
とうとう最終回ですね
見終わってから このブログに飛んできてくださる方も多いでしょう
では この
龍馬33回目の誕生日慶応3年(1867)11月15日のことを
振り返ってみましょう
この数日前 新撰組から分かれた
伊東甲子太郎がやってきて「近江屋は危ない 土佐藩邸に入るがよかろう 新撰組が狙っている」と 告げに来たという話が残っています

当の甲子太郎も 龍馬暗殺の3日後
新撰組に斬られていますので 龍馬が
近江屋にいることをどうして知ったのか
そのルートはわからないままです
当日は 六つ(午後六時)ころ
中岡慎太郎がやってきます
二階の奥座敷で話し込んでいると
半刻(約一時間)ほどして 中岡の使いで菊屋(本屋)の息子・
峰吉(17才)がやってきます
そして 少しして土佐藩下横目・
岡本健三郎もやってきます
しばらく話している内 龍馬が腹がすいたといい
軍鶏を買ってくるように峰吉に頼み この機に 岡本健三郎も席を立ちました
ここで 近江屋の二階座敷には 龍馬と中岡 二人きりになったのですね
そして そして四半時・・今にすれば30分ほど鳥屋で待たされた末
峰吉が 戻ってきたとき すでに土佐藩邸から駆けつけた者が表にいて
事件が起こったことを 知るのです
土佐藩邸には 近江屋の主人・新助が急を知らせたのでした
この後 峰吉は 白川の陸援隊の宿舎に走り 今事件が起こったと
陸援隊幹部・
田中光顕(25)に知らせます
田中光顕は 後に警視総監・宮内大臣となり 昭和まで長生きした人です
彼は 晩年「維新風雲回顧録」という当時の回顧談を残していますので
ここからは その話から引用してみましょう
龍馬と中岡が「たった今やられました」と峰吉が駆け込んできたのは
その夜 11時頃
(行って見ると)坂本の下男・藤吉が二階上がり口の間に 横ざまに倒れている
奥の間には 坂本と中岡とが血に染まって倒れている
坂本は眉間を二太刀、深くやられて 脳漿が露出し 残念な事にはすでにこと切れていた
中岡は重症だが 気は確かだった
後から頭へかけて斬り付けられ 右の手と足とをひどくやられていた
「突然 二人の男が二階へ駆け上がってきて 斬りかかったため
思わぬ不覚をとった
坂本は左の手で 刀を鞘のまま取って受けたが とうとう頭をやられた
坂本は 僕に向かって、もう頭をやられたからいかんと言った
僕もしょせん助かるまい・・・」
(中岡は)あえぎながら 言った
「そんなことはない 長州の井上聞多は あれほど斬られたがまだ生きている
気を確かに持ってください」
中岡を励ましたが とうとう翌々朝 絶命してしまった
以上の文の中には 中岡の言葉として「二人の男」とありますね
少なくとも 中岡は襲撃者として二人の男を認めていたのです
自分が 名を知らない男たちを・・・
しかし 実はこの場に もう一人「書生」もしくは「給仕」と思しき人間がいた
という証言があるのです
これは 見廻組の
今井が そして大正になってから同じ見廻組の生き残り
渡辺篤が語っているのですが 二人とも「見逃してやった」と語っています
嘘としては 何の意味もないので 私はこの場にやはりもう一人
誰かがいたと 思っています
襲撃者に会い そして見逃してもらった年若い人物

書生か給仕のように見えたその人物とは すでに使いから帰ってきていた←
菊屋の峰吉ではなかったでしょうか
鳥屋で待たされたという理由で戻ってきたのは 二度目だったのでは・・・と思えるのですが いかがでしょう
当時は ほとんどの者が 襲撃者を新撰組と思い込んでいましたが 峰吉が もしこの時 二階にいて襲撃者を見ていたのなら もっと早く その正体はわかっていたかもしれません
この峰吉のその後ですが 西南戦争のとき 谷干城の下について従軍
その後 女義太夫の興行で成功 しかし後に詐欺罪で懲役刑を受けて 収監され 大正7年 66才で没したと言います
後に 龍馬のこと この運命の日のことを
誰かに語ることは なかったのでしょうか

17日の夜 龍馬・中岡そして藤吉の遺体は 霊山の中腹に葬られました
龍馬には 全身34ヶ所 中岡は28ヶ所
藤吉にも7ヶ所の傷があったと記録にあります
お誕生日おめでとう
そして さようなら 龍馬そして一年間読んでくださった方々
ありがとうございました
私にとってもいい勉強になりました
つたない文章ではありますが また明日からもしばらく
龍馬の周囲のこと 弥太郎のその後のことなど 書いていくつもりです
よろしければ もう少し お付き合いください