江戸の富くじと陰富

f0122653_13215632.jpg

富くじに関しては あっちこっちに ちょびっとずつ書かれていて 調べにくいですね
唯一の専門書「江戸における御免富の展開」 一万円以上ですしね
私も読んでませんが「読んだ人が書いた本」をかき集め
なんとか まとめてみようかなと思います

まず江戸の17世紀末 富くじは 市中では禁じられ
牛込の宝泉寺 谷中の感応寺だけが許されていました
なぜこの二寺が・・・というと 将軍家と毘沙門天との関係でしょうか
宝泉寺は家光と関係が深く 藤原秀郷の縁で毘沙門を祀り
感応寺は 不授不施派から天台宗に変わって 綱吉が庇護し
鞍馬寺にならって 毘沙門を祀ります
鞍馬寺では 古くから富くじをやっていたから・・・という説もありますが
確認できませんでした

そして享保末 幕府は財政逼迫で 寺社の援助ができなくなってくると
仁和寺と興福寺に 江戸での富つき興業を許可します
慣れない土地でのこころみということで 結果的に この二寺の興行は失敗でしたが
これに次いで 明和から天明に渡って「寺社の格によって 回数・年数を決め」
次々と 富つき興業の許可が降りるようになりました
最初は 明和三年(1766) 芝神明です

そして文政期には 規制緩和され 最盛期 「三富」の時代に突入します
谷中・湯島・目黒不動(滝泉寺)ですね
ただ 江戸の富つきとはいえ 諸国からも興業にやってきました
出開帳ならぬ 出興業なのです
その場合 出開帳と同じく どこかの寺社に「場」を借りますね
なるべく 人の集まる 便のいいところ
こうして 多くの寺社が借りたのが椙森神社です
富塚 今もありますね
浅草寺や愛宕も 人気の興業場でした

富くじの値段は 感応寺の場合で 一枚二分
一両=四分=十六朱ですから 一両の半分ですよ
年季奉公の場合 年収三両くらいですから 月収二カ月分!?
後に 二朱(一両の八分の一)に下がりますが それでも高いですよねー

一般には 一朱(一両の十六分の一)または 銀二匁五分
(一両=銀六十匁で換算すると 一両の二十四分の一)でした

それでも庶民には手が届かず 「割札」という共同購入も流行りました

一回につき二万枚ほどの札が売られ 当選総額は千両を越えました
当選金は 全額もらえず 一割は 目的である寺社の修繕費のため主催者の寺社に納め
一割は 次回のくじを買うという形で また納め
あと一割ぐらいが諸経費という形でとられ
自分のものになるのは 当選額の七割程度でした

最盛期には 二日に一度 富つきがあったということなので
結局 この興業を請け負う専門業者ができてきます
一回につき 何百両かの請負金を 業者が寺社に支払って請け負うのですが
業者のもうけは 札の売り上げにかかってきますよね
こうなると いくら「富くじは寺社地でのみ販売せよ」とお上が言っても
札屋=販売所は 雨後の筍のように 増えていき 文政期には
一町内に 三、四か所もあったということです
↑ 上の絵が そうですね

一攫千金を夢見るのは 今も江戸も変わりません
富くじ人気が高まると 「仲売」ということが行われました
これは 元方と通じ 富札を買い占めて 高値で売りつけるのですね
一分のものなら一両・二両で売りつけるのですから
四倍から八倍・・・濡れ手に粟です

こうして ますます富くじは 庶民の手を離れていき
これが「陰富」を 生みだす一要因ともなったのでした

長くなったので 続きは明日



  


 
[PR]

by tukitodoraneko | 2015-09-28 15:02 | 祭と歳事

<< 江戸の影富 江戸検参考図書 追加 >>