が自分に龍馬の居場所を教えたか
実際 誰が龍馬を斬ったのか すべては白日の下にさらされていたかもしれません
おもしろいものですねー
明日は 龍馬暗殺直前の数日間の動きを書いてみようと思っています
ではまた




by tukitodoraneko | 2010-11-27 14:19 | 幕末 | Trackback | Comments(0)

龍馬を斬った男  

2010年 11月 26日
龍馬を実際に斬った男
それは 見廻り組の今井信郎ということになっています
この人は 函館戦争まで戦い 投降して取調べを受け
この時に 坂本龍馬は見廻組が斬った と語りました
ただし7人で行って 自分は見張り役 あとの6人はすべて戊辰戦争で戦死した と語ったのですね
そして 今井は2年程で恩赦に合い その後は官吏となり 警視庁に勤めたりもし その後静岡に入植し 農会の会長となって 静かな人生を送っていました
ところが 明治33年になって「近畿評論」という雑誌に 大変な記事が出てしまいます
見廻組の渡辺吉太郎 桂隼之助 ともう一人(存命中なので名は秘す)と4名で襲撃し 龍馬は自分(今井)が斬った・・・という記事です
この記事は 本人への取材・承諾が全くないものでしたが あっという間に世間に広まり これを読んだ谷干城などは 嘘言え!俺は中岡の話も聞いている 今井の言う事はでたらめだ、売名行為だ!・・・と 怒っちゃったのですね
この時 今井信郎は マスコミ追いかけられ 大変な騒ぎだったようですが 自らは一言も弁ぜず 記者とは会おうともしなかったそうです
後に この記事については 今井の旧友の息子・結城礼一郎という人が 昔聞いた今井の話を 新聞の連載向けに 脚色して物語として書き 「甲斐新聞」に載せたものだったとわかりました
この甲斐新聞の連載は たぶん当時そんなに評判にならなかったのでしょう
それで 甲斐新聞の編集長だった岩田鶴城という人が 後にここをやめ
京都に帰ってから そのまま近畿評論に 再録してしまったのです
今井さん 気の毒でしたねー
しかし このすっぱ抜きから9年後 大阪時事新報の記者が 静岡へ69才の今井信郎を訪ね
初めて 本人の証言を得て これを記事にする事に成功します
これは「隠れたる豪傑 今井信郎翁 近世史上の一疑問 坂本龍馬殺害始末
という センセーショナルなタイトルで 明治42年 2月3日から10日間に渡って
連載されました
ところが 皮肉な事に この記事はほとんど世上の興味を引かなかったんですね
それはそうでしょう この時 ほとんどの人は「近畿評論」の記事を信じ
今回の大阪時事新報の記事は「二番煎じ」として 話題にもならなかったんですねー
こうして 唯一本人の語った証言は 黙殺されました
では その内容 読んでみましょうか
 龍馬暗殺の一月前 今井は江戸から上京し 見廻組に入ります
 当時の京には「円山会」という佐幕派の懇親会があり 土佐藩もその常連でした
 そこに「大政奉還」の騒ぎが起こり これを提言したのが土佐藩・・・
 その大元は 龍馬だったということがわかり 一同は憤激します
 そんな中 11月15日 見廻組の与頭で 旧知の佐々木只三郎から
 手紙で先斗町の料亭に呼び出されます
 同じく見廻組の渡辺吉太郎もいて 3人で近江屋に向かい
 佐々木は検分役で 殺害には加わらず 渡辺が中岡を
 自分が龍馬を斬った と 今井は述べました
唯一 本人が直接 記者に語った内容が これです
この後 「坂本龍馬」を書いた大阪新報の和田天華が 質問状を送りますが
「すでに語りつくしたので」という理由で 今井は再び 語ることはありませんでした

さて あなたは どう思いますか?
本人が 言ったんだから これが最終回答?
さあ どうでしょう
この話は 明日につづきます
 
 


by tukitodoraneko | 2010-11-26 22:11 | 幕末 | Trackback | Comments(0)

その時 弥太郎は・・・?  

2010年 11月 25日
さて 龍馬は暗殺の前 越前に行っていたことがわかっていますが その頃もう一人の主人公というべき弥太郎はどこにいたの?・・・ということを書いておきましょう
←これは 45才くらいの時の写真です
もうきれいになってますね後藤象三郎が長崎を離れると 弥太郎は土佐商会・長崎出張所の主任になります
武器の買い付けなどに奔走するわけですが ここでイカルス号事件が起こり 土佐から大目付の佐々木三四郎が出てきます
9月には この水夫殺害に関しては 証拠なしとの裁定が下りますが 無断出航に関して海援隊に謝罪しろと要求されるのです
弥太郎としては 謝って済むならと思ったんでしょうが 海援隊はこれを拒否
板ばさみになった 弥太郎のこの当時の日記は 
「海援隊の引き合い 商会の盛衰を深慮いたし 何分心気不快・・・」
鬱々としていて 可哀想ですねー
結局 10月には 佐々木が長崎の責任者となり 弥太郎は土佐に帰ることになってしまうのです
弥太郎は 帰国の途次 後藤象二郎にこの間の事情を報告するため上京します
そして 大坂にいる間に 龍馬暗殺の報を聞くのですね
直前の11月上旬 後藤は土佐に戻り 中老に昇進藩の最高責任者・執政に任ぜれていました
この後藤によって 弥太郎は11月末 長崎に戻り 新留守居組に昇格して長崎残留
反対に佐々木は 帰国となり やっと弥太郎に本当の活躍の場が与えられたのでした
時はもう 幕末の最終場面
これからが 弥太郎の本当の活躍の舞台となるのです

毎日 外出の予定が入っていて なかなかPCに向かえません
「龍馬伝」最終回に向けて もっと書きたいことがいっぱいあるのに・・・!
今日はこの辺で また明日・・・

by tukitodoraneko | 2010-11-25 11:27 | 幕末 | Trackback | Comments(4)

龍馬暗殺までの一月  

2010年 11月 22日

上の絵は 大政奉還後 京坂で広まったええじゃないかの様子です
大政奉還の直後から 京都は戦になる、という噂が広まり
米穀や金相場が急騰 市民の避難騒ぎも起こりました
そんな中 空から伊勢の御札が降ってきたという奇瑞を発端に
民衆の押さえつけられたパワーが 爆発したのでしょう
当初は 京都の郊外から始まり 10月22日からは市内でも起こります
大坂にもこの頃飛び火し年末まで 京でも11月末まで続きました
これは奇跡でもなんでもなく 後から騒乱を起こすため 自分たちが撒いた
と 告白した者もいたようです
龍馬は 10月9日に京に着き 土佐の兄・権平に手紙で到着を報告しています
「京坂のもよう 以前とはよほど相変わり 日々にごてごてとなって行きますが
 世の中は 乱れんとして中々 乱れぬものと思いました」
と言うようなことを 書き送っています
この時から 龍馬は海援隊の京での宿舎だった酢屋を離れ
四条先斗町の近江屋に入りました
これは 龍馬も手紙に書いているのですが 
9月頃から龍馬が京に入ったという噂が流れ 
幕吏が土佐藩邸まで 探しに来るという事態だったからですね
当然 海援隊の宿舎も危ないということで 
龍馬は 土佐藩御用達の醤油屋・近江屋に移ったのでしょう
おそらく 大政奉還が決まるまでの日々を 龍馬はこの近江屋で 待っていたのかもしれません
昨日 大河の最後で 後藤象二郎に宛てた手紙が 紹介されていましたが それもここで書いていたのかも・・・
これは 10月13日 二条城に諸侯が集まった日のこと
「もし 下城なきときは 海援隊 一手を以って 大樹(=将軍・慶喜)参内の道路に待ちうけ 不倶戴天の讐を報し 事の成否にかかわらず 先生(後藤)に地下にご面会仕り候」
という内容です
大政奉還の知らせを受け取ると 龍馬は次に新政府議定書を練ることに集中します
上の絵は 霊山歴史館にある三条実美公の一代記の中にある近江屋の絵
階下では 醤油屋の働く様が 二階では龍馬と戸田雅楽が 
議定書を練っている様子が描かれています
ここでの生活 実は龍馬自身も 少し不安に思っていたのです
18日付けの手紙で 龍馬は土佐の友人 望月清平・・・あの亀弥太のお兄さん宛に
どこか 別の宿舎を探してくれるよう 依頼しています
「吉井幸輔が薩摩藩邸から来て 土佐藩邸にはまだ入れないと言う
 四條ポント町(近江屋)くらいでは 用心が悪い
 薩摩の二本松藩邸に入るかと言うが それもいやみな話なので
 どこかに 移り先を考えて欲しい」
ざっと言うと こういう内容です
この後 龍馬は 越前に発つことになりますので
この話は このままになってしまいました

しばらくこの大政奉還から龍馬暗殺までの人々の動き
その時 誰がどこにいて 何を考えていたのか・・・
それを追いかけて行きたいと思います
ではまた 明日



by tukitodoraneko | 2010-11-22 13:51 | 幕末 | Trackback | Comments(0)

第45回龍馬伝「龍馬の休日」  

2010年 11月 06日
「江戸検」でバタバタしている内に もう45回ですねー
46回は「土佐の大勝負」47回が「大政奉還」その次の週にはもう龍馬暗殺です
なんか早かったですねー 福山龍馬とはもうお別れですかー・・・
先週の放送の最後に「龍馬暗殺まであと3ヶ月」と言ってましたが
実際 龍馬が長崎を離れたのは この年9月18日
土佐経由で 大坂から京都へ向かっています
実は もう残り2ヶ月を切っていたんですね
ですから このときは下関に立ち寄ることはなく
お龍とは この春分かれて以来 もう会うことはありませんでした
龍馬が下関の稲荷町と言う遊郭で遊んで
朝帰りしたのも この年の春のことです
怒ったお龍の前で 龍馬は三味線を弾き
即興で歌って見せます
この時の歌詞をそのまま書にしたものが これ→
梅花の印まで押して ちょうど居合わせた
長府藩の梶山鼎介に与えたそうで
今も下関の長府博物館に残っています
歌詞は 
「恋は思案のほかとやら 長門の瀬戸の稲荷町
 猫も杓子もおもしろう 遊ぶ廓の春景色
 ここにひとりの猿回し たぬき一匹ふりすてて
 義理も情けもなき涙 ほかにこころはあるまいと
 かけてちかいし山の神 家にいるのに心の闇路
 さぐりて 出でて 行く~♪」
って 感じですね
たぬき=山の神がお龍のこと
猿回しは 自分のことにかけて 唄っています
これには お龍さんも笑い出し 許してしまったようですね
朝帰りした ご主人方
ギター持って ユーモラスに唄ってみたらどうでしょう?
きっと ボッコボコにされると思いますが
「お龍さんだって 笑って許してくれたんだぞ!」
と ダメ押ししてみてください
「福山雅治が 目の前でギター弾いて唄ったら 私だって許すわよ!」
という答えが 返ってきて 再びボッコボコになること 請け合いです
アーメン・・・・

by tukitodoraneko | 2010-11-06 15:09 | 幕末 | Trackback | Comments(0)