カテゴリ:明治・大正・昭和( 17 )

70年前の今日

f0122653_1618058.jpg8月1日から 読売新聞の一面で始まった「戦後70年」という記事読まれましたか?
昨日は 半藤一利さんのお顔でした
半藤氏は 20年前に亡くなった父と同年の方です
父が生きていたら もう85歳だったのだな・・・
という事と共に さんざん聞かされた「父の一番長い日」の
ことも思い出しました
家族以外に話した事もないのですが 一人娘の私ももう母の享年を越え 父の死んだ歳に 近づいていきます
一度くらい書いた方がいいのかな…と思いました
ここからは 15才の少年の「8月15日」です
この手の記事は 読みたくない方も当然いらっしゃるので 
その場合はどうぞ とばしてください

私の祖母は 昭和の初め 当時 南満州鉄道に勤めていた祖父の元へ
山梨から嫁いで行きました
任地は様々だったようですが 父たち5人の兄弟は 錦州中学を出ています
父は 昭和5年の生まれで 三人の姉と 下に弟が一人
玉音放送を聞いたのは 15才の夏
満州の 広大な黄色い大地で 地平線から刻々と近づく
ソ連の戦車隊のすさまじい土煙りを眺めながら
小学生を指揮して 戦車壕を掘っていました
戦車隊に対して 穴を掘ってくいとめようというのは
さずがに 子供でも無理だろうと 察しがつきます
せめて小学生は 早い内に 家に帰してやろうと 父は思っていたそうです
そして 昼ごろ よく聞き取れないラジオの放送が終わると
上官が来て 「もう全員家に帰れ」と 言われたそうです
それから 引き上げて来るまでの 数か月のことは
とぎれとぎれにしか 聞いていません
人は 本当につらい記憶は 語りたくないのかもしれません
夜 バラックの屋根に当たった流れ弾が カラカラと音を立てて 落ちてゆく音
昼でも 普通に歩いていた横の人が ばたりと倒れて動かなくなる日常
蒋介石の軍隊に 友達と一緒に拉致されたこと
その三人の内 父ともう一人は 家族がいたので 脱走しようと決めましたが
一人は すでに現地召集された父親は戦死し 母は幼い妹を連れて
中国人の妾となっていました
僕は 帰れない という友人を一人残して 父は友人と夜更けに脱出
それから 夜の間は駆け続け 昼の間は林の中などで休み 
とにかく 走り続けて 家に戻りました
夜の月明かりの中 永遠に続くかのようなコーリャン畑を
駆け抜けていく15才の少年

「終戦」という言葉を聞くと 私はいつもこの光景が 頭に浮かびます

あの当時 生きていた全ての人に 各々の戦後史があるのでしょう
でも だからと言って 「された事」ばかり 声高に言うのはどうかなと思うし
やたら美化するような戦争映画もきらいです

本当は「原爆」と 同レベルに自分たちのしたひどい事も ちゃんと語り継がないと
こんなことしたから 戦争になったんだよと 子供たちに教えていかないと 
今10代 20代ほど 「今後日本は戦争すると思うか?」という質問に
「はい」と 答える率が高くなっているそうです
ひょっとしたら「モンハン」で狩りに行く程度の事と思ってやしないか?
と 不安になります

私自身 初めて中国に旅行に行く前 隣の97歳のおばあちゃんに言われた事が
とてもショックでした
「まあ中国に行くの? 大丈夫かしら?
 だって 私たちは あの人たちに ひどい ひどい! ひどい!!ことをしたのよ」
普段は 上品で穏やかな老夫人の口から出た「ひどい」という言葉の激しさに
しばらく 返事もできなかった
この方も 満州に行き 戦後は韓国にまで逃げて やっと帰国した方です
自分だって 大変な思いで やっとのこと帰って来たのに・・・・

犯罪者にだって黙秘権があるように ひどい事をした人たちがそれを語りたくないのはわかる
それ以上に 過去の日本人がしたひどい事を 追求したくない気持ちもわかる
でもちゃんと検証して 教えないと また同じ過ちを繰り返す世代が 出てくるのじゃないか
・・・と 思ってしまうのよね
杞憂だと いいですね

ともかく お父さん!
コーリャン畑を 激走してくれてありがとう
その10年後に私は生まれ 今も平和な日本で 生きているよ!

はい 今日はこれで終わりです
 
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by tukitodoraneko | 2015-08-15 17:42 | 明治・大正・昭和

黒澤家の食卓

f0122653_1657442.jpg永田町「黒澤」です
古河庭園に行く前に ランチしました
なかなか いい感じの外観
開店は 5年前ですが
築60年の料亭を基礎に
黒澤組の美術担当の方々が
造り上げました
ここは 首相官邸のそばですが
この一角だけ 戦前の趣です
「用心棒」「赤ひげ」などを
参考にしているようですね
f0122653_17555.jpg鏝絵(こてえ)もなんかそれっぽくて 
いいでしょ?
中に入ると 黒澤監督のポートレイトや
映画のポスター 絵コンテがたくさん
飾られていて 映画ファンなら大感激
一階の蕎麦席は いつも行列なので
今回は 二階個室を予約しました
コース料理になりますが 落ち着いて
のんびり食べられます
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← これは「梅コース」の一品です 綺麗でしょう?
月ごとに 変わりますが この野菜を使ったお寿司
私は 大好物ですねー
もちろんおそばもつきますよ
黒澤監督自身が 好きだったものばかり集めて提供しているお店なので 蕎麦の他に「しゃぶしゃぶ」や
「かつ丼」も有ります
そして 日本酒と つまみも いけるんですよ
お値段も とても良心的
レストラン黒澤グループ 今は4店舗くらいあるのかな?
その中では ここが一番 好きかも
国会議事堂に御用の節は ランチはここで
そばでも たぐってくださいな
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by tukitodoraneko | 2015-05-23 17:44 | 明治・大正・昭和

古河庭園と陸奥宗光

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f0122653_11321252.jpgはい 昨日は北区駒込の「旧古河庭園」に バラを見に
行ってきました
上の建物は 古河財閥がジョサイア・コンドルの設計で建てた
ものですが 元々は 陸奥宗光邸でした
陸奥宗光 → 伊藤博文の盟友で 伊藤内閣では
外務大臣も務めた人ですね
この人の次男が 古河財閥の養子となり
二代目を継ぎますが 宗光が 54才で亡くなったのも
この屋敷です
バラ園のある西洋庭園が有名ですが
実は 武蔵野段丘の下部に広がる日本庭園も 見ごたえがあるのですよ
近代庭園の祖ともいわれる「植治」=小川治兵衛(じへえ・7代目)の作庭で
京都御所・清水寺・南禅寺のお庭も この人が手掛けました
コンドルと共に 和洋の名人が 造り上げた庭園なんですね
このように 二つの様式の庭を同時に見るのは あまりないことです
そこで気付いたのですが やはり庭はその土地の気候に合って造られる
ということですね
夏が短く 気温も低いイギリスの庭は とにかく太陽光を大切にします
日陰が 本当に少ない!^^;
これに対し 高温多湿な日本の庭は 自然の高低差を生かし
池泉を造り 植栽も 夏は木陰になるように考えられています
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お友達のマダム達 出しちゃいましょう
大学時代のH子ちゃんとIちゃんです
うーん バラに負けてないですね
でも 紫外線には 負けちゃいますね
今年は あまりに気温が高く バラが終わっちゃうのではと 心配だったのですが
まだまだ 綺麗に咲いてて 良かったね!

f0122653_1231330.jpgこのあと 洋館の中の喫茶室で お茶を頂きました
見学会は 往復はがきで事前に申し込まなければならないのですが 喫茶室利用でも一階部分は 見ることができます
庭は暑かったけど さすが洋館!
内部は 高い天井と開口部が多いことで とても涼しく居心地がよかったです
実はここ 貸切で 結婚式に使えるんですよ
まあ なんだか 財閥令嬢になれそうですね~
もう一度 結婚するなら 次はぜひここで!
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by tukitodoraneko | 2015-05-22 12:32 | 明治・大正・昭和

多磨霊園とチキンカレー

f0122653_16101023.jpg今日も 午前中に 「例」の所に通いました
「霊」の所・・・多磨霊園ね
そして ← これ写真に撮ってきました
ご存知でしょうか?ボースの墓です
正しくは ラス・ビハリ ボース
一名「中村屋のボース」です
私 新宿近辺で生まれ育ち 母方はみんな近所でした
おやつのお持たせは たいてい中村屋
おかきや肉まん 月餅もありましたね
でも一番好きだったのは 亡き父とよく食べた
チキンカレー
「お前はここのカレーはよく食べるね」
小食でひ弱な一人娘が 鼻の頭に汗をかきながら 本格的インドカレーをほうばる姿が うれしかったのでしょう
f0122653_1644133.jpg「小さくても本物の味はわかるんだねぇ」なんて
親バカ 言ってましたっけ
そのカレーを作ったのが インド独立運動のさなか 
日本に亡命してきたボースなんですね
頭山滿の紹介で 中村屋にかくまわれ やがて娘・俊子と結婚します
大正12年には 日本に帰化「坊須」を名乗りました
残念ながら 妻も息子も早くに亡くなり 本人もインドの
独立前に 亡くなってしまいました
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そんなボースをかくまった中村屋の夫妻
相馬愛蔵・黒光の墓も すぐ近くにあります
こんもりした柴山の上の自然石の墓石
安曇野出身の相馬愛蔵は 明治34年
本郷の東大門前の「パンの中村屋」を
居ぬきで買い取り 店名もそのままに開業
40年には まだ未開発だった新宿に支店を出し
やがて 新宿の発展に伴い こちらが本店になりました
中村屋の店の裏は アトリエにようになっていて
夫妻は 多くの外人を含む文化人・芸術家たちのパトロンとなり その縁でボースも この中村
f0122653_174557.jpg屋に身を隠すことになったのでしょう
相馬夫妻の写真も出しときましょうね
妻・黒光さんは 故郷仙台にいた時から
評判の美少女
結婚して以降も 若いアーティストたちの
モデルになっちゃって いろいろ噂されました
でも「芸術」のためなら いーんじゃない?
明治・大正・昭和を 自由奔放に生き抜いて
私の生まれたのと同じ年 夫の死の一年後に
78才で亡くなっています
そういえば 最近「中村屋のカレー」食べてないなー
食べに行こうかな 懐かしいなー
商家だったので 普段は見慣れないダブルの背広を着た若くてハンサムな父と手を繋いで行ったあの
「中村屋のカレー」
真昼の霊園で 思い出は かげろうのように立ち上るのでした
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by tukitodoraneko | 2015-05-14 17:23 | 明治・大正・昭和

あの方も食べたトンカツ!?

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今夜から 初回二時間スペシャルで始まるTBS 60周年記念番組
「天皇の料理番」 宮内省大膳職司厨長 秋山徳蔵さんの生涯です
番宣 すさまじいので 久々にドラマ見るかも・・・
私は 堺正明さんでやってた時にうろ覚えですが 見てましたね
確か 明石屋さんまさんの全国区ドラマ 初出演だったとか
華族会館での同僚で 山上辰吉という人の役でしたが
今回は 柄本祐(えもと たすく)さんがやります
柄本明さんの息子さん お兄ちゃんの方です
兄弟 よく似てますが 森山未来くんに似てる方がお兄ちゃんですよ
f0122653_1833713.jpgなんで そんなに見る気になったかというとね つい先日 丸の内のここ→ 
行ったんですよ
三菱一号館 ジョサイア・コンドルの
設計を復元した建物ですよね 
5年ぐらい前でしたか?
中に美術館があるので 行かれた方も多いでしょう
ドラマの中の「一丁倫敦」にも出てきますよ
元々は 明治27年(1894)銀行として造られたものです
f0122653_1874737.jpg現在 中に「caf‘e1894」という ステキなお店が入っていて まあいつも混雑してます
ここで「天皇の料理番」とのコラボメニューを
やっていました
毎日 限定5食ずつで チキン・ポーク・ビーフの
カツレツ
そして 限定なしで「オマールのビスク」
なんか おいしそうでしょ?
確か4月から始まってるはず・・・
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ひょっとして 天皇陛下も召しあがられたお味・・・!?
ドラマでは 生まれて初めて食べた「トンカツ」が
料理人になるきっかけだったとか・・・
これはぜひ食べないとね!

・・・というわけで 全て食べ物優先で動いている今日この頃ですぅ
今に 自分自身が ブタになりそうですなっ! ^^:


 

 
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by tukitodoraneko | 2015-04-26 18:33 | 明治・大正・昭和

府中 東郷寺

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今日は 京王線・多磨霊園 南側 坂下にある 聖将山 東郷寺 に行ってきました
しだれ桜 見事でしょ?
碑との対比じゃわからないでしょうが この石碑 実は巨大なんです
山号でもお分かりかと思いますが ここかの東郷平八郎元帥ゆかりの寺
f0122653_15335149.jpg山門は あの「羅生門」のモデルとして使われたというやはり馬鹿でかいもの
石段がまた高いの何の・・・ 「心臓のお悪い方は坂道をお使いください」の立て札があります
元々 ここには東郷元帥の別荘がありました
元帥亡き後 近隣の人々が ここを日蓮宗のお寺にしたのですね


f0122653_15425276.jpgやっとこ這い登って 山門の内側から桜を撮ってみました
この落差 わかるかな?
ちょうど多摩川に沿う崖線を利用して 坂上に造ったんですねー
ここの大しだれ 三本あるのですが これが一辺に満開になるのは ほんの数日なんです
今年も 真ん中の一本が
散りかけてて バットタイミングでした
f0122653_15483623.jpg本堂は こんな感じ
記念館的なものもあるのですが 花見時はどこも立ち入り禁止の混雑ぶりです
石碑・燈篭好きのお仲間のために
やっと見つけたのが 山門脇の目立たないところにある由来碑
しかしこれ 白っぽいは 摩滅してるはで
読み取れない・・・・
判読できたのは

「故 海軍大将加藤寛治閣下 本会会長たりし時 
飛島又吉氏 篤志を以て当寺山門の寄進を発願したるも
工事半ばにして逝去 後嗣子繁氏 其の遺志を継ぎ完成 竣成す 昭和一八年」

15分くらい すわりこんで 撫で回して やっとこれだけ・・・・
でも おばあちゃん達に「気分悪いの?」「お茶のむかね?」と
やさしく心配されながら ようやく読めたんだから これで勘弁してよね 
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by tukitodoraneko | 2013-03-22 16:02 | 明治・大正・昭和

嘉納治五郎とJOC

f0122653_10173283.jpg開会式もまだなのに なでしこ初勝利ですねー
今日は寝不足のお父さんが多いかな?
昨日のブログで 日本が初参加した第5回ストックホルム大会の話をしましたが この時初めて 日本にもJOC
日本オリンピック委員会ができたんです
委員の中には あの嘉納治五郎(かのうじごろう)さんもいました
講道館柔道の生みの親といわれている人ですね
f0122653_10323814.jpg万延元年(1860)兵庫生まれ
最初に開いた道場は下谷 稲荷町
永昌寺の書院
十二畳の部屋で 門弟は9人だけでした
だいぶ前ですが 1級2期会で 下谷~蔵前を
ご案内した時 この永昌寺も寄っています
f0122653_10454650.jpg「講道館発祥の地」の碑は 昭和43年 没後30周年に講道館が立てたものです
嘉納治五郎は ベルリンで行われたIOCの総会にも出て
あの「幻の東京オリンピック」を もぎ取ってきた人です
戦争で 中止にならなければ 昭和初期に東京でもオリンピックが開かれたかもしれないんですねー
残念なことにこの方は これからたった2年後の昭和13年
やはりカイロで行われたIOCからの帰途 日本郵船・氷川丸の船上で 肺炎の為 亡くなりました 
77才でした
クーベルタン男爵が近代オリンピックの生みの親なら
嘉納治五郎は 日本オリンピックの生みの親
一度くらい 自国で開かれるオリンピック 見せてあげたかったかな
でも 彼の創始した講道館柔道は 今世界中に広まっているのだから
きっと 空の上で ずっと応援してくれているのかもしれませんね
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by tukitodoraneko | 2012-07-26 11:11 | 明治・大正・昭和

日本初のオリンピック

f0122653_10564154.jpgオリンピックねた まだ続きますよ
日本がオリンピックに参加したのは1912年(大正元年) 
ストックフォルム
大会からです
この時 日本は「JAPAN」ではなく「NIPPON」で参加しています 時代感を 感じますねー
昨日も書いたように この時の選手二名は惨敗に終わりました
マラソンに出た金栗選手も 途中リタイア
しかしこれが 55年後に ドラマを起こします
1967年 ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典の開催に当たって 当時の記録を調べていた委員会が 男子マラソンの金栗四三が「(棄権の意思が運営者側に届いていなかったため)競技中に失踪し行方不明」となっていることに気付いたのです
f0122653_11195947.jpgそこでIOCは 金栗を記念式典でゴールさせようと 
式典に招待してくれたのですね
75才の金栗さんは 競技場内に用意されたゴールテープを切り 
この瞬間 場内には
「只今のタイムは 54年8ヶ月6日5時間32分20秒3 
これで第5回ストックホルム大会は総ての競技を終了しました」 とアナウンスが流れました
金栗さんはゴール後のスピーチで「長い道のりでした 
この間に孫が5人できました」と 答えています
粋な計らい そしてステキなコメントですね
「人生は マラソンのようなもの」
徳川家康も 同じようなこと言ってますが
まさしくこの人の人生も マラソンそのもの
この時から16年後の 昭和58年
金栗さんは 92才で人生のゴールを切りました
熊本県 玉名市の「名誉市民」となっています
つらくて 大変な時代でしたが ステキなマラソン人生でしたね
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by tukitodoraneko | 2012-07-25 11:36 | 明治・大正・昭和

長尾邸と長尾よね

f0122653_1216444.jpg先日 H氏に案内していただいた深沢高校内の長尾邸
「東京の地霊」という本も買って 調べ始めたら どんどんおもしろい事実につきあたって 収集が
つかなくなってきましたので 
とりあえず ここまでのところを 
書いてみましょう
現在 東京都選定の歴史建造物となっているこの長尾邸
設計は 大江新太郎(他に明治神宮の宝物殿・高野山霊宝館など)
f0122653_12423633.jpg
今はない日本庭園は 財閥御用達の小川治兵衛(植治)の作庭  昭和6年にできた大邸宅でした
持ち主は お年の方なら誰もが知ってる「わかもと」で 
一代に巨万の富を築いた長尾欽弥でした
私の祖母も 「強力わかもと」常備薬でしたよ
「ビール酵母」同様 滋養強壮整腸剤として 当時の人はみんな知っているでしょう
戦時色の強くなっていく昭和初期 長尾財閥は軍部と結びついて 「わかもと」は兵隊の常備薬ともなり 年間一千万本の売り上げを誇り 昭和12年の日中事変の時には 
軍に戦闘機を 献納しています
軍部や政府との結びつきには 欽弥の妻・よねの存在も大きかったでしょう
f0122653_1362938.jpgこの女性は 私生児だったということで 実の父母については 分からなかったのですが あの土佐出身の宮内大臣・
田中光顕の養女になっているのです
田中は いわずと知れた
明治天皇の側近です
そして 夫妻共に 美術工芸品の収集家になっていくのですね 
当時 長尾邸には 里見弴や 画家・児島喜久雄などが出入
f0122653_13144276.jpgりしていました
この深沢の屋敷以外にも 近江・坂本には「隣松園」 鎌倉には「扇湖山荘」という大邸宅も持っていました
しかし それも終戦と共に 全て終わりを告げます
時の内閣 そして「戦犯」となった近衛文麿は →
隠棲していた軽井沢から上京すると 荻窪の自邸ではなく
この長尾邸に直行して 自殺の前日まで滞在していました
彼が服毒した毒薬は 製薬会社社長だった長尾氏から
手に入れたものと推測され その枕元には 「わかもと」の
ビンもあったと 記されています
終戦と共に 長尾氏は会社での実権も失い 邸宅も次々に
人手に渡りました
f0122653_1405667.jpg
国宝級の美術品があったという「長尾美術館」も 一時は「鎌倉園」という料亭となり 数年前には 三菱から鎌倉市に 寄贈されています
世田谷の長尾邸も 昭和30年には 
当時のお金で六千万という高額で売られ それからは夫婦して 原宿のセントラルマンションやホテル(ニュージャパン)を転々としたようです
欽弥の方が先に亡くなっているのですが 資料は見つからず
妻のよねは 晩年は鎌倉にひっこんで 昭和42年 79才で亡くなりました
多くの芸術家を支援し いつもボロボロの穴の開いた服を着ている児島喜久雄に 
服をこしらえてやったり あの魯山人の後援もしていて 
衆人の中 口論してひっぱたいたこともあるという女傑でした
そして 相撲好き 刀剣好きで 内田良平と戦後まもなく 海外に持ち出される刀剣類の
保護もしたようですよ

これぐらい書けばいいかな・・・? Hさん 読んでくださいね
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by tukitodoraneko | 2012-07-12 14:05 | 明治・大正・昭和

カフェタイガーのAKBシステム

f0122653_1254317.jpg銀座プランタンの女給さんを出してみました
本当は「女ボーイ」 それも不思議な呼び方ですが もともと外人が少年の給仕役を「BOY!」と呼んだところから ボーイ=
給仕の意味だったのですね
新聞広告で「女ボーイ」を募集した時 字数が多かったので「女給」としたのがきっかけだそうです
この当時の女ボーイは ただ給仕するくらいで 今のメイド喫茶のメイドさんと同じ
大坂資本が入って お色気路線になり 風俗営業になっていくのは ずっと先
昭和6~7年のことですので まちがえないでくださいね
f0122653_12104878.jpgプランタンの開業から4ヶ月後 尾張町の南角(現・銀座五丁目)に有名なカフェライオンがオープンしました
ここは「精養軒」の経営で 本格的なカフェの第一号と
言われます
当時の女給さんのコスチュームは 西洋料理店ながら 洋装は少なく 花模様の銘仙ぐらいなもの
髪も上のような「203高地」と呼ばれた髪型が全盛でした
その中 ライオンでは揃いのオリーヴ色の看護婦的な 和洋折衷のコスチュームで 真っ白なエプロンを胸高につけて 背中で大きな蝶々結びにしていました
これが大うけで 店内を飛び回るその姿は 「白い蝶が飛び交う光景を彷彿させ」 これ以来「夜の蝶」と言う呼び方ができた・・・と書かれています
ここは 当時には珍しい三階建てで 二階には余興場もあり お抱えオーケストラが毎夜 楽を奏で ビールが
予定量売れると 大きなブロンズ製のライオンが吼える
趣向だったとか
f0122653_12444276.jpgライオンから遅れること数年
浅野財閥(総一郎)の資本で 森永の辺りに
カフェタイガーがオープン
ライオン・タイガー時代の到来です
西条八十・中山晋平コンビの「当世銀座節」
「♪東京銀座は 恐ろしところ 虎と獅子とが酌に出る」と 唄われました
このタイガー 三十名ほどの美人女給を 赤・青・紫 三組に分け 日替わりで 1、2階を
ローテーションしたそうです
まるで AKB48みたいなシステムですねー
それだけじゃない! ビール一本ごとに付く「投票券」で お気に入りの女給に人気投票ができたんです
これもAKBの「総選挙」と同じですね(こちらの投票券はCDですが)
ちなみに ビールを150本買って お気に入りを一位にしたのは菊池寛
飲みきれない分は お持ち帰りしたそうですよ
現代のオタクを 笑えませんねー
「当世 銀座節」は「♪たとへ百夜を来ればとて チップ二十銭じゃほれはせぬ」と 続きます
当時の相場では 50銭でも下の下 一円が相場で 
三円わたせば 次に来た時 顔を覚えていてくれるそうです
いい商売だなー そして男って明治・大正から 馬鹿なんだなー・・・・・
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by tukitodoraneko | 2012-07-11 13:03 | 明治・大正・昭和