江戸 出開帳のにぎわい

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上の絵は 「武江年表」はじめ 当時の記録にたくさん残っている
深川永代寺の「成田不動尊」出開帳の様子
とにかくこの時には 講中の送迎 数千人 千住から深川まで
「立錐の余地なし」と 書かれています
出開帳というのは そもそも勧請・・・お金目的でくるのですからね
江戸に来ると 三井越後屋などの大家に立ち寄り 寄進を募るのです
スポンサーですね 越後屋の方も 膳部を出してもてなし
赤飯配ったりもして 宣伝に これつとめます
寛政のころ 白木屋が 天鵞絨(びろうど)張りの牛を 三囲稲荷の開帳に出してますが
これもいい宣伝になったことでしょう
成田不動は江戸時代 33回も出開帳していますが これは安政三年(1856)のことです

実は これより前 文化四年(1807) 回向院での幸手不動尊出開帳
これも大変な人出 千人ほども先がけし 山伏が 大斧をかつぎ 法螺を吹き 
なかには異様ないでたちの者もいて 大評判だったようなのです
火渡り護摩焚き と言って 今でも高尾山で やっていますが
行者が 裸足で火の上を歩くやつ これも見物が押し合いへしあい
ついに 押しつぶされて死人が出るほどの混雑ぶり

しかし こちらは 何の絵も残ってないんですよねー
残念ですねー
幸手不動院自体 今の春日部市にあったのですが
大正時代に 東京に移った・・・とあるだけで 一体 今 どこにおわすのやら・・・?
ちょっと調べてみたけど わかりませんでした
でも とりあえず 幸手不動尊の名前だけ 覚えといてみて
「近来 これ程なる江戸入りの開帳なし」 
去年の琉球人の(来朝)行列よりすごかった と 書いてありますからねー
では また明日
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by tukitodoraneko | 2015-10-04 18:16 | 祭と歳事 | Comments(11)

Commented by 鶴ヶ島の小人 at 2015-10-05 14:21 x
月猫様
「江戸の夕映え」を買ったら、これがすごく面白い!
でも検定が迫っていて、ゆっくり読む感じになれない・・。
今年のお題に関係しそうなところを拾い読みしてます。
早く合格したいです。(と、パソコン前に座っている時間に読めばいいのだ。そうします。)
Commented by 昭ちゃん at 2015-10-06 09:07 x
 月猫姐さん
あんまるさんから、よろしかったらどうぞ。
葛袋地研のサメ歯研究家の親友で
漁港のゴミ捨て場からサメの頭を貰い
どこかで解体する猛者です。
Commented by 鶴ヶ島の小人 at 2015-10-06 11:24 x
月猫様
またやっちゃってますね。「夕映え」ではなく「夕栄」の方をちゃんと読んでいますのでご心配なく。
「汁こぼし船」が、守貞慢稿にも「屋根船より小さめ」くらいしか書いてないのですが、なんでこんな名前なのか?(何をこぼす?)釈然としないです。
Commented by 忍び駒 at 2015-10-06 14:12 x
幸手不動院の話が出ましたので、関連して、修験道についてちょっと触れてみます。
戦国時代には、修験者の中には戦国大名に抱えられ、諸国の情報収集に当たったものがありました。
江戸時代になると修験道には統制が行われ、「修験道法度」には、天台宗か真言宗に所属しない限り修験道を行ってはならないと定めています。天台宗と真言宗の組織の中で管理させようとしたのです。
修験宗2派のうち、天台宗に組み入れられた方を「本山派」と云い、京都の聖護院に統括させました。八ッ橋の聖護院です。幸手不動院は、小渕不動院とも言うようですが本山派に組み込まれています。
明治になると修験道は邪教とされて「修験宗廃止令」が出され、戦後になって信教の自由が認められるまで、70年間も弾圧が続きました。
僧侶になる人、神主になる人、一般人になる人などがいました。そんな時期であるため、修験道の拠点や仏像の継承がどうなったかは記録されず殆どわからなくなっています。
幸手の不動院は天台宗の寺院に吸収され、東京の下町で戦災を受けたようですが、不動明王の行方は全く分りません。こういった仏像は、たとえ戦災を逃れても個人の所有になってしまうケースがかなりあります。
修験道は日本独自の興味深い宗教で、その広がりには驚くべきものがあります。折角の機会ですので、『消えた名刹 : 小渕不動院の歴史』(春日部市郷土資料館)を読んで見ようと思います。
Commented by tukitodoraneko at 2015-10-06 15:20
鶴ヶ島の小人さま
「江戸の夕栄」は基本図書ですので 優先して読んどいてください

今年こそ一級さま は 「謎解き江戸のススメ」もう読んだかなー
あの「相撲の章」は ほんとに初心者におススメなんですよ
普段の読書量が 一点の差となりますので みなさん
追い込み頑張って!
Commented by tukitodoraneko at 2015-10-06 15:27
忍び駒さま
いつもわかりやすい解説 ありがとうございます
修験道の方は 明治期「教導」という立場に変わった方が多いと
以前 聞きました
江戸時代は 大にぎわいだった幸手不動 今もあるものと思っていたのですが
とっくに行方知れずだと知って 残念でした
せめて 絵が残っているとよかったのに・・・
Commented by 今年こそ1級 at 2015-10-06 18:13 x
「謎解き」品薄だったのか昨日届きました。
さっそく読んでます。
また、こちらで紹介されていた「武江年表」…じつはこれにドップリはまってしまって…今年もだめかもしれない~!
(明治時代の「銀座大火」など絶対試験に出ない所に食いついてしまい…)
Commented by tukitodoraneko at 2015-10-06 20:22
今年こそ一級さま
いいえ、いいえ 歴史の勉強に「寄り道」も「近道」もないのです
川の流れのように続いている歴史は どの部分をとりあげても
その一部ですから 無駄になどなりませんよ^^v
楽しんで 読んでくださいね
Commented by tukitodoraneko at 2015-10-06 20:26
あ、鶴ヶ島の小人さま
「汁こぼし舟」のことですか?
オワイ舟のことですよ 垂れ流しの跡を黄色く引いて走るので
そう呼ばれたそうです。
気付くのが遅れてごめんなさい 
Commented by 忍び駒 at 2015-10-07 05:12 x
月猫さんは何でも良くご存じ敬服いたします。それでは、検定の役には立ちませんが、続けて書いておきましょう。

明治維新の直後に新政府は大急ぎで、神道家を中心にして「宣教使」という役所を作り、新しい国の方針を国民に伝え、教化することを急ぎますが、人員を確保することが出来ず機能しませんでした。

そこで今度は「教導職」という制度を作ります。中心におかれたのはやはり神主さん達ですが、お坊さん、落語家、講談師まで動員し、地域ごとに何回も集会を開き、国民を教化しようとしたのです。
月猫さんのおっしゃる通り、修験道が禁止されたために神主に転向した人たちも、多く参加しています。しかし上手く行きませんでした。
それまで、深山幽谷に分け入って、滝にうたれ、木の実を食べて、黙々と極限の修行をして来た人達ですから、大勢の人たちを前にして、明治国家の新しい方針を説明することなど全く不得意でした。

明治政府から噛砕いて説明しろと云われていたのは、敬神愛国・天理人道・皇上奉載の三点です。残念ながら修験者にとっては全く異質の次元でした。
やがて学校教育の制度が導入されますので、「教導職」はごく短期間で解散することになります。
Commented by tukitodoraneko at 2015-10-07 11:06
忍び駒さまにそう言われると「もっと勉強せよ」と
言われてる気がします^^;
足もとにも及ばない浅学の身ですが これからもよろしくお願いします
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