IE9ピン留め

日比谷図書館で表彰式!  

2012年 01月 30日
昨日29日は 江戸文化歴史検定の特別表彰式が 
行われました
これまでは 江戸博の内部で少人数で行われていたんですが 今回は140名という大量合格者だったため 過去の1級合格者も全員 お呼ばれし 日比谷図書館のホールで行われました
実質的には 今回の合格者の「初顔合わせ」です
たくさんの方がいらしてて まあびっくり!
会場に入ったとたんに 月猫は「名刺交換会」でした
プレゼンテイターは もちろん江戸博の竹内誠先生
今回94点という最高得点で 1級に受かった小林さんは 私たちの一年後に初合格した方で 毎年!1級受験して(もちろん合格)いる猛者です
三期の方々の祝賀会もあったようですよ
日比谷図書館 行ったことありますか?→
特別展示で「文化都市千代田の歴史」をやっていました
各種 講演会も行われ 竹内先生の講演会もあります
この図書館 上から見ると← ほら きれいな三角形なんですよ
日比谷公園の中にありますから 散歩のついでにどうぞ
歴史のある図書館で
大正頃の様子は
こんな風だったんですよ →
昨日はこの他 三級を100点満点で合格した方、3名
準一級を取った外国人の方 
最高齢で準一級の90才女性
そして 最年少9才(小三!)で 三級合格のきょうなちゃんが 表彰され トロフィーをもらいました
きょうなちゃんの かわいいお振り袖姿は 感激もの!
来たれ 若者! そして頑張れ女性陣!
江戸検の男女比は 江戸時代と同じ2:1なんです
表彰式の後は 私のあこがれ 山本博文先生我らがホーリー=堀口茉純ちゃんとのトークショー
山本先生には コッテコテの
「バレンタイン・チョコ」を
差し入れしたんですが 私の心 伝わったでしょうか?
先生のご本と お公家さまのような上品なお顔の大ファンです
散会後は もちろん飲み会
偶然にも「五期=今回1級合格の会」と 居酒屋で遭遇
最後は ぐちゃぐちゃに 交流しました
私以外の「二期会」は その後 二次会に突入
もうホントに 江戸に詳しく 酒にも強い猛者ばっかり・・・・
こんな楽しい交流会 来年は ぜひ あなたも!

# by tukitodoraneko | 2012-01-30 11:10 | 江戸文化歴史検定 | Trackback | Comments(6)

平清盛 第4回「殿上の闇討ち」  

2012年 01月 28日
はい!週末大河です 今回は「平家物語」そのまま
「殿上の闇討ち」のエピソードです
← 今回の主役は パパ忠盛
殿上人になったパパは いろんな人たちのやっかみを受け
意地悪されるんですね
これは清盛がまだ 13才くらいの時
天承元年(1131)11月23日 忠盛は36才
「平家物語」では「すがめ」だったとかいてあります
「斜視」のことですかね

「平家物語絵巻」にも この場面はあります
左上が 鳥羽院 右手 後ろ向きで刀を抜いているのが忠盛
庭に控えているのが 家臣・平家貞です
闇討ちの噂を聞いた忠盛が 郎党を一人 庭に忍ばせ
帯刀して 昇殿 後に これをとがめられると
郎党は 主を心配して勝手についてきたもの
刀は 木刀に銀箔を貼っただけ・・・と釈明して おとがめ無し
というこれだけの話です
忠盛 すがめだの何だのと 悪口も書かれてますが
殿中の女房の中に 恋人もいて なかなかやり手です
和歌もうまく「平忠盛集」があるくらい
笛もうまかったといいますから ただの堅い武人ではなかったのですね
貴族とつきあえるかどうかが 当時は大きな出世の糸口
坂東武者と言われて 武辺一辺倒の源氏は
この点が 問題で なかなか昇殿できなかった、というのが現実です

# by tukitodoraneko | 2012-01-28 14:17 | 大河ドラマ | Trackback | Comments(2)

東照宮御実記 人質時代  

2012年 01月 27日
とりあえず巻2に 進みましょう
弘治2年~天正5年まで 1556~1577年の22年間のことです
さて 弘治2年(1556)正月15日
人質状態の竹千代君も15才で 元服です
加冠役は 今川義元自身 理髪は関口親永
つとめ 義元の一字をもらい 
二郎三郎元信と 名をあらためました
同時に 関口親永の娘を 北の方とします
後の築山殿です
そして翌2月 義元の計らいで 東條松平義春を名代として 日近の城を攻めました
城将・奥平貞道は よく守りましたが討ち死
この城は 三河と尾州との国境にある重要な城でした
また尾張からの 侵略に備え 福釜にも新しく砦を築き 
酒井 大久保などの御家人に守らせました
信長は 柴田勝家を使って 攻めさせましたが かえって深手を負い引き返しただけ
こんな中 竹千代あらため元信は 元服も済んだことだし 一度 故郷に帰って 
墓参りがしたいと願い出 やっと里帰りが 許されました
この時 岡崎には 城代・山田新右衛門が 本丸を占拠していましたが 
元信は 文句も言わず二の丸に泊まり 「分別厚き少年」と 義元を感心させました
また 先代からの御家人で80過ぎの鳥居忠吉が 賦税役の合間 
こっそりと蔵に隠し貯めた金を見せると 涙を流し感謝したとか
その仁心 たぐいなきさま 祖父・清康公に生き写し・・・ということで
翌年の春 駿府に帰ってから この祖父にちなみ蔵人元康をなのりました
弘治4年 改元して 永禄元年(1558)
元康 17才の初陣は 三河の鈴木重教が守る寺部城攻め
順調に勝ちを収めると 「戦は後詰めが大事 枝葉を刈り取り 後に本根を断つべし
と なかなか慎重派で 城下に放火してさっさと引き上げたので
酒井正親 石川清兼など歴戦のつわものも 若大将の初陣とは思われず
その深慮に 感嘆したということですよ
義元も この初勝利に喜び 旧領の内 山中三百貫を返し 腰刀を賜りました
また 織田方の広瀬 誉母 伊保などの城も攻め 水野信元とも戦をしました
その主知 勇略に 古老も感服
ここらでそろそろ 城代も引き取り 領地を返してくれと 義元に頼んで見ましたが
翌年 尾州に軍を起こすつもりだから 国境の査定が済んでからな
と ごまかされてしまいました
永禄3年(1560)3月 駿府で 元康の北の方(築山殿)に男子誕生
のち 岡崎城を譲る三郎信康君これなり

# by tukitodoraneko | 2012-01-27 12:30 | 徳川実記 | Trackback | Comments(2)

東照宮御実記 裏切りと死  

2012年 01月 26日
さて 6才で今川の人質に出る竹千代
ここで 大原の戸田(弾正少弼)康光が出てきます
この人は 於大の方の後に 嫁いで来た北の方の父
竹千代からすれば 母方のおじいさんでした
陸路は何かと危険が多い 我が領地より 舟にて送り申さん
言葉巧みに持ちかけると 息子・政通と心を合わせ
お供の人々をだまして 竹千代を尾州熱田に連れて行って
なんと敵の織田信秀に 渡してしまったのです
信秀は 喜んで 竹千代を加藤順盛に預けました
これで 三河は我が手の内と 喜んだのですね
しかし!この次第を聞いた竹千代の父・広忠
一子への愛から 今川との多年の旧好を変ずべからず
愚息の一命は 霜台(弾正の唐名)の思慮にまかせらるべし

と 織田に寝返ろうとは しなかったのです
竹千代は 名古屋の萬松寺(今もありますね)に移され
天王坊におしこめられ 見張りがつけられました
この委細を聞いた今川方は 広忠の義心に感じ
援兵を 出してくれることになりました
遠江と東三河の勢が 差し向けられ 
← 三州小豆坂で 織田と合戦
織田方は むなしく 引き返しました
織田に内通していた蔵人信孝も 忠倫は討たれ同志も衰落
とうとう自ら 大明寺村に打って出て 討ち死し
同じく 寝返った権兵衛重弘も 山中城を捨て 落ち失せてしまいました
しかし 織田方は再度 大軍で押し寄せてくるでしょう
そんな中 まさかの一大事!
この戦の最中に体調を崩した広忠
その病状は 日々重くなっていき
天文18年(1549)3月6日 まだ24才という若さで 世を去ってしまったのです
まだ30にも満たず 親に続いてこのようなことになるとは・・・と一門御家人は 悲しみにくれました
しかし この事が織田に聞こえては大変
広忠は大樹寺に収めたことになっていますが 寺伝によれば 能見の原に密葬し 年経てから その地に一宇を建立 これが↑松応寺です
廟所は 岡崎市の指定文化財になっています
ここで今川方は 再度大軍を起こし 岡崎の手勢と合わせて その数二万余騎
織田信広のこもる安祥に押し寄せ
瞬く間にこれを制圧してしまいました
この時の 今川方の総将は あの雪斎和尚
信広と竹千代との「人質交換」を 織田に申し入れるのです
織田方でも この春に信秀が病没し その代は「勇鋭の大将」信長に移っていました
信長は 庶兄・信広を救わんと 鳴海まで進軍したところで 「安祥落ちる」の報を聞きました
そこで この交換に応じ 11月10日 三河の西野傘寺に竹千代を送って来
こちらも大久保忠俊など 岡崎普代のつはものが出迎えて これを受け取りました
竹千代 8才で 岡崎に戻ったのですね
し・か・し! それも束の間
今川では 幼い竹千代を後見するという理由で 再度 人質とし
同じ月の22日には また駿府の少将宮町に連れて行かれました
たった12日間の帰城だったんですねー
そして 岡崎へは 駿府から城代も送られ 国中が今川の思いのまま
岡崎の御家人たちは 戦の度に 先鋒として使われる有様・・・
これから 19才まで 竹千代の苦難の人質生活が始まったのでした

と、ここまでで 第一部が終わりです
第十までありますので やっと十分の一が 終わりましたよ
いかがでしょう? 長い? そうでもなかった?
私は 書いてて結構 おもしろかったですよ
続きは 皆さんの評判を聞いて 考えましょうねー
では また

# by tukitodoraneko | 2012-01-26 11:18 | 徳川実記 | Trackback | Comments(4)

東照宮御実記 人質!  

2012年 01月 25日
さて 竹千代はたった3才で 母・於大の方と別れてしまいました
そして天文14年(1545)3月 また事件です
岡崎の御家人・岩松八弥は 普段 広忠の側近く 仕えていましたが
ある日 いきなり 広忠に斬りかかり その太ももをつきさして
門外に 逃げ去りました
もちろん大勢で追いかけたのですが ちょうど外から帰って来たのが植村新六郎
すかさず八弥に飛びかかり 空堀に落ち 組み敷いて 討ち果たしたのです
この人 清康の時にも 阿倍定吉の息子・弥七を 討った人
 「二代の主の仇を 即時に誅するとは 冥加の武士
と 皆がうらやましく思った、ということですよ
この頃 尾張の織田信秀・・・信長パパは そろそろ三河に 触手をのばしてきました
上和田城の忠倫や 上野城の酒井忠尚は これに内通しているようでした
また 岡崎でも 蔵人信孝が 広忠の帰城に尽力したことを機会に力をつけ
以前の信定のように 専横のふるまいをするようになっていました
そのため天文16年(1547)の正月 病気の広忠の代わりに
今川に年始の挨拶に行っている間に 三木の領地を没収されてしまったのです
これに怒った信孝は 他の家臣の讒言のせいだと これを恨み
やはり 織田方に内通するようになってしまいました
当時 さしもの長生きじいちゃん道閲入道(長親)も亡くなり
織田信秀は この時とばかりに 兵を出して 安祥を攻め落とし
ここに その子・信広を置き 渡理・筒針にとりでを築き
上和田の忠倫 上野の酒井忠尚を置きました
その上 あの信定の子・清定も 味方につけました
このため 岡崎は 孤立してしまい 小競り合いの絶えない不穏な状況
そんな中 岡崎の御家人・筧(かけい)重忠が 降参をよそおって
上和田の忠倫に近づき みごと これを討ち取ったのです
岡崎方は 大喜びですが 織田信秀 これにはカンカン!
自ら 兵を率い 打って出るという噂が 広まりました
さすがに そうなったら 衆寡敵せず こりゃあやばい!と
← 今川義元に 援兵を求めることにしました
この時 義元が出した条件が 人質を出すこと
このために わずか6才の竹千代君は 
駿州に やられることになってしまうのですね
この時 お供したのは 石川数正 天野康景 上田元次(康宗) 金田正房 松平忠正 平岩親吉 榊原忠正 江原利全 など28名
知ってる名前が いっぱい出てきましたね
実記で 石川や天野の名前が出るのはここが
初めてです
この他に 雑兵50余人
そして 遊び友達として 阿部正宣の子・徳千代 6才
この子は 後の 阿部正勝になるのですね
今日は ここまで

# by tukitodoraneko | 2012-01-25 11:33 | 徳川実記 | Trackback | Comments(0)

東照宮御実記 家康の母  

2012年 01月 24日
天文11年(1542)12月26日
とうとう 家康 誕生です
この時には ←母・於大の方が 鳳来寺の峰の薬師に祈願して 
7日満願の日に 十二神将の寅神が現れ 授かったなどの「奇瑞」(きずい)が伝わっています
日光山の縁起にも 書かれているとありますが
英雄誕生譚には 必ずつきものですね
この時「蟇目」の役を勤めたのは 石川清兼
胞刀を奉ったのは 酒井(雅楽助)正親です
御七夜には「竹千代君」と 名づけられました
しかし その後 母の父・水野忠政が死ぬと
その子・信元は 今川から離れ 織田に寝返ってしまいます
広忠は 恩ある今川の手前 北の方を刈屋に送り返す決心をします
これが 竹千代 3才の時
そして金田・阿倍などがつきそい 水野の領内まで送ってきますと
北の方が言うには 「兄・信元は短慮の人 お前たちを無事には帰すまい
いつか 和議をすることになっても ここで何かあったらその障りになる」
そう言って 自分を置いて ここから帰れとききません
供のものは 仕方なく 駕籠を下ろし 物陰から見ていると
案の定 刈屋からの迎えの者がやってきて
信元から 供は全て 切り捨てよという命を受けてきたとのこと
北の方は 「供はとっくに返し 今ごろ岡崎に着いているだろう」と語り
無事に収まりました
この方の姉も 形原の紀伊守家広に嫁ぎ 同じように
実家に帰されたのですが その時の供は全て 斬られたといいます
さすがは 海道一の弓取りといわれる名将の母君
その深慮を 皆が感嘆した・・・ということですよ
広忠には この他に 一男三女がいました
もう一人の男子は 家元(のちに康元)といいますが
どうも足が不自由だったようで 「足なえて 生涯世に出ず 人に交わらず」と書いてあります
娘 多劫姫は 桜井松平の忠政に嫁し その弟・忠吉 その後 保科忠光に嫁ぎました 
市場殿は 荒川頼持(また義虎)へ 後 筒井政行に嫁ぎ
矢田姫は 長澤の康忠に 嫁いでいます
この後 広忠は 田原城主・戸田康光の娘をもらいますが
この間には 子供がなかったようです
しかし 福釜の松平親良 桑谷忠政 内藤信成
この三人は 「実は広忠の子」だとも伝えられています

# by tukitodoraneko | 2012-01-24 11:11 | 徳川実記 | Trackback | Comments(7)