若旦那気分で吉原へ
2010年 02月 10日
さて いろんなところに「江戸散策ツアー」に行っていますがレポートがどんどん遅れています
実際に行ったのは 昨年暮れですが「浅草ツアーレポート」少しずつUPしていきますよ
第一弾は←ここ「山谷堀」です
浅草から 墨田川沿いに北に上がっていくと
西へ伸びる入り堀がありました
これを「山谷堀」といい 南側の土手を「日本堤」といいます 画面下の橋が「今戸橋」ですね
江戸初期に 低湿地だったこの辺りを水害から守るため
日本中の大名を借り集めて築いた堤なので この名があるといいます
でも 何よりも有名だったのは ここが「吉原通い」の道だったからですね
お金のある人は 駕籠や猪牙(ちょき)で
無い者は この堤を歩いて 吉原に向かいます
「土手八丁」とも呼ばれましたよ
猪牙舟は こんな猪の牙みたいに細い舟
別名「親不孝舟」 通な人はこれに立って乗るのが粋とされました
← こちらが土手の上 右が山谷堀で
左にかすむ屋根が吉原の方角です
今戸橋から500メートルくらい歩くと左側に
大きな柳の木がありました これが有名な「見返り柳」ですね
今も何代目かの柳が残っていますよ
もてる奴 ばかり見返る柳の木
道沿いに葭簾(よしず)掛けの屋台がいっぱい出ていますが これは煮売屋 団子屋など
有名な金鍔(きんつば)屋も出ていました これははじめは「銀鍔」といったそうです
持ち金に余裕の無い人は ここで腹ごしらえして
のり込んだのでしょう
しかし この屋台も陽が落ちるまで
その後は 真っ暗になって「夜の日本堤」は
殺しの場として よく芝居にもでてきます
しかし見返り柳までくれば もう吉原は目の先です
ここを左に曲がると くの字に曲がった「衣紋坂」
はやる気を抑えて 着物の襟など直すから この名があります
衣紋坂の右側には番所に高札場
吉徳稲荷がありました
江戸初期には 武士に編み笠を貸す「編み笠茶屋」も並んでいました 別名「五十間道」
ここを過ぎればもう「大門」(おおもん)です
現在は 埋め立てられ「山谷堀公園」になっていますが 春は桜がきれいです
猪牙舟とはいかないけど 吉原通いの若旦那気分で
この桜の下を歩いてみるのも一興です
土手の上 どこへどこへと手をひろげ
土手を行く 医者は上野か浅草か
日本は 橋も堤も日に千両
実際に行ったのは 昨年暮れですが「浅草ツアーレポート」少しずつUPしていきますよ
第一弾は←ここ「山谷堀」です
浅草から 墨田川沿いに北に上がっていくと
西へ伸びる入り堀がありました
これを「山谷堀」といい 南側の土手を「日本堤」といいます 画面下の橋が「今戸橋」ですね
江戸初期に 低湿地だったこの辺りを水害から守るため
日本中の大名を借り集めて築いた堤なので この名があるといいます
でも 何よりも有名だったのは ここが「吉原通い」の道だったからですね
お金のある人は 駕籠や猪牙(ちょき)で
無い者は この堤を歩いて 吉原に向かいます
「土手八丁」とも呼ばれましたよ
猪牙舟は こんな猪の牙みたいに細い舟
別名「親不孝舟」 通な人はこれに立って乗るのが粋とされました
← こちらが土手の上 右が山谷堀で
左にかすむ屋根が吉原の方角です
今戸橋から500メートルくらい歩くと左側に
大きな柳の木がありました これが有名な「見返り柳」ですね
今も何代目かの柳が残っていますよ
もてる奴 ばかり見返る柳の木
道沿いに葭簾(よしず)掛けの屋台がいっぱい出ていますが これは煮売屋 団子屋など
有名な金鍔(きんつば)屋も出ていました これははじめは「銀鍔」といったそうです
持ち金に余裕の無い人は ここで腹ごしらえして
のり込んだのでしょう
しかし この屋台も陽が落ちるまで
その後は 真っ暗になって「夜の日本堤」は
殺しの場として よく芝居にもでてきます
しかし見返り柳までくれば もう吉原は目の先です
ここを左に曲がると くの字に曲がった「衣紋坂」
はやる気を抑えて 着物の襟など直すから この名があります
衣紋坂の右側には番所に高札場
吉徳稲荷がありました
江戸初期には 武士に編み笠を貸す「編み笠茶屋」も並んでいました 別名「五十間道」
ここを過ぎればもう「大門」(おおもん)です
現在は 埋め立てられ「山谷堀公園」になっていますが 春は桜がきれいです
猪牙舟とはいかないけど 吉原通いの若旦那気分で
この桜の下を歩いてみるのも一興です
土手の上 どこへどこへと手をひろげ
土手を行く 医者は上野か浅草か
日本は 橋も堤も日に千両
by tukitodoraneko | 2010-02-10 13:24 | 江戸のあれこれ