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明暦の大火 実紀より

家綱の代で 最も大きなできごとは 明暦の大火ですね
今日はその事を書いておきましょうね
明暦3年(1657)1月18日に起こったこの火事は 二日間に渡って
江戸のほとんどを 焼き尽くしました
家綱が将軍になって6年目 17才の正月のことです
この年は 前年の冬から 雨が一度も降らず 旱魃状態で
井戸も泉も 涸れていました
このためか 元旦から5日まで 毎日どこかで火事が起こるという状況でした
明暦の大火 実紀より_f0122653_15205863.jpg

↑ この時の出火元 焼失地域 そして後に作られた火除地(ひよけち)です
この日は「実紀」によりますと 前日からの強風で 土ぼこりがひどく
夜が明けても わからないほどだったそうです
まず 右上の本郷丸山本妙寺から18日 午後2時に出火して12時間 燃え広がりました
次に 19日の午前11時すぎ 今度は小石川伝通院近くの武家屋敷から出火
この火が 江戸城内部まで飛び火して天守閣 本丸を焼き尽くしたのです
三番目が 同日夕方 麹町の町屋からでた火事で これは大名小路を焼き
鎮火したのは 翌20日の朝でした
結局 三ヶ所から出た火が 前後3日間 燃え盛ったのですね
江戸城には まず天守の窓から 火の粉が移り炎上
将軍は 西の丸に避難していました
この時 酒井忠勝は自分の屋敷に避難を・・・と言い
松平信綱は 寛永寺に移って様子を見るよう
また 井伊直孝は 自分の赤坂の屋敷に・・・とそれぞれ避難を勧めました
というのも元旦から相次ぐ火事に 誰もが慶安・承応の乱を連想して
これが 不穏分子の起こした「人災」と見ていたからですね
しかし この時 阿部忠秋だけが こう言いました
 「東照宮以来四代 連綿として天下の主たる御身の 軽々しく外へ御動座するべからず
  たとえ御所が回禄(火事)に及ぶとも 山里のお庭に渡らせたまへば
  かしこは広大な空き地のあることながら 何の難しきことのあらんや
  また万一 非常のたくらみあらんとも 一、二の大名御家人に仰し下され
  誅刹するに何の難きことあらんや
  忠秋の言うことにしたがわれず 何処かにご動座あるならば
  忠秋には 御先代よりのご遺言もあれば 決してこの場を離るまじきなり」

これを聞いて 家綱は「忠秋の申す条もっとも」として 西の丸に留まったそうです
まず ここだけは焼け残って よかったですねー

by tukitodoraneko | 2012-09-08 16:13 | 徳川実紀

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