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東照宮御実紀 人質時代

とりあえず巻2に 進みましょう
弘治2年~天正5年まで 1556~1577年の22年間のことです
さて 弘治2年(1556)正月15日
東照宮御実紀 人質時代_f0122653_11265382.jpg人質状態の竹千代君も15才で 元服です
加冠役は 今川義元自身 理髪は関口親永
つとめ 義元の一字をもらい 
二郎三郎元信と 名をあらためました
同時に 関口親永の娘を 北の方とします
後の築山殿です
そして翌2月 義元の計らいで 東條松平義春を名代として 日近の城を攻めました
城将・奥平貞道は よく守りましたが討ち死
この城は 三河と尾州との国境にある重要な城でした
また尾張からの 侵略に備え 福釜にも新しく砦を築き 
酒井 大久保などの御家人に守らせました
信長は 柴田勝家を使って 攻めさせましたが かえって深手を負い引き返しただけ
こんな中 竹千代あらため元信は 元服も済んだことだし 一度 故郷に帰って 
墓参りがしたいと願い出 やっと里帰りが 許されました
この時 岡崎には 城代・山田新右衛門が 本丸を占拠していましたが 
元信は 文句も言わず二の丸に泊まり 「分別厚き少年」と 義元を感心させました
また 先代からの御家人で80過ぎの鳥居忠吉が 賦税役の合間 
こっそりと蔵に隠し貯めた金を見せると 涙を流し感謝したとか
その仁心 たぐいなきさま 祖父・清康公に生き写し・・・ということで
翌年の春 駿府に帰ってから この祖父にちなみ蔵人元康をなのりました
弘治4年 改元して 永禄元年(1558)
元康 17才の初陣は 三河の鈴木重教が守る寺部城攻め
順調に勝ちを収めると 「戦は後詰めが大事 枝葉を刈り取り 後に本根を断つべし
と なかなか慎重派で 城下に放火してさっさと引き上げたので
酒井正親 石川清兼など歴戦のつわものも 若大将の初陣とは思われず
その深慮に 感嘆したということですよ
義元も この初勝利に喜び 旧領の内 山中三百貫を返し 腰刀を賜りました
また 織田方の広瀬 誉母 伊保などの城も攻め 水野信元とも戦をしました
その主知 勇略に 古老も感服
ここらでそろそろ 城代も引き取り 領地を返してくれと 義元に頼んで見ましたが
翌年 尾州に軍を起こすつもりだから 国境の査定が済んでからな
と ごまかされてしまいました
永禄3年(1560)3月 駿府で 元康の北の方(築山殿)に男子誕生
のち 岡崎城を譲る三郎信康君これなり

by tukitodoraneko | 2012-01-27 12:30 | 徳川実紀

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