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その頃 弥太郎は・・・

その頃 弥太郎は・・・_f0122653_1822170.jpgさて 「汚すぎるだろー」とあちこちから不評を買っている岩崎弥太郎
大河では 河田小龍のところで 武市さんと喧嘩し
龍馬と饅頭屋長次郎が 必死で止めてました
こんな大集合は ドラマでも もうないそうですが 実際にも ありえないことですね
龍馬が小龍を訪ねたころ 弥太郎は 念願の江戸にいました
その頃 弥太郎は・・・_f0122653_18344018.gifこれは 藩の致道館などで教えていた奥宮(おくみや・またはおくのみや)周二郎 
またの名を慥斎(ぞうさい)→の従者として遊学したのです
この資金は 加尾の紹介ではなく 岩崎家が代々持っていた山林を売って作ったそうです(と、三菱関係の本に書いてあります)
たぶん、汚いよ と文句つけてるのも こちらの方かな
奥宮慥斎は 文化8年生まれですから この時はもう40過ぎ
弥太郎の父親に近い年齢ですね
この慥斎のおかげで 弥太郎は 江戸であこがれの安積艮斎(あさかごんさい)の塾
神田駿河台にあった「見山塾」に入ることができました
翌年 安政5年にはあの未曾有の大災害「安政の大地震」が 江戸を襲うのですが このときも弥太郎は 江戸にいたんですねー 
しかしその年の12月には 父・弥二郎が庄屋と酒の席で喧嘩をして 大怪我をし 
遊学を中止して土佐に帰ることになってしまいます
もう この辺は来週の分に入っちゃいますか、じゃ やめといて
奥宮慥斎に関するトリビアを一つ
この方は 維新後は教部省の役人になり 自宅で「万国公法」の勉強会を開き 
ここには中江兆民などが集まっていました
官舎の隣は 井上馨の住居で また陸奥宗光の父・伊達千広と「座禅の会」を開き 
ここには山岡鉄舟も来ていたとか・・・
その他 海舟や 大久保利通とも知り合いであったようです
明治10年 67才まで健在でした
三番目の息子 健之が「大逆事件」で 幸徳秋水と共に処刑され 
以降名前が出てこなくなっていますが お墓は 今も谷中にあるそうですよ

by tukitodoraneko | 2010-02-18 09:11 | 幕末

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